マシュセリ

つがいの旅人

(……なんの音?)

 セリスは不意に、目を覚ました。室内には微かに月光が射していて、薄暗い。今は何時だろうか。
 いや、それより何か物音がしなかったか。昔からの癖で、なにか不審な気配がするとすぐに目が覚めてしまう。さらさらとした寝具から身を起こし、セリスは目を細く開けながら、耳を澄ませる。
 足音だ。人数は一人。不自然にフラフラとこちらに向かっている。扉が、がたがたと揺れた。こんな時間に、この部屋に来る人間などそうはいない。
「マッシュ?」
 部屋の主が帰ってきたのだから、迎え入れないわけにはいかない。セリスは慌てて髪を整えて、扉まで駆け寄った。鍵を開けた途端、嫌にノブが重く感じる。
「寄りかかってる? ねえ、少し離れ……」
 声をかけたのは失策だったのかもしれない。力任せに押し開かれた扉と、そこからこちらへ倒れかかってくる巨体とを見つめながら、セリスは思った。
「ちょ、ちょ、ちょっと待っ……!?」
 どん、という衝撃の後、視界が真っ暗になる。重力に逆らえないまま、セリスはそのまま背後に向かって倒れた。
 頭を打つ、と思って目を閉じたのだが、後頭部は彼の腕にしっかりと抱きしめられていて、痛みは全くなかった。覆い被さられるように床に寝転んだまま。セリスは真っ赤になって声をあげた。
「マッシュ? ふざけてるの?」
 離れようにも、格闘家のホールドから逃れられるほど体術は得意ではない。だが首や関節を絞められているわけでもなく、本気で絞め落とすつもりはないらしい。命の危険はないようなので、人肌の温もりにほっとしながらも、抱きすくめられているという状況に頭が追い付かなかった。
「ね、なんとか言って! マッシュ?」
 んん、と首元でマッシュが呻く。途端、ワインの強い香りに意識が向く。
「……だいぶ酔ってる?」
 そう尋ねるや否や、マッシュはセリスを一際強く抱きしめた。
「ちがう」
 だだっ子のように言い切る姿に、セリスは困ってしまった。
「で、でも、随分とお酒臭いし……自分がどんな状態かわかってる?」
「わかってる」
 首筋にかかる熱い吐息に、ぞくりとする。
「……なら、立てる? 早く離れてほしいんだけどっ」
 ん、という曖昧な返事から、彼が何を考えているかを読み取ることは困難だった。だがとにかくこの災難をどうにかせねば。セリスは勢いをつけてマッシュごとごろりと回転し、横向きになる。
「ほら!」
 早く離れて、と念じつつ、腕全体で彼の身体を押し退けた。思いが通じたのか、頭を抱きしめるマッシュの腕が緩んだのがわかった。セリスはここぞとばかりに抱擁から逃げ出す。
 上体を起こしてわずかに距離を取ったセリスを、マッシュは床に寝転んだままで見上げていた。薄暗い室内だが、彼の青い目が普段と変わらず開かれているのはわかる。

(本当に酔ってるだけ、よね?)

「……水、持ってくるわ」
 立とうとしたセリスを、しかしマッシュは首を横に振って止めた。
「行かないでいいよ」
 よくロックなんかは、酔うと呂律が回らなくなっているのだが。マッシュは淀みなく言葉を紡ぐ。
「ここにいてくれ」
「わかった、立てないくらい酔ってるのね」
 セリスはどうにかそう返し、苦笑した。
「せめてベッドで寝てよね。肩を貸すから、ほら」
 酔っぱらいのペースに巻き込まれてはいけない、と言っていたのはセッツァーだったか。横たわるマッシュに近寄り、そのたくましい腕をとって首に回す。

(私一人で運べるかしら……)

 リルムに筋肉だるまと称される彼は、その名の通り身体が筋肉の塊のような人なのだ。すでに片腕だけで随分な重みなのだが、と心配しながら足腰にグッと力を入れて立ち上がると、案外にも立ち上がることができた。マッシュの腰を押さえながら、セリスは眉を寄せる。
「ちょっと、もしかして自分で歩けるんじゃない?」
 言いながらも、肩に感じる重みは並ではなくて、立ち上がる瞬間だけこちらを気遣ってくれたのかもしれないと思った。
「ほら、少しだけだから、ちゃんと歩いてね、っ……」
 遅々として引きずり歩くその時間が、とてつもなく長いもののように感じる。ここで彼をベッドに投げ込んだら、客室に帰らなくてはならない。寄りかかる体重が、信頼の証に思えて、セリスは唇を噛んだ。
「ねえ、マッシュ。……聞こえてるかしら」
「……うん?」
「いつもは逆だったの、覚えてる?」
「ああ……そうだな」
「私は助けてもらってばかりだった」
 お互いの背中を守り、肩を貸し合う。それが仲間だ。
「忘れないでね。貴方は私にとって、最高の仲間よ」
 ベッドを目前にして、セリスは窓からわずかに覗く月を見上げた。遠くにあっても、その輝きがあるならば己は道に迷わなくてもいい。
「さ、ベッドに投げ飛ばすから、ちゃんと寝て……っ? ……?」
 おかしい。視界がぐるりと回って、月が見えなくなる。
 ぼよん、とベッドに寝転んだのは、何故かセリスの方だった。眼前には、ベッドに両腕をついたマッシュがいて、投げ飛ばされたのが自分だったことに気づいた。
「……え、マッシュ、?」
「やっぱ無理だ」
「え?」
「今日限りでさよならなんて、やっぱ無理だよ」
 セリスは思わず、身体を固くさせる。
「でも、貴方には貴方の場所で、やることがあるでしょう?」
 それはフィガロかもしれないし、そうではないかもしれない。だが、彼の場所と自分の場所とが交わらないものだとは、薄々知っていた。
「……ようやく、集う目的を達したのよ。解散するっていうことは、喜ばしいことだわ」
 正論を述べているのだという自信が、彼の目を見つめさせてしまった。
「本当に、セリスは、嬉しいとだけしか思わない?」
 そんなに真っ直ぐに、悲しそうに、問いかけないでほしかった。マッシュの目を見て、嘘を言う気にはなれなかった。かといって、言葉にしてはいけないとも思った。
「酔ってるのね」
「……そんなことで片付けないでくれ! 俺は……」
「わかってる。貴方は酒に呑まれる人じゃないもの」
 酒で流そうとしたって、岩のような彼が流されるはずがないのだから。むしろ澄みきった川のごとく、普段以上に直情になるだけなのかもしれない。
「羨ましいわ、貴方の真っ直ぐなところ」
 歪みきった己には、見ていて嫌になるくらい、まぶしい。そばにい過ぎては、焼け焦げてしまいそうになるほど。それでも、そばにいたいと渇望してしまう。
「貴方を必要としている人は、私以外にもたくさんいるはず。だから……」
 どうか、私にばかり構わないで。
 そう紡ごうとした唇は、しかし優しく蓋をされてしまった。一瞬、何をされたのかわからず、セリスは閉じられたマッシュの目を見つめて硬直する。

(ああ、これがいつもお姫さまに王子さまのする、あれなのね)

 冷静なのか、見当違いなのか、ゆっくりと離れていくマッシュと視線を絡ませつつ、セリスは呆然として思う。いつも、お話のなかで王子さまはどうしてキスをしていたのだか、考えた。真実の愛が、姫の呪いを解くから、だっただろうか。

(私は姫じゃないけど……こんなことで呪いが解けたら苦労しない)

 苦しさに耐えられず、セリスは目を逸らした。逸らしたとはいえ、彼の巨体は視界を覆い尽くしている。何度か身体を寄せたことのある、たくましい胸筋を眺めてしまい、苦しさが再び胸を襲った。
 堪え忍ぶように強くまぶたを閉じると、目尻からこぼれてしまうものがあった。
「……泣かないで」
 そっと、マッシュがそれを拭ってくれる。それすらも、ただ胸を締め付ける理由にしかならなくて。
「すまない。無理強いするつもりはなかったんだ……だから、泣かないでくれ」
 あやすためにか、愛しそうに頬を撫でられ、思わず腕で彼を押してしまう。しかし、その手を包むように握られて、セリスはびくりとして目を開けた。
「……最後にひとつだけ、頼みがある。…………おまえの気持ちを、……教えてくれないか」
 美しい瞳だと思った。海のような、広く深い青。優しく、それ以上につらそうに、けれど真っ直ぐにこちらを射抜く。手を伸ばせば、届いてしまう距離で。

 マッシュ、とセリスは答えた。限りなく愛おしく、その名を呼んだ。
 それに、ああ、とだけ彼は答えた。この上なく嬉しそうに、満たされた声で。堪らなくなって、セリスは彼の頬に手を添える。
「……でも、私はフィガロにはいられない。貴方の傍には、いられない……」
「大丈夫さ」
 にっ、とマッシュは屈託なく笑う。月夜の晩には似つかわしくないほど、明るい笑みだった。
「俺はフィガロには留まらないよ。また旅に出るつもりだから」
「……旅? どこへ……」
「いや、どこかは決めてなかった。けど、今、決まった」
 マッシュはセリスの髪をそっと撫でて、目を細める。
「セリスが俺の傍にいられないってんなら、俺がおまえの傍にいるだけさ」
 マッシュ、ともう一度名を呼ぼうとして、しかし再びセリスは言葉を途切れさせた。熱い唇が、奪うかのように降ってくる。セリスは目を閉じて、マッシュの身体を強く抱きしめた。



 月夜に、二人は溶けた。どちらがどちらなのかわからないほど、二人はひとつになった。
 やがて朝日が昇っても、二人は繋いだ手を放しはしなかった。

 後世には、金の髪をもつ二人の男女が、世界各地で魔物や怪物を退治して回った、という逸話が残されているのみである。

コメント

  1. 以前からのストーカー より:

    大好きな作品ばかり先に掲載されて感涙です!
    先日も書き込みさせていただきましたが、きれいな文章、特に情景や心情が浮かぶような言葉選び?が大好きです
    (口づけは…、だと ようやくそばにいられる、みたいな)
    更新は気長にお待ちしてますので、無理しない程度に頑張ってください!

    • いつもありがとうございます~!わたしの原動力です。
      修正できているものから更新しているので、どうしても文庫収録予定のものからになっております。
      改ページの方法を覚えたので、あとは複数作品掲載したときにちゃんと探しやすくなるか、試行錯誤していきたいと思います…
      お褒めの言葉、本当に嬉しい限りです~…言い表せない感謝…
      恐れいりますが、サイトの整理がつくまで今しばらくお待ちください。

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