マシュセリ

ゆっくり、紡いで


 ぼすりとベッドに倒れたのは、半ばセリスに押し倒されたからだった。妖艶な笑みをたたえて、彼女はやたらと無防備に挑発する。それがどういうことなのか、本当に理解しているとは思えないのだが。
「……触るだけじゃ、済まないぜ」
 最後の牽制の言葉に、しかしやはりセリスは笑みを絶やさない。そしてマッシュの上にのし掛かるように寝そべり、誘うように頬を撫でた。そのひやりとした指先の感覚が、恐ろしいほど甘美に全身を襲う。
「……セリス」
 ほとんど無意識に、マッシュはセリスの腰に手を添えて、わずかに抱き寄せる。明らかに男性のものではない質感のその身体は、ふれ合うだけでいとも簡単にマッシュの意志を籠絡させてくる。
「まだ怖がってる。……それとも遠慮してる?」
 くす、とセリスは笑いながら自身の豊かな金髪を耳にかけた。
「そうだな……」
 怖くない、はずがなかった。やろうと思えば、この手は彼女を殺すことができる。今は優しく彼女の腰を抱くこの両腕は、ほんのついさっき、彼女の腕をへし折った。
「でも私、貴方になら殺されても良かった」
「……そういうことは、冗談でも聞きたくねえな」
「死にたいって意味なんかじゃないわ。でも、貴方ほどの強者になら負けても仕方ないし……むしろ光栄だなって」
 セリスが本心を語っているのかどうか、マッシュにはわからなかった。彼女はどこか、死に場所を探しているような気が、していた。死をあまりに身近に考えているこの娘を想うと、胸が締め付けられるように痛んだ。
「馬鹿言うな。セリスをもし、この手で、……そんなことしちまってたとしたら」
「……考えなくて、いいわ。ごめんなさい」
 ぴと、と白い指先が、マッシュの唇に触れる。
「貴方の笑顔が見れなくなるのは、やっぱり一番嫌だもの」
 なんてかわいいことを言うのだろうな、と、マッシュは言葉がない。黙ってしまったマッシュをどう思ったのか、セリスは徐々にその顔に朱を上らせながら、呟く。
「……うん、やっぱり何回考えてもそれだけは嫌ね。私は、貴方に笑っててほしいんだもの、その……なんでっていうと、」
 彼女が今更照れ隠しに紡ごうとした言葉の全てを言わせる前に、マッシュは上体を軽く起こして、その唇を塞いだ。
 今まで散々誘惑していた姿勢はどこへやら、途端にセリスはびくりと身体を震わせた。いきなりの事にその双眸ははっきりと見開かれ、海の底のような、綺麗な目だと思った。もっと近くで見ていたいと、思わず腰を浮かせたセリスを、マッシュは強く抱き寄せる。
 やわらかで、少し冷たいその身体は、本当に、こんな風にいとも簡単に触れていいものだったのだろうか。マッシュは不意にはっとして、ゆっくりと唇を離してからセリスを見つめる。セリスは顔を真っ赤にして、熟れた果実のような唇を呆然としてぱくぱくさせていた。
「……いや、その……なんというか。……目ぇ閉じてとか、言えば良かった、か……?」
 まさかそんな反応が返ってくるとは思わず、マッシュがしどろもどろに言うと、セリスは今にも泣きそうに歪めた顔を、そのまま勢いよくマッシュの固い胸に押し付けた。
「あ、悪かったって。こういうの、俺はそんなに慣れちゃいないんだよ」
 よしよしと子どもをあやすようにその頭を撫でてやりながら、マッシュはつい苦笑してしまう。
「……まあ、セリスも、みたいだけどよ……」
 その呟きに、セリスは弾かれたように顔を上げた。
「あっ、当たり前じゃないっ!」
 その顔は真っ赤なままで、目尻には涙さえ溜まっている。
「私は軍人だったんだから、そんな経験あるわけないでしょ! それに、」
 セリスは眉をわずかに寄せ、いじらしくマッシュを見下ろした。
「……こんなこと、誰にだってするわけじゃない。初めては、好きなひとと、って決めてたから……だから……」
「え、……」
 聞き違えたかと思う言葉に、マッシュはただ真っ直ぐに彼女を見つめ返す。
「貴方に近づいてももらえないなんて、耐えられない。……殺したっていいから……私にさわって。その方がよっぽどいい……」
「セリス……」
 切実に呟いて、セリスはそのまままたマッシュの胸に身体を預けてくる。その肩に、マッシュは、こわごわと手を乗せて、唇を噛んだ。
 彼女を傷付けると思えばこそ、触れたくないと思った。この腕は、いとも簡単に彼女を殺せる力があるのだから。だが、触れずにいることもまた、それ以上に彼女の心を焼く。あるいは、己の心さえも。
 肩に乗せていただけの手のひらを滑らせて、マッシュは、セリスを強く抱き寄せた。ぎゅうと、強く、壊さないように、離れないように、抱きしめる。触れるところすべてから、彼女の生命の重みとあたたかさが、じんわりと伝わってくる。
 こんなにも迸る生命を。この手は、消し去ろうとした。
 セリス、とマッシュは何度も彼女の名を呼んだ。かけがえのないその名を、呼ばずにはいられなかった。
「……もう二度とあんな真似はしないって、誓うよ。……俺だって、こうしてセリスに触れていたい」
「……ん、」
 小さくうなずいたセリスの髪を梳くように撫でながら、マッシュは一度天井を眺めた。そうして、ゆっくり目を閉じる。
「……でもやっぱり、こういうのは少しずつ、さ。やっていこうぜ」
 セリスの肩をぽんぽんと叩き、マッシュは己に言い聞かせるように言った。今の状況だけでも大分キツイものがある。正気とはいえ、本当に傷付けずにいられるのか、正直自身がなかった。彼女もこういった手合いには慣れていないのだし、早急に事を進めても、お互いに利点はないはず。
「セリスが慣れるまで手は出さないって、約束する。……あ、さっきのは、その……なんだ。まぁ、お試しってことで……」
「……手は出さないけど、口は出すってこと?」
 う、とマッシュは思わず呻いた。その発言自体にもだが、セリスの声色が、またも挑発的になっていたからでもあった。少し突けるところを見つけると、どうにも気が強くなるのが抑えられないらしかった。劣勢でも戦おうとするその勇ましさは、一度どこかに置いておけないものか。いまに身を滅ぼすぞ、とマッシュは思わず頭を抱えたくなる。
「いや、く、口も……」
「試して大丈夫だったもの。少しずつって、そういう意味?」
 ちらと胸の上の彼女を窺うと、彼女もこちらを見ていた。楽しそうににこりと笑って。
「……わかった、もうそれでいいや……」
「本当に? じゃあマッシュ」
 途端にぱっと頬を上気させ、セリスは上体を起こす。嫌な予感がするな、とマッシュは身体を強張らせた。
「なんだ?」
「キスしていい?」
「いや、駄目だって」
「どうして?」
 ちっち、と指を振って見せてから、マッシュは唇を尖らせるセリスの頬に、その手を伸ばした。きょとんとするその表情は、いたく幼い。
「どうしてって、それは俺からするからだ」
 顔にかかったやわらかな金髪を指先で避けて、マッシュはにかりと笑む。強請ったのは彼女からなのに、セリスは顔を再び真っ赤にして、かちこちに固まってしまった。

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