マシュセリ

くちづけは、誰も知らない

 いつものように、飛空艇のホールで仲間たちと今後の道程を話し合っている時に、不意にセリスと目が合った。その瞬間、彼女の碧い瞳はまるで怯えるように俺から逃げた。何気ない出来事と言ってしまえば、そうかもしれない。だが、それは俺にとっては終わりそのものに思えた。
 あの時の、浅はかな行為。それを彼女は知っているのだろう。どうして自ら関係を壊してしまうようなことをしてしまったのだろうかと、苦々しい後悔ばかりが胸に広がった。

 世界崩壊の後、俺は一人で仲間を探し続けていた。一年という長い時間が過ぎた頃、ようやくツェンという町でセリスと再会することができた。それから長らく二人旅になり、随分な時間と苦楽を二人で過ごした。それでも仲間が増えてきて、みんなで飛空艇で過ごすようになると、二人だけでいる時間は自然と減っていった。
 だからこそその時は、二人きりの時間が久々に持てて、ひどく嬉しかった。
「さっきは助けられたな。ありがとよ」
 汗で張りついた前髪を手のひらで払いのけながら言うと、いいえ、とセリスは微笑んだ。サウスフィガロの洞窟はとにかく湿って薄暗い場所だが、彼女は弱音ひとつ吐かない。
 この洞窟は、世界崩壊後もフィガロ城とサウスフィガロを繋ぐ重要な場所だ。旅人だけでなく、商人もここを使って東西を行き来する。最近魔物が目に余るという話を受け、二人で軽く捻ってやろうと訪れたのだった。
「それにしても俺たち、前より強くなってるような気がするぜ」
「そうね、この前より戦いが楽に感じるわ」
 ジェフ、もとい兄を追いかけてここに来た時は、ここまで余裕はなかった。勿論、精神的なものもあるのだろうが。
「セリスとの連携、体が覚えてて良かったぜ」
 そう言うと、セリスはこくりと頷いた。その表情がなんとなく気恥ずかしそうに見えたのは、きっと気のせいだろう。
「よっし、この調子でガンガン行こうぜ!」
 うやむやにするように言い放った陽気な言葉に、彼女は今度はしっかり頷いて隣で笑った。
「もちろん。……けど、まだまだ先は長いんだから、あまりとばしすぎないようにしないとね」
 フィガロ城側から洞窟に入って、目にした魔物、襲いかかってきた魔物を次々と撃破しても、まだまだいけるという実感があった。力をある程度セーブしていても、セリスと息を合わせれば余裕を持って進んでいける。
 日が入らない洞窟内では時間がわからない。もう襲ってくる命知らずな魔物がいなくなったころ、ようやくサウスフィガロ側の出口に到達した。
「……月が出てるわ」
「本当だ。そんなに中にいたんだな……気づかなかった」
 見上げれば、灯りもいらないほどに大きな月が夜空に浮かんでいた。仲間たちはフィガロ側で待っているから、もう一度洞窟を折り返さなくてはならない。予定なら、この時間には既に向こうに帰っているはずだった。
「どうする?」
 セリスが何気なく、こちらを見上げて尋ねる。月夜に彼女はよく映えていた。月光に照らされた金の髪のひとつひとつが、細く輝いている。
「そうだなぁ……」
 うーん、と腕を組んで、つと月を見上げる。帰るか、ここらで夜を明かすか。仲間たちが心配しているといけないから、早く帰るのがいいとは思う。とは言うものの、普通の魔物退治という簡単な依頼だったから、誰も心配していないような気もした。薄情ということではなく、強さを信頼しあっているからだ。
「この際、いっそサウスフィガロまで行くのが良いかもしれないわね。来た道を戻るよりは近いし……」
「そうだな。まあ疲れも溜まってるし、セリスがそれでいいなら俺も賛成かな」
「じゃあ決まりね」
 どこか嬉しそうに言う彼女に、どきりとした。久しぶりの二人きりの時間を楽しんでいるのは、なにも俺だけではないのかもしれないと。
 二人で何とはなしに話しながら歩いている間、二人旅の時のことが鮮明に頭に思い浮かんでいた。セリスは明るくなったと思う。本当に他に仲間はいるだろうか、と、彼女に何度か尋ねられたことがあった。その声の弱々しさは、決して忘れることができない。もちろんだ、と俺が答えると、セリスはその返答そのものに安堵していたように見えた。仲間たちを見つけた今、セリスはようやく孤独から抜け出せたのだと思う。よく笑うようになった彼女は、とても眩く思えた。
 洞窟を抜けるよりは近いとはいえ、サウスフィガロまでは少し距離がある。宿屋につく頃には真夜中になってしまっていて、町にはすっかり人気がなかった。なんだか嫌な予感がしていたのは確かだった。
「……一部屋しかない?」
 あいにくですが、と宿の店主は表情をぴくりとも動かさずに返す。カウンターに乗りかかり、俺は冷や汗をかいていた。
「本当に、何も、無いのか?」
「今夜はもう、なんにも、他はありませんねぇ」
 チョコボ小屋ならありますけど、と嫌みったらしく言う店主に、セリスが肩を竦めた。
「わかった。じゃあその一部屋だけで構わないわ」
「まいどあり」
 セリスならそう言うだろうとはわかっていた。わかっていたからこそ、この事態を避けたかったのに。意気揚々と部屋を案内する店主のおやじの後ろを歩きながら、最悪なことになったと思わず頭を抱えたくなった。
 もちろん、二人で一部屋なのは初めてではない。二人旅の間、何回か経験がある。だが、その時と今とでは、違う。なにがって、俺の気の持ちようが。
 セリスを意識しはじめたのは、つい最近からだった。再会してから二人寄り添って過ごし、仲間が増えてからは離れて過ごし、そうしてようやく、自覚したところだった。
「……一応ベッドは二つあるか……」
 良かった、という呟きは、彼女には届かない。
「先に湯をいただいてくるわね」
 てきぱきと身支度を調え、セリスは浴室に向かった。一人になり、ぎしりと鳴らしながらベッドに腰かける。はあ、と青臭いため息がもれた。

 小さな宿だ、浴室から水の音が聞こえてきていた。こんなこと、今までだって何度もあったのに、やけにむず痒く感じてしまう自分がどうしようもない。一方でセリスは以前と変わらず、なんの警戒心も持たずにいる。俺のことが眼中にないだとか、そんな理由ではなく。セリスは自身に向けられる感情に疎かった。そこに関する疎さはティナと同等と言っても過言ではない。とはいえ俺自身、友愛以上の気持ちを表したことはないから、セリスが普段と変わりないのも当たり前といえば当たり前のことなのだが。
 はあ、と何度目かのため息をつき、俺はついに頭を抱えた。
「マッシュ」
 いつの間に水音が止んでいたのか、急に呼ばれて思わず体ごと飛びはねる。それでも返事の声だけは上擦らなくて助かった。
「ん、どうかしたか?」
「もう出るわ。次どうぞ」
「ああ……うん」
 洞窟で長時間戦い、汗と汚れはそれなりだ。湯を浴びてさっぱりすれば、思考も落ち着くだろう。
 出てきたセリスと入れ違って、浴室に向かう。すれ違う瞬間、無意識のうちに彼女の香りと滅多に見ない湯立った顔をまじまじと見てしまった自分に気がつく。なにやってんだ俺は、と拳を握りしめたが、それでも彼女の香りと艶めかしい姿を何度も反芻してしまう。こんな風に思ってしまう人間は初めてだった。
 冷静になれ、と俺は両手で頬を叩いた。湯ではなく、冷水を浴びた方がいい。


 入浴にいつもより長く時間をとって、念入りに頭を冷やして浴室から上がると、セリスは先にベッドに沈んでいた。
 今日は随分長く戦った。ただ剣を振るう以上に、セリスは魔法も使う。口にこそしなかったが、だいぶ疲れていたのだろう。癖なのか、くるりと猫のように体を丸めたまま眠り、深く呼吸する彼女に、俺は静かに近づいた。
 まだ多少水分を含んだ彼女の髪は、何故だかいい匂いがして、自然と俺の腕を呼び寄せる。ベッドの傍らに膝を突き、セリスと高さを合わせて彼女の頭を撫でた。そうすれば、この焦燥感も落ち着いてくれるだろうと思った。
 セリスは、本当に綺麗な女だった。他にどう言い表していいのかわからない。初めて会った時こそ余裕のないきつい表情ばかりしていたが、穏やかに微笑むことを覚えた彼女の眩さには、決して目を離せなくさせる力があった。こんな人間が存在しているだけでも驚くというのに、同じ部屋で眠るだなんて、これが例えば兄だったならば彼女はどうなっているやら。
 白絹のような頬に触れると、ひやりとしていた。それでも柔らかくて、決して作り物ではないその手触りに、体が震えた。指先で顔にかかった髪の毛をそっとどかして、彼女の輪郭を優しくなぞる。
 こんなにも、近くで。どうにかなってしまいそうだった。誘うような眩さと香りが、心を掴んで放さない。俺だけに許されたこの距離が、今は俺をただ蝕む。
 もっと遠くにいてくれたら、彼女に惑うことはなかっただろうか。もっと多くの花の香りを知っていたら、これが後戻りのできない誘いだと先にわかったのだろうか。回避できたのだろうか。
「関係ねえか……」
 自嘲し、俺は首を振った。
 多くの花を知る兄を見ればそんなこと、明白なはずなのに。無駄な問いかけでしかない。それに、最初はそんな相手だと決して思わなかったのだから、そんな経験はあてにはならない。彼女とともに過ごした時間が、俺を変えてしまった。
 ん、とセリスがわずかに肩を縮める。あどけない寝顔が、馬鹿みたいにいとおしい。こうして彼女が眠るときに体を丸めるのを知るのは、ひょっとして世界中で俺だけなのではないか。
 やわらかな髪をそっと撫でて、独り、押し黙る。
 なんて、尊い時間なのだろう。そう思った。二人旅していた時に抱いていた感覚とは、全く異なっていた。飛空艇に仲間たちがいてくれるからこそ、二人だけの時間というものに、孤独や不安を感じることなくこんなにも安心していられる。明日の心配に意識を奪われることもなく、ただ、彼女との時間を見つめていられた。
 これから何度、こんな時間が取れるだろう。夜が明ければ、また俺はセリスと、仲間のうちのひとりになる。俺だけが彼女の視界にいられる時は、もう来ないのかもしれない。そして、それでも構わないと言い切れるほど、この気持ちは純ではない。
 こつんと彼女と額を合わせて。
(起きないでくれよ。頼むから)
 目を閉じて祈りながら、セリスの薄紅色の唇の上に、己のそれをそっと、当てた。
「……おやすみ、セリス」
 ただの挨拶にこれをする国もあるのに、全身が燃えたかのように熱くなって、動悸もおかしくなっていた。これはまずいと素早く彼女から身を離す。
 許されないことをした、その自覚はあった。隠し通せない己の弱さにも辟易した。
 規則正しい呼吸をして眠り続けるセリスに毛布をかけてやり、隣のベッドに潜り込んで。俺は目を閉じて、無理やりに眠った。胸を満たす焦燥感は、ずっとずっと、増していた。夢のなかで、兄がため息をついていた、ような気がした。

 翌朝、来た道を帰って飛空艇に戻ってきて、そしてこれからの予定の話し合いが開かれて。
 それでこれだ。
 きっと彼女は知ってしまったのだ。俺が向ける感情が、純粋な友情ではないことを。
 俺は、視線を床に投げ捨てて、無意識に口元を腕でぐいと拭った。

  

コメント

タイトルとURLをコピーしました