マシュセリ

くちづけは、誰も知らない

 今後の旅の行き先を決める話し合いの最中、思ったより近くにいたマッシュに視線を投げること数回。彼自身にも仲間たちにも気づかれないようにそうしていたのに、不意にマッシュと目が合ってしまって。
 この気持ちが読まれてしまってはならないと、思わず目を逸らしてしまった。思えばそれからだ。それ以来、彼は露骨に私を避けるようになった。
 どうしてだか、理由はまったくわからない。けれど、実際問題そうなのだ。もしかしたら、じろじろ見られていたのがとても嫌だったのかもしれない。それとも胸に秘めたこの気持ちが露見してしまったとでも言うのか。
 ぐるぐると喉の奥で苦い塊が暴れだして止まらない。飛空艇内の廊下ですれ違っても、マッシュは嫌なものでも見たかのような表情で来た道を帰ってしまった。声さえかけさせて、くれなかった。せっかく作った笑顔は行き場もなくて、むしろ彼に作り笑顔をしなければならない自分に驚いた。
 いつもなら彼を見かければ自然と頬がゆるんでしまうのに、今は彼を見つめることだけでも許されない。つい昨日、二人でサウスフィガロに行った時は、こんなことになるなんて考えもしなかった。その時はいつも通り、いや、いつも以上に、マッシュは優しかったのに。
「……いたっ」
 つ、と頬に横一線、血が流れる感覚に目を覚ます。今は戦闘中であるのに、意識が浮ついてしまっていた。
「セリス、ぼやぼやするな!!」
 珍しく、エドガーの怒号が飛んできた。彼は女性の肌に傷がつくのを極端に怒る。
 頬を適当に拭い、私は頷きながら剣を構え直した。同時に、周囲の戦いの状況を視界に収めておく。魔物はどれも小物ばかりで、油断しなければ怪我の心配はなさそうだ。エドガーがボウガンで足止めしてくれていた魔物に向かって飛び込み、一太刀で切り捨てた。その反動で近場の魔物にも斬撃を加える。
 激しく飛ぶ体液に目を細めながら、腰を入れて体重を乗せて剣を振るった。魔物の動きはずいぶんと遅れて見えて、それはそれだけ戦いに集中できている証しだった。
「あと二体!」
 そうして軽やかに大地を蹴った瞬間。足に違和感が走った。なにかが、足首に巻き付いている。咄嗟に視線を落とすと、それは地下に潜んでいた魔物の触手だった。
 駄目だ転ぶ、と思って、受け身のために突き出した両腕は、しかしまた違うなにかに掴まれた。
 これ以上は相手できないわよ、と頭の中では冷静に皮肉を言う。だが、腕を掴んでいるそれは、魔物ではなかった。
「セリス!!危ねえ!」
 聞き慣れた声だ。いや、むしろ聞きたかった声だった。先ほど周囲の戦いを視界に入れたが、意識的に彼のことは見ないようにしていたらしい。だから彼がどこでなにをしているか、把握できていなかった。マッシュは真正面から私の両手首を掴み、引っ張った。その力のまま、身体は彼の胸に向かって飛んでいく。その反動で、足に絡む魔物が地面から引きずり出された。
 ち、というわずかな舌打ちとともに、背中を強く抱かれる。
「兄貴、頼む!!」
「任せろっ!」
 えっ、と声を上げる間もなく、エドガーが私の足下に向かってボウガンを撃ち出していた。その一瞬の後、足が軽くなったのがわかった。マッシュの腕に体重を預けたまま、エドガーを振り返ると、彼は他の二体も片付け終わってにこりと微笑んだ。
「私がレディを傷つけるとでも?」
 それもそうか、と変に納得したのも束の間、自分の置かれた状況に意識を回すと、冷静ではいられない。
 己をきつく抱く、筋肉質な身体。触れた場所から溶けていきそうなほど、熱い。どきりとして、慌てて突っぱねるように身を離してマッシュを見上げた。が、顔が熱くなっている自覚があって、すぐさま視線は地面に投げつける。
「……らしくなかったぜ?」
 彼にしては、冷たい響きだった。
「あ……その、……ごめんなさい」
「いや、良いんだけどさ。気をつけろよ」
 胸が、痛い。声が出せずに、私はただ俯いたまま頷き返した。彼はすぐに立ち去っていくものと思っていたが、なにか言葉を口にしようとしてそこに居続け、しかし結局何も言わない。彼がなにかを言おうか言うまいかを迷っていることは、手に取るようにわかった。だが、それだけだ。それ以上は何もわからない。
 これ以上つらい気持ちになるような言葉だったら、きっと私は女々しく涙を流してしまうに違いない。そう感じて、彼よりも先に足を動かした。
 吐息に近いような、声にならない呟きが聞こえた。だがその程度では私の足を止める原因には成り足り得なかった。
「……それとエドガー、ありがとう。助かったわ」
 踵を返してそう言うと、エドガーは真摯な顔で頷いた。
「いいや。しかし君にしては戦況把握が甘かったようだね」
 その指摘は的を射ていて、なにも言い返せない。
「今回は大事には至らなかったが、次はどうなるかわからない。……本当に気をつけてくれよ」
 こくりと頷き、エドガーの言葉を噛み締めた。今回はマッシュは助けてくれたが、次も助けてくれるとは限らない。どうしてそんなことになっているのかはわからないが。
 気づけば、手が震えていた。はっとして剣を鞘に収める。そして空いた手のひらを握りしめた。
 何を動揺している、と自分を叱咤する。
 ぽつ、と冷たい水滴が顔にかかった。
「……雨が降りだしたな」
 乾いた地面は徐々に色が濃くなって、途端に雨足は強まってきた。雨がざあざあという音に変わると、エドガーが苦笑した。
「さて、じゃあ用も済んだことだし急いで帰ろうか」
 飛空艇に向かう仲間たちの最後尾で、私はふと立ち止まって空を見上げる。厚い雲が、太陽を隠していた。灰色の空から絶え間なく雨が降っている。雨は神さまの涙だなどと言うが、もしかしたら私の代わりに泣いてくれたのかもしれない、などと、ふざけたことを考えて。
 本当はこんなにも自分は泣きたかったのかもしれない。そう感じながら、飛空艇に向かって歩み出す。
 彼の大きな背中を、じっと見つめて。身体のどこかが痛いのはきっと、頬の傷だ。それ以外にはありえない。そう、信じた。

     

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