マシュセリ

ゆっくり、紡いで

 飛空艇では、他の仲間たちが二人の帰りを待って探索準備を進めていた。その最中、ティナが不意に、ぴくりと動きを止めた。
「ティナ? どうかしたのかい」
 それを不思議がったエドガーが優しく彼女に近づくと、次いでセッツァーも手元のトランプから目を離した。
「……なんだぁ?」
 セッツァーの視線は、棚に並んだ陶器だった。それが皆、細かく揺れている。
「地震か?」
 だとしたら、洞窟に入っている二人が心配だ。思わず辺りを見回したエドガーに、ティナはふるふると首を振って答えた。
「違う」
「では一体、なにが……」
「これは、洪水の魔法」
「洪水だと?」
 ばさりと手札をテーブルに落とし、セッツァーは眉を上げた。
「セリスが唱えたんだわ。……ほら見て、海の水が洞窟に向かって流れている」
 ティナが指す窓から、エドガーとセッツァーが外を見てみると、彼女の言う通り、海が意思を持っているかのように洞窟めがけて波寄せ、動いている。
「あんな大量の海水を招き入れて、大丈夫なのか……?」
 狭い洞窟内に、あの量の水が押し寄せれば、それはかなりの勢いになるだろう。
「いいえ。むしろ、あれだけしか呼べていない。……大丈夫なのかしら」
「あ、あれだけしか?」
「本当の洪水魔法なら、それこそ洞窟が完全に水没するほどの威力があるはずよ。それが、半分も出し切れていない……きっと、満足に詠唱ができない状況なんだわ」
「危険な状況だということかい」
「わからないけれど……恐らくは」
 わかった、とエドガーは俯くティナの肩に優しく手を置いて、やわらかに微笑んでみせた。
「二人が心配だ。すぐに出発しよう」
 ティナが言った通り、洪水魔法による水害は、そこまで大したものではなかった。水は一直線に洞窟に向かっていたため、辺りの被害も少なく、洞窟へ向かうことに危険はなさそうだった。
 ぐっしょりと湿った大地を少し行くと、例の洞窟の入り口に辿り着いた。天井からは、海水がポタポタと落ちてきては肩や頭を濡らす。
「……マッシュ! セリス! 聞こえたら返事してくれ!」
 エドガーの声は、洞窟に何度も響いて消える。
「無事でいてくれよ……」
 二人に、一体なにがあったというのか。エドガーは抜き身の剣を片手に、先頭で洞窟を進み出した。
 そもそも、セリスが洪水の魔法なんて危ういものをを使えるなど、誰も知らなかった。洪水というのは、あまりに周囲に危険がありすぎる。それを無視してでも、彼女は洪水魔法を唱えた。唱えなくてはならなかった。一体どんな状況だったのか。


「エドガー、あれ!」
 洞窟の奥、暗闇の中からゆっくりと現れたのは、ずぶ濡れのマッシュだった。両手にセリスを抱き上げ、ただ緩慢にこちらへと歩いてくる。
「マッシュ!!」
 エドガーが叫ぶと、マッシュはつと頭を上げた。その顔色は、今まで見たことがないほどに青ざめていた。
「無事だったんだな、心配かけさせやがって、まったく……」
「兄貴……」
 マッシュに近寄り、エドガーはその腕の中のセリスが固く目を閉じていることに気づく。だらりと垂れた彼女の両腕は、節々が赤く腫れ上がっている。指先からはぽたぽたと海水が落ち、セリスの顔色はマッシュと劣らず真っ青だった。
「……彼女は?」
「両腕の骨が折れてる。……ずっと目を覚まさない」
「何があったんだ?」
 エドガーの問いに、マッシュは表情を険しくさせてセリスの頭を抱き寄せた。
「……俺のせいだ」
 よく見れば、セリスの首には大きな紫の手形がくっきりとついている。そこからわかるのは、この手形が大柄な男のものだということだった。
 奇妙なことにマッシュの首筋にも、同じように手形の痣ができていた。こちらは指先で押し込んだような形で、爪が食い込んだような傷痕だった。
「とにかく、早く飛空艇に戻りましょう。すぐセリスを休ませなくちゃいけない」
 エドガーの後ろから出て、ティナはするりとセリスに近寄って、濡れた髪が張り付いた額を優しく撫でた。
「魔力、空っぽ……がんばったのね」
 ティナは、セリスに触れた途端にそう呟いた。そして労るように、彼女の青い顔をさする。
「……ティナ。セリスを頼む」
「ええ。でもマッシュも休んだ方がいいわ。ひどい顔、してるもの」
「ああ……」
 マッシュはすっかり意気消沈した様子で、ただ己の体温を腕の中のセリスに分け与えようとばかりに彼女を抱きしめていた。だが、セリスはぐったりとして、目覚める気配もない。
 マッシュの後ろをついて歩きながら、エドガーは眉をひそめた。




 飛空艇に戻ってから、マッシュは事の詳細を少しずつ語った。洞窟の魔物のせいでマッシュだけが正気を失い、セリスに襲いかかってしまったこと。格闘家との肉弾戦でセリスが敵うはずがなく、彼女の両腕をへし折り追いつめてしまったこと。しかし、セリスの唱えた洪水魔法のおかげで海水が洞窟に流れ込み、魔物はみるみる内に萎れ、体中に付いていた花粉も流れ落ちたこと。魔法を唱え終えたセリスはそのまま意識を失ったこと。
「……そうだったの。こんなことなら、二人だけで行ってもらわなければ良かったわ」
 セリスの治療を終え、今はマッシュの怪我を治しながら、ティナは眉を寄せた。それに対し、エドガーは苦々しく笑う。
「いや。男みんながあの花粉に操られていたら、もっとどうしようもなかったかもしれないよ」
 マッシュ一人相手に、セリスですらこの有り様なのだから、これにエドガーやらが加わっていたら、最悪の結果になっていたのかもしれない。むしろ、この二人だったからこそ、この程度で済んだと言える可能性もあったと、エドガーはため息を吐く。
「……ところで、魔物は全滅したのだろうか?」
「多分、な。確認しようにも、俺にはできねぇけどよ」
「そうだな。あの洞窟には、我々男性陣は無闇に行かない方がいいだろう。付近の町にも、そう伝えておこう」
 うん、とマッシュは頷く。その様子はまだ本調子では決してなく、いつもの明るさもなかった。仲間を手に掛けようとしたのだからそれも仕方ないことではあるが、弟のその並々ならぬ落ち込みぶりに、珍しくエドガーは掛ける言葉がなかった。
 マッシュはしばらく黙って治療を受けていたが、ティナの手が首筋に移ろうとしたのに気づいて、その手を押し返した。
「ここは、いい。そのままにしてくれ」
「え? でも、」
「いいんだ。……ティナもずっと回復魔法使いっぱなしで、疲れただろ」
 にっ、と笑ったマッシュは、しかし全く目が笑ってはいない。そんな風な姿のマッシュを見たことがなかったティナは、反論できず手を下ろした。


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