マシュセリ

ゆっくり、紡いで

(敵に回したくはない、とは思っていたけどね)
 セリスは睨み合いの最中、思わず笑った。殺意の篭もった目で、じりじりと確実に間合いを詰めてくる相手。
「……冗談きついわ、本当」
 その呟きを、相手は全く意に介さず、無表情のままセリスに向かって飛び込んでくる。あまりの速さに、セリスは避けることもできずに、咄嗟に剣を握る腕で頭部を庇った。いつも、彼が魔物を殴るのはこの目で見てきている。だが、本気の一撃を実際に受けたことは当然、なかった。初めて受けた彼の一撃は、重い、という次元にはなく、およそ人間が繰り出せる威力とは思えないほど、無茶苦茶だった。
 セリスはほんの一瞬の間に、自らの腕が折れる音を聞いた。
(貴方にはどうやったって勝てないわよ、……マッシュ!)

 時を遡ること、ほんの数分。世界崩壊の折に新しくできた洞窟の調査のため、二人はこの場を訪れた。洞窟の深さはわからないが、未だ近隣の町にはさしたる被害などもなかったため、とりあえずの様子見ということで、比較的腕の立つマッシュとセリスだけで来たのだが、今思うと、そもそもそれが間違いだった。
 洞窟に生息していた、花の魔物。この魔物がまき散らす花粉に、人を操る作用がああったのだ。しかも、どうしてか男だけにしか効かない。洞窟に入った時、マッシュは既に何か嫌な臭いを感じ取っていた。その一方で、セリスは何も感じなかった。魔力は感じないからと、マッシュの気のせいではないかと結論付けて、そのまま進んでしまったのは、失策だった。
 しばらく洞窟を進んでいると突然、前を行くマッシュがその場に膝をついた。それは本当に唐突なことだったので、セリスは驚いて素っ頓狂な声をあげてしまった。
「マッシュ?」
 マッシュは、セリスの呼び掛けには答えずに、苦しそうに岩壁に寄りかかった。
「……な、んだ……? ……からだ、が……熱い……」
「どうしたの、大丈夫?」
 慌てて駆け寄ったセリスを止めたのは、マッシュだった。
「来るんじゃねぇ!!」
 普段はほとんど聞かないほどの怒号に、セリスはびくりとして足を止めた。
「……マッシュ? 本当にどうしたの?」
 二歩ほどの距離だけを空けて問いかけると、マッシュは苦しそうにセリスを見上げて、口角を上げた。
「……セリスは、なんとも、ねえのか」
 問いかけの意味は、よくわからなかった。なんともないどころか、何が起こっているのかすらわからないのだから。
「! マッシュ、後ろ!!」
 突如、奥の暗闇から何かがマッシュに向かって伸びた。今、彼は動けないでいる。代わりに守らねばと、咄嗟に鞘から抜刀し走り出したセリスを、またもマッシュが止めた。
「俺はいい、逃げろ!!」
「何を……!?」
「やめろ、こっちに来るなっ!!」
 洞窟内に、マッシュの叫び声が反響した。
「……っ!?」
 目の前に飛び出してきた何かから、反射的に剣で身を守る。かろうじてその一撃を弾いて一歩後退し、セリスは己が相対する者を直視して、驚愕した。マッシュ、だった。その腕に魔の植物をはべらせた姿で、彼はセリスを、攻撃した。
「マッシュ? 何を……!」
 何をふざけているのかと思わずその顔を見つめて、しかしマッシュがゆっくりと構えたのに、セリスは言葉を失う。放たれた凄まじい殺気に、息が止まりそうになった。
 訳も分からず、しかし本能のままにセリスもマッシュに向かい、剣を構える。その時、不意に違和感に襲われる。
(剣に、何かが……)
 彼が殴り付けた、セリスの剣。その輝く刀身にべたりとついたものに、気がついた。それは花粉だった。

そうして、今に至る。折れた右腕から剣を左に持ち替えて、セリスは構え直した。マッシュと再び睨み合うと、だらりと右腕を垂らしたままで、つい笑ってしまった。
「さすがに強い、か」
 完治させるほどの魔法を詠唱できる隙はなさそうだった。だがありがたいことに、痛みは直にわからなくなってくる。
(それに、マッシュの操られている状態を治す方が先だわ)
 仲間を呼べず、利き腕が使えず、圧倒的な戦力差がある状態で、マッシュを無力化させなくてはならない。彼はただ、操られているだけだ。怪我を負わせるわけにもいかない。
「マッシュ、正気に戻って! 私よ、セリスよ!」
 ダメ元でそう呼び掛けてみる。だが、彼の目は、相変わらず殺意のみに彩られていた。何も言葉が届かないことが、こんなにも歯がゆい。
 ふ、という吐息だけが、セリスの耳に届いた。それなりの距離があったのを、ほんの一瞬で詰められる。
 気がつけば、見慣れたマッシュの顔は目の前にあった。
「! ……くッ……」
 間一髪で、セリスは身をよじって一撃を避けた。勢いのまま地面を一回転し、マッシュを振り返る。
 何を考える暇もなかった。低姿勢で飛び込んできたマッシュの拳は、ものの見事にセリスの鳩尾へ入った。まるで吸い込まれるかのように胸の中心に叩き込まれたその一撃は、一寸遅れてセリスを襲った。かは、と肺の酸素を出しきるような吐息が漏れる。
 拳を振り切られ、岩壁に叩きつけられたセリスは、勢いのまま無様に地面に倒れ伏した。その痛み以上に、強烈な嘔吐感にその場から動けなくなった。こんなことに呻いている暇などないとわかっていて、立てない。
 マッシュは無表情のまま、倒れるセリスの眼前に立った。血の混じった咳を激しくしながら、セリスは彼を見上げた。
「…………マッ、シュ……」
 想像以上に、なんて強い男なのか。彼から情というものを一切奪い取ったならば、この世の誰にも負けはしないのではないか。
 最後の抵抗にと、左手に握った剣をマッシュに向けて突き付ける。だが、切っ先をつままれて剣を投げ捨てられ、彼の歩みを遅らせることすらできなかった。当たり前か、と苦笑を浮かべる間もなく、行き場を失った左手は、むんずとマッシュに掴まれた。
 何をするのかと思ったのと同時の唐突な激痛に、セリスは思わず悲鳴をあげてしまった。手首があらぬ方向に傾いていた。何てことはない、関節もないところをただ折られただけのことだ。
 痛みに身をよじって思わず天を仰ぐ。涙が溢れた。それは痛みからではない。
 死を、マッシュの手で与えられるならば、それもいいかもしれないと思えた。だが、そうしたら、彼は。彼の心は、壊れてしまうかもしれない。
 優しい彼に、こんな惨いことをさせている。それがひどく申し訳なかった。
「……マッシュ」
 マッシュの身体が、近づいてくる。そして、彼の大きな両手が、セリスの首を包んだ。
「う、ぐ……ぅ」
 のし掛かるように、体重をかけて。マッシュは、セリスの首を絞めた。敢えて苦しみが長引くようにか、その動作はゆっくりとしていた。
 頭と身体とが徐々に遮断されていくような、奇妙な感覚がセリスを満たしていく。見上げたマッシュの目は、ぼんやりとセリスを見つめていた。
 もし、彼が仲間殺しをしてしまったとしたら。その仲間がたとえ、どんな相手であったとしても、深く嘆き悲しみ、一生をきっと後悔するだろう。彼にそんなことをさせてはならない。たとえなにを犠牲にしても。
 セリスは、折れた両腕を動かして、マッシュの精悍な顔を手のひらで包み込んだ。ざらりとした手触りは、恐らく花粉のせいだ。
 痛みを感じなくなってきていたのは、やはり幸いだった。セリスは力を振り絞り、マッシュの首に手を回す。力一杯に首を絞め返すと、不意にマッシュの手にかかる力が減った。
(この洞窟は海が近い。一か八か……)
 ままならない呼吸のなか、セリスは身体中の魔力を出し尽くして、掠れた声で唱えた。
「波よ、来い……フラッド……!」

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