マシュセリ

くちづけは、誰も知らない

 冷たい夜風の吹く中、甲板の鉄柵にもたれながら、月夜を見上げる。結局マッシュとは、ここ何日かまともに会話もしていない。意識をすればするほど、彼に近づくことすらできなくなっていた。仲間が増えてからは、確かにそんなに二人きりの時間があったわけではないが、それにしたってこんなにも全く関わらないでいただろうか。ただただ、つらかった。心をもがれたような痛みが、何をしても消えない。
 冷えたリキュールをぐいと喉に流し込み、熱い吐息を夜空にもらして。自分でも、なげやりだなと思った。帝国にいた頃には、こんなふうに酒を飲んだことはない。酒は勝利のために戦いの前後に飲むもので、なにかを忘れたり、紛らわせたりするために飲むものなんかではなかった。
 飲み干したグラスの中で、氷がからんと鳴る。飛空艇の主がそれなりの酒飲みであるから、飲み物には困らない。ワイン、リキュールはもとより、ドマ焼酎まで揃えてあったのは驚いた。元々バーのような雰囲気を持つ船であって、納得はいくのだが。
 アルコールのせいで、やたら喉ばかり熱く感じていた。頬を撫でる風には冷たさしかなくて、身体そのものは冷えていた。
 以前なら、彼が横にいて、微笑みながら風を遮ってくれたのに。そんな風に考えてしまって、慌てて頭を振る。たとえ一杯だけでも、やけ酒は良くない。認めたくなくて、思わず酒に責任を押し付けてしまった。
「……もう寝よう」
 言い聞かせるように呟き、船室に戻る。本当に眠れるかは自信がなかった。

 グラスを置きにリビングを通ると、備え付けのソファーに人影があるのに気づいた。この二人掛けソファーは座り心地抜群で、隙あらばみな座りたがる。誰もいない夜中に意気揚々と陣取った者が、そのまま眠りこけてしまうのはよくあることだった。
 どうせセッツァーかロックだろうと呆れながら、寝顔でも見てやろうと近づく。その瞬間、えっ、と思わず声がもれてしまった。
 まさか、マッシュだとは思わなかったからだ。ひじ掛けを枕にし、大柄な身体を器用にたたんで、すうすうと寝息を立てている。
 珍しいこともあるのね、と妙に冷静に考えて、思考とは裏腹に、身体は勝手に動いていた。無意識に近いまま、マッシュの腹辺りに空いているソファーの隙間に腰を下ろす。ようやく、こんなに近くにいられる。彼の意識がなくても、狂おしいほどの胸の痛みが、ほんの少し軽くなっていくのがわかった。
「……マッシュ?」
 そう呼びかけても、彼はぴくりとも動かない。憎らしいほど幸せそうに眠っているだけだ。おそるおそる、私はその額に手を伸ばす。乱れて顔にかかっている前髪を払いのけつつ、滑るように額から頬を撫でた。
 精悍な顔つきだな、としみじみ思う。エドガーとよく似た眉目と、日に焼けた頬。ナルシェで初めて会った時は、ただでかい男だなとしか思わなかったのに。今はその時よりもずっと、彼はたくましい顔になっているように見えた。いや、そう見えるように、私の目が変わっただけなのだろう。
 この頬がやわらかく緩む瞬間が、私だけのものであったなら。彼の微笑みが、私だけのものであったなら。どんなに天に昇るような気持ちになれるのだろう。
 今にも彼が目を覚ましてはしまわないかと異様に緊張しながらも、一度出してしまった手を引く気にはなれなかった。
 このまま、唇を奪ってしまったらどうだろう。なんて、馬鹿げたことを考えて。いや、不可能ではないな、と思い直して。けれどもそれを彼が喜ぶはずもないことをよくわかっていて、己の気持ちを押し付けたところで虚しさが増すだけだと言い聞かせてみたり。
 そんな不可解な押し問答を独り繰り広げて、そういえば自分にアルコールが入っていたことを思い出した。酔っている、という素晴らしい言い訳があるではないか。一体誰に言い訳をしたいのかは、もうよくわからなかった。マッシュになのか、自分自身になのか。だがどのみち彼はすこぶる良く眠っていて、自分が何をされたかなんてきっとわからない。
 そうだ、わからないから、手を伸ばすのだ。触れた瞬間、彼への感情が心も身体も一杯になるというのはわかっているのに。
「……ずるいわよね」
 私は。そして、貴方も。
 自分の髪が彼に当たらないように、耳にかけて背中に流す。片手を彼の顔のすぐ横についても軋む音はしなかった。ただふわりと沈むだけ。さすがに良いソファーだなと思う。鼻腔を微かにくすぐったのは、マッシュの髪の匂いだ。石鹸の香りが混ざった、彼の匂い。どんな香りも勝つことができない、彼のやさしい匂い。不安な夜も、ずっと傍にいてくれた。
 誘われるまま彼に顔を近づけて。
(お願い、起きないでね)
 ごく小さく呟いて目を閉じて、そして。
 少し首を傾げ、マッシュの唇と自身のそれとをそっと重ね合わせた。緊張こそすれど、なんの甘さもない、乾いたキスだった。だから、今のはキスではないのかもしれない。
 何故だか言い様のない悲しみのようなものが沸き上がってきて、目を開けながらゆっくりと彼から身を離す。
 青い双眼と、視線がぶつかった。びくりと身体が震える。思考は完全に止まってしまった。
「……あ……」
 逃げなくては、という本能的な思いが身体を突き動かした。だが、いつの間にか掴まれていた手首がそれを許さない。気づかずマッシュの手ごと引っ張った腕は、微動だにしなかった。
「……なにしてた?」
 寝起きなせいかあまり響かない声で、マッシュは無表情で問うた。まだ誤魔化せるかもしれない、とひきつった笑顔を貼りつけてみたのがいけなかった。
「なにって、何もして……」
「うそだ」
 今さら、目を逸らすこともできなくなった。力強い碧眼に、すべてを見透かされているような感覚がした。
「……なに、した?」
 震えるほど低い声色と真っ直ぐな視線に射抜かれて、言葉が出てこない。
 一瞬の沈黙の後、マッシュの大きな手のひらが顔に向かって伸ばされてきた。それにわずかに怯えたのも束の間、髪に手を差し入れられていた。後頭部に広がる他者の熱感に、思わず身体がぞわりと震えた。
「あ…………えっ?」
 ぐっと頭を引き寄せられ、咄嗟にソファーを突っ張ろうとした手も掴まれていて、重力のままに彼に向かって倒れ込むしかなかった。それはほんのわずかな時間でしかなかったのだが、目測で落下地点を予想する間はあって。
 駄目だ、と思って力の限り背筋を酷使したのだが。マッシュの上体を起こす筋力の方が当然、何枚も上手だった。
 あ、と呟いてしまった唇に、下から滑るように彼の唇が合わせられる。後頭部を押さえる手が、口付けをより深くさせた。途端に腰から力の抜けた私を、彼はなんの障害でもないという風に胸に抱く。
 始まりは唐突であっても、終わりはゆっくりと訪れた。優しく頭を撫でられたと思うと、マッシュが静かに身を離す。荒い呼吸なのはこちらだけで、なんとも情けなかった。
「……酒くせぇな。酔ってるのか」
 え、と思わず声がもれた。彼は、自嘲するように笑んでいた。否定するべきか、肯定するべきか、わからなかった。この期に及んで、私はまだ言い訳を考えていた。
 答えに迷っているのを察したのか、マッシュは優しく目を細めてこちらを見つめた。吸い込まれそうなほどに、あたたかい眼差しだった。ずっとずっと、ほしいと願っていた眼差しだった。
「言っとくけどな、セリス」
 後頭部から手をするりと移動させて、彼はその大きな手のひらでそっと私の頬を撫でた。
「……俺は寝ぼけてないよ」
 ひどく真摯な声色でそう囁かれて、今さら顔が熱くなる。マッシュは、逃げ道を断った。言い訳を自ら捨てた。それなのに、私は。
「私は……」
 怖い。そう思った。本当のことを言ったら、どうなるのだろうと恐れた。いや、恐れていた。彼の気持ちが自分にないと思っていたからこそ、彼にこの気持ちを拒否されることが怖かった。だが、ここまで来て今さら、何がどうなるというのだろう。彼がどう思うかではなくて、私自身が、どう思っているか。ただそれだけのことを伝えるだけだ。
「私は……酔っていたとしても、あなた以外にはこんなこと、しない」
 違う、もっと。真っ直ぐに、どうして言えないのだろう。心がぐちゃぐちゃして、思わず視線を逸らす。
 マッシュのたくましい片腕が、腰を抱いた。もう片方の手は、壊れものを扱うかのようにずっと頬を撫でている。身体中にマッシュの温もりを感じて、それが嬉しくて、恥ずかしくて、どんな表情を向けたらいいのかよくわからなかった。
「……酔ってるやつほど酔ってないって言うんだよな」
 彼は呆れたように、しかしそれ以上に優しく呟いて、ぽんぽんと頭を撫でた。
「俺は……正直、セリスが酔ってても構わない。ただ、夢じゃねえなら……それだけで良いんだ。こんなに近くにセリスがいてくれるだけで」
 ずるいか、と問われたが、胸が締め付けられるように苦しくて、答えられなかった。
「いや……夢でも、いいかもな」
 セリスを抱いたままぽすりとソファーに背中を沈ませ、マッシュは呟く。
 夢。その儚い響きに、ふと我に返る。もしこれが夢だったとしたら。マッシュが真っ直ぐ私だけを見つめてくれて、頬を撫でてくれて、キスをしてくれて。
「……良くない」
「え?」
「良くないわ、そんな、……夢なんかで終わらせないで。……酔いなんかで片付けないで。私、私、……」
 夢も酒も、どちらも醒めれば終わりだ。そんなものになりたくない。そんなもので望みを叶えられたなら、こんなにも苦しく思ったりしないはずではないか。出来るならばずっとずっと、貴方と。
 言葉にならない想いが、胸を強く締め付ける。苦しさに悶えながら、思わず彼のたくましい首筋に顔を埋めた。
「……セリス」
「お願いだから……」
 戸惑うように、彼はあやすように頭を撫でてくれた。信じられないほどやさしい仕草のひとつひとつが、間違いではなく、今この瞬間、私だけに与えられている。
「……悪かった。ただ、現実味がなくてさ。おまえ、俺のこと避けてただろ?」
「……だって、貴方が私を避けるから……」
「えっ?」
「……え? ち、違うの……?」
 キョトンとした声に、こちらこそそんな声を返してしまった。顔を上げて、彼の表情を見つめる。マッシュは口を少しぱくぱくさせてから、違くはないけど、と苦し紛れのように呟いた。
「セリスが、……その、つまり。俺の、気持ちに気づいて、俺を避けてるんだと思ったんだ」
「マッシュの気持ち?」
「えっ、ああ……だから、セリスを仲間以上に大切に思ってるって」
 とんでもない言葉を真正面から聞かされて、あたまから湯気が出たのかと錯覚するほどだった。
「……そ、んなこと、……思ってもみなかった」
「ハハ。そっか。……すまん、きちんと言えば良かったな」
 困り顔で笑うマッシュに、泣きたいくらいに気持ちが溢れだす。ふるふると頭を横に振って応えると、彼はゆっくりと頷いて、真っ直ぐ私を見つめていた。
「セリス。……好きだ。……夢でも酔いでもないって……もう一度言ってくれないか」
「……あ、……」
 胸がいっぱいで、言葉がうまく紡げない。今すぐにでも答えたいのに、どうしてこうもうまくいかない。焦れば焦るほど、喉のつかえは大きくなる。どうしよう、と思った瞬間、彼のやさしい双眼に気がついた。
 私を急がせてなど、いない。彼はただゆったりと、そこで待ってくれている。
「……わたしは、」
「あっ、ちょっと待った!」
「えっ? きゃっ?!」
 突如、ぐわんと視界が回転する。真夜中なのについ声を出してしまった自分の口を押さえ、身を固くさせたが、変わらずマッシュの腕の中にいるのをすぐ理解して、ほっと脱力してしまう。
「ま、マッシュ……?」
「ん。こんなところじゃなんだろ? 部屋、連れていってもいいか?」
「部屋!? ど、どっちの」
「こんな時間に俺の部屋はまずいだろ」
 言うなり歩きだす彼に、ほっとしたような、少し残念なような、自身の複雑な気持ちについ苦笑した。

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