マシュセリ

ゆっくり、紡いで

両腕が、真っ直ぐに伸びてくる。太くたくましい、その腕は、ただ一直線に、セリスの首を捕らえた。苦しい。そしてひどく、悲しい。
 はっとして、セリスは目を覚ました途端に目の前の物体に掴みかかった。
「うぉわっ!?」
 素っ頓狂な声に、むしろセリスの方がきょとんとしてしまった。胸ぐらを容赦なく掴まれて、セッツァーは目を剥きながらセリスの両手首を抑える。
「何しやがる! よく周りを見ろ、ここは飛空艇ん中だ!」
「…………セッ、ツァー……?」
 しばらくセッツァーの紫の目を眺めて、ようやくセリスは自分のいる場所を理解した。
「わかったんなら、放せ。苦しいんだよ」
「あっ、ごめんなさい」
 つい一瞬前まで緊迫した戦いの中にいた感覚が、抜けていない。命のやり取りをしていた時から、まるで瞬間移動してきてしまったような、そんな感覚だった。
 セッツァーは呆れた顔をしつつ、襟元を整えながらベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「しかし、思ったより元気そうだな。ちっ、心配かけさせやがったくせに、起きた瞬間襲いかかりやがるとはな。とんだじゃじゃ馬だぜ」
「な、なによ、いきなり目の前にいた貴方が悪いんじゃない? ……というか、なんで貴方がここにいるのよ」
「失礼なやつだな。見舞いに来てやったんだよ」
 一応、純粋に心配してくれていたらしい。若干いたたまれない気持ちにはなったが、セリスは布団を体に寄せて、セッツァーを睨んだ。
「……なんだよ。言っておくが、何にも触っちゃいねえぞ!」
「まだ何も言ってないわよ」
「よく言うぜ、そう言いたそうだったぞ。……さすがの俺でも、さっきまで骨折してたやつに手は出さねえよ」
 骨折と聞いて、セリスはすっかり記憶を取り戻した。と言っても、忘れていたわけではない。ただ、その光景が夢ではなかったと、はっきりと理解した。
 そうだ。自分はマッシュと戦ったのだと。正確には、殺し合ったのだと。そっと、自身の手首を擦ってみる。痛みはなかったが、あり得ない方向を向いていた手首の姿を思い出した。逆の手も、折れていた箇所をなんとなく触ってみたが、もう完全に治療は終わっていた。
「……マッシュは、……どうしてる?」
 首に手を伸ばしながらセリスが問うと、セッツァーは口を歪ませた。
「どうしたもこうしたも、奴ならアンタと違ってピンピンしてるぜ」
「そう……良かった」
「奴のせいでそんな羽目になったってのは覚えてるのか?」
「マッシュのせいじゃない。彼は悪くないわ」
「悪い、悪くないの話はしていない。殺されかけたんだろ?」
「それがどうしたって言うの? 馬鹿にしないで、私はその程度のこと、……」
 命のやり取りなど、軍人ならば日常的なことだ。そしてそれは、この賭博狂いの男にとっても同じことのはず。何をバカなことを聞くのだ、とセッツァーを見つめると、彼はじっとセリスを見返した。
「馬鹿野郎」
「な、なんですって?」
「奴がその手に感じたのは、他人の命の、人生の重みだ。さっきまで一緒にメシを食っていたような相手の、すべての時間だ。そんなものを、剥き出しの素手で、奪う瞬間を感じるっていうのは、……考えただけで、ごめんだね」
 セッツァーは薄く笑って、口角だけをわざとらしく上げてみせた。
「生きてて良かった。……俺はアンタを見てただそう思うだけだが、奴にとってはどうだかな」
 首を擦りながら、セリスは俯いた。
「……彼、そんなに気にしてるのね」
 確かに、実際に自分が殺されていたとしたら、そうしてしまった彼は、例えようもないほど心を傷めていただろうというのは想像に難くない。だが事実、セリスはこうして生きている。
 本当は、とセリスは思う。本当は、目覚めた瞬間、一番最初に、マッシュに会いたかった。彼の笑顔を見たかった。大丈夫か、悪かったな。そう言ってくれさえすれば、それだけで良かったのに。
 セッツァーは腕を組んで、俄かに立ち上がった。
「歩くお人好しみたいな奴が、気にしないわけねぇだろうが」
「……うん」
 ちっ、と上から舌打ちされて、セリスはセッツァーを仰ぎ見る。セッツァーは苛ついた表情でとんとんと指先を細かく動かしながら、セリスをちらりと見た。
「後で来るよう言っておく」
「……ありがとう」
 なんだかんだと言いながらも結局は世話好きなセッツァーは、セリスを寝かしつけた後に部屋を出ていった。
 マッシュが来るかもしれないと、セリスは上体を起こしたままでしばらく待った。だが、待てど暮らせど誰も来ない。ティナは疲れて休んでいるのだろうから、仕方がない。しかし、誰も来ないというのは、変な感じがする。あのエドガーでさえも来ないのだから、やはり何か変だ。
 そう考えて、セリスは独り、いや、と頭を横に振る。そもそも見舞われるような怪我でもない。回復は終わっていて、身体は元通り健常だ。むしろマッシュだって怪我をしていた。ピンピンしていると言っていたが、今は休んでいるのかもしれない。
「……私から行ってみよう、か」
 近くの椅子に掛けられていた上着を羽織り、セリスはベッドから抜け出した。


 マッシュの部屋を目指して、無人の廊下を進む。いつもならもう少し賑やかなはずなのだが、何故だか今はやけに静かだった。セリスの靴音だけが響く廊下は、どこかよそよそしい。
 目当ての部屋に辿り着いて、セリスはその扉の前で立ち止まった。
 ふう、と一息ついてから、扉をノックしようとして。セリスはぴたりと拳を止めた。
 中から、声がする。どうやらセッツァーの声だ。中でマッシュと喋っているらしい。声のトーンからは、なかなか活発に話しているようだった。
 よし、と気合いを入れ直して、セリスは扉を叩いた。
「ねえ、私だけど、入ってもいい?」
 構わないよ、と爽やかな返事が来たことに首を傾げつつ、セリスは部屋の扉を開け放つ。
「やぁ。弟に用事かい?」
 室内で寛いでいたのは、マッシュではなかった。
「エドガー?どうして」
 双子の彼らは声が似ていて、扉一枚挟んでしまうと区別がつきにくい。エドガーの正面に座っているセッツァーは、やれやれといった風に肩を竦めてみせる。
「奴なら、ティナの部屋に寄ってからアンタんとこに行くって言って、出てったぜ」
「ティナのところに? 何故?」
「怪我の治療だよ」
「でも、ピンピンしてるって……」
 さあねぇ、とセッツァーは他人事のように続ける。
「ま、俺はちゃんと伝えたからな。入れ違いにならないようにしろよ」
「心配しなくとも、さっきした約束を忘れるほどにはバカではないよ、あいつは」
 エドガーも一歩退いたような言い方をして、微笑んだ。
「私たちはここで待っておくから。行っておいで。あいつときちんと話してくるといい」




「マッシュ?」
 案外、彼を見つけるのは早くに終わった。ティナの部屋の前で、途方に暮れて立ち尽くしていたその大きな背中に、セリスは声をかけた。
「……セリス?」
 わずかにぎょっとし、マッシュは咄嗟に自らの首に手をあてた。
「あ、元気になったんだな。良かった」
 取り繕うようにそう言うと、マッシュはセリスに正面を見せないようにか身体をよじる。それきり言葉が続かないのか、彼はそのまま居心地悪そうに押し黙った。
「……ティナ、起きないんでしょう。疲れちゃうとちょっとの音なんかじゃ全然目覚めないのよね」
 セリスが助け船を出すと、マッシュは苦笑だけして、わずかに後退りしようとした。
「怪我の治療でしょう? 代わりに私が治すわ」
 それを阻止し、セリスはにこりと微笑む。そして、ゆっくりと、マッシュの手首を掴んだ。瞬間、怯えるように彼はびくりとしたが、それでも頑なに、彼は己の首を隠そうとし続ける。
「……いや、いいんだ、これは……」
「首の傷ね? 私が付けてしまったのは覚えてるわ」
「……セリスが気にすることじゃない」
「別に気にしているわけじゃないわ。ティナが眠ってるんだから、私が治すのは当たり前のことでしょう? ……さ、こっちに来て」
 首を隠す彼の手を半ば無理やり引っ張って、セリスは自室にマッシュを引き入れた。
 マッシュが考えていることは、恐らくわかっていた。彼はとにかく、セリスを殺しかけたことを気にしている。だからセリスが反撃に出た証である首の傷を、治してしまいたくないのだろう。それを残すことで、自らの起こそうとしかけた過ちを、消さないように願っている。だが、マッシュはそれ以上に、優しい。この首の傷を残したままで、セリスのもとに姿を見せるわけにもいかないと思ったに違いなかった。だから、見舞いに来る前に、ティナに再度治療を頼みに来たのだろう。残念ながら、それは叶わなかったが。
「座って」
 セリスは、努めて淡々とした口調で、ベッドに腰かけるように告げる。少し逡巡してから、マッシュは観念したといった風にベッドに浅く座った。高さがセリスよりも下になって、普段は絶対に見えない彼のつむじがあらわになる。
「……ひどいアザになってる」
 セリスは彼の首周りを見下ろして、そう呟いた。あの時は、詠唱の余裕を生むために、マッシュの攻撃の手をほんのわずかでも緩ませなくてはならなかった。力の限り、彼の首を絞めてしまったことを覚えている。二人ともの命が懸かっていたのだ、セリスに選択の余地はなかった。そんな程度で殺せるひとではないと分かっていたが、申し訳ないことをしたと思う。
「俺の怪我なんて、放っておいたってすぐ治るさ」
「でも痛むでしょう、すぐに治療するわ。……少し、触っても、いい?」
 ぐ、とマッシュは身体をわずかに仰け反らせて、セリスの腕から逃れようとした。
「痛くするつもりじゃないわ。それとも……私がトラウマにでもなった?」
 冗談めかして言うと、マッシュはひどくつらそうな表情を浮かべて、違うんだ、と首を振った。
「セリスに、あまり……近づいてほしくないんだ。嫌だからとかじゃねえよ! そうじゃなくて、ただ……また、この手で、殺そうとしてしまわないかと、……怖くなる」
 俯いて、マッシュは手で顔を覆う。
「……あれは、あの植物みたいな魔物に操られていただけ。貴方が本心でそんなこと、できるわけがないじゃない」
 セリスはそっと、マッシュに両手を伸ばす。
「私を殺そうとしたのは、マッシュじゃない」
 慎重に、ゆっくりと、セリスは彼の首に指先をあてた。緊張しているのが、そこから直に伝わってくる。筋肉質な首筋はひどく熱く、とくとくと脈打っていた。
「……もしかしてあの時、意識があった?」
 指先に感覚を集中させながら、セリスは尋ねる。堪えるようにじっと俯いていたマッシュは、お顔を覆っていた手を下げると頭をもたげ、セリスを見つめた。そして、極小さく頷いた。
 やっぱり、とセリスは眉を寄せる。あの時の記憶がなければ、こんなにも彼は悩まないで済んでいるはずだ。
「私、どうだった? 少しは戦えてたかしら」
 冗談だとわかるような声色で言ったのだが、マッシュは唇を噛んだまま、険しい表情をしていた。
「……そんな顔、貴方には似合わないわ」
 首から頬へ手のひらを滑らせて、セリスは代わりに笑った。
 マッシュは掠れそうな声でセリスを呼んだかと思うと、おもむろにセリスの両手首を掴んで、己から引き剥がしてしまった。そのまま、マッシュはセリスの目をじっと見つめる。ひどくつらそうな目だった。
「無理しないで、いい。……自分を殺そうとした奴になんか、近づきたくないだろ」
「それは、マッシュがそう思ってるってことでいいの?」
「そうじゃねえよ。セリスが俺にしたことは、当然の反応だ。そうしなきゃ……俺は取り返しのつかないことをしちまうところだった。だからむしろ、ありがたく感じてるぐらいだ」
 ふ、とマッシュは苦しみに満ちた笑みを浮かべる。
「殺しかけただけじゃない、セリスには嫌な役をさせちまったな……本当にすまない」
 許しを乞うかのように、マッシュはセリスの手首を強く握った。
 だが、彼に落ち度など何もなかった。謝られる筋合いなど、セリスにはない。むしろ、異変に気付かずまんまと魔物の元へマッシュを連れていってしまったのはこちらの方だと、セリスは唇を引き結ぶ。
「俺が触ってても、怖くは……ないか?」
 なんて優しい人だろうかと、セリスは胸が締め付けられる思いで、首を横に振って答える。
「もっと、さわって」
 え、とマッシュは呆けた声でセリスを見つめた。開かれた青い瞳は疑問符で満ちていて、セリスはするりと手首を抜いて、すっかり傷一つなくなった彼の太い首に絡ませた。
「怖がりなのは、私じゃないわ。ねえ、そんな簡単に私は壊れたりしない」
 彼は、牙のない獣ではない。これ以上ないほど研ぎ澄まされた牙や爪を持ちながら、それをただ隠しているだけだ。そのことを、セリスだけは身をもって知っている。知っていて、恐ろしいとは欠片も思わない。
「だから、さわって。確かめて」
 セリスは、やわらかに微笑んでみせた。

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