マシュセリ

くちづけは、誰も知らない

「水はいらないか? 酒、どんだけ飲んだんだ?」
「大丈夫、一杯だけだから」
 ほのかに果実酒の香りを漂わせる彼女を抱き上げて、俺が苦笑しながら問うと、彼女もまた苦笑した声で返す。その声色に、いつもの調子が戻ってきているのを感じて安堵した。セリスの言葉を聞きたくて、つい追い詰めすぎてしまった。焦る必要も、彼女を泣かせる必要も、どこにもないのに。この腕の中にある重みとぬくもりが、ここから逃げていくことはないのだという実感が、胸一杯に広がっていた。
「今度飲むときは俺も誘ってくれよ。酒に好き嫌いはあんまねえからさ」
「そうなの? 知らなかった、……考えてみたら貴方と一緒に飲んだことって、ないわね。てっきり禁酒してるんだと思ってた」
「ま、ダンカン流は型破りだからな。……さ、部屋入るぞ」
「あ、ええ。……どうぞ」
 備え付けの家具以外にはなにもないシンプルな室内は、青白い月明かりに満たされていた。薄暗くとも、月明かりで十分に歩ける。
「お待ちどおさま」
 ゆっくりとセリスをベッドに下ろす。離れがたい、と強烈に思ったが、近すぎると止まれないかもしれない。焦って彼女を傷付けたくないと、まず距離を取ろうとした俺の腕を、細く白い手がそっと止めた。
「マッシュ」
「ん?」
 凛とした、青の瞳が俺を射抜く。じっと俺を見つめるその目に潜む熱は、どれだけ鈍感な人間でも魅了するだろう。
「セリス、……?」
「夢でも、酔いでもなくて、……」
 思わず息を飲む。セリスの手に、にわかに力が込められたのがわかった。全身が、彼女の紡ぐ言葉を待っていた。セリスはほんの少し逡巡してから、頬をうっすらと赤らめて、口を開いた。
「貴方が好き、マッシュ。……ずっと傍にいてほしい。笑っていてほしい。もう一度、……キスしても、いい……?」
 吐息のようなその言葉に、俺は頷くように瞬いた。衣擦れの音が、部屋に響く。果実酒の香りが、一層濃くなる。
 セリス、と名を呼ぼうとした唇は、ふんわりとやわらかい唇で閉じられてしまった。頬にするりと指が這わされて、ぞくりとする。誘われるままに彼女の身体を再び抱き寄せると、その赤い唇からはわずかに甘い吐息が漏れた。
 夢ではない。決して。
「……セリス、……」
 呼べば、ぱちりと開かれた瞳が、俺だけを見ている。この唇を奪う必要などどこにもないのだと。
「マッシュ。……朝まで、一緒にいてくれる……?」
 不意に幼子のような表情をしてセリスがそう言うものだから、心臓がきゅうと締め付けられるような感覚に襲われた。キスをねだったあとの願いにはとても思えない。普段は決してそんな幼さを見せはしない彼女のこういうところが、言い表せないほどに愛おしかった。
「ん、……わかった。……傍にいるよ。安心して眠ってくれ」
 笑って返すと、セリスはひどく嬉しそうに微笑んだ。
(ああ、この表情をずっと見たかったんだ)
 胸を焦がす焦燥も、止まれずに傷付けるかもしれない自らへの恐れも、どこかへ吹き飛んでしまう。
 ぎゅうと抱きしめ合う身体から伝わる熱が、ただ心地よい。改めてベッドに身体を預け、セリスが安らげるような体勢に直す。とろんと目元が緩んできている彼女を見れば、きっとこの安心を感じているのは自分だけではないのだと思う。
「おやすみ、セリス」
 夢ではないから、目が覚めても終わらない。安心して眠りにつけばいい。
「……おやすみなさい、マッシュ。…………」
 しばらくもせず、すうすうと規則的な寝息が聞こえるようになる。安心しきって眠る彼女を見て、今はこんなにも己の心は凪いでいた。こうしてずっと、過ごせたらいい。過ごせるように、明日を戦おう。その陶器のような白い頬にそっと触れて。
(……今度も、起こさないように)

 くちづけは、誰も知らない。

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