マシュセリ

夏だ!飛空艇だ!幽霊だ!

 その夜。ファルコン号は女性が設計しただけあって、部屋にバスルームが備え付けてある。ほとんどのことは自室で終えられるのだ。まるでホテルのようですらある。
 布団に入りっぱなしだったために汗だくになっていたセリスは、致し方なく入浴することに決めた。そういえば、バスルームには全身鏡がある。
「……なにを恐れているのよ、私ったら。馬鹿馬鹿しい」
 そもそも、ファルコン号が眠る墓地では何も起きなかったのだ。墓地には多くのモンスターが巣くっていたが、飛空艇内は荒らされてはいなかった。メンテナンスと掃除だけして、こうして空を飛んでいる。
「やっぱりセッツァーの冗談よ。それ以外考えられない」
 口ではそう言いながら、やや挙動不審気味に風呂場に向かう。誰がいるわけもないのに、扉を開けて中を確認してみたが、なんとなく水場は嫌な感じがしてしまう。大して広くもない風呂場なのに、今日ばかりは何故だかやたらとだだっ広く見えた。
 カタカタ、と窓が風に揺れる。剣さえあれば、と思ったが、幽霊に斬撃は効かないだろうし、かといって魔法をぶっ放すと船が壊れる。
「……大丈夫、エンジンルームによくいるって言ってたし、ここまで来たりしないわ。うん」
 セリスは冷や汗をかきつつ自身を鼓舞した。
 そうして超特急で入浴を終えたのは良いのだが。これから室内の灯りを消して寝るとなると、話は変わってくる。暗闇のなか、剣も魔法も使えないこの場で、どう対処すれば良いのか。
 頭の中で幽霊と一戦交えることを想定し、セリスは恐怖した。これでは勝てない、と。それでは今夜は寝ないで過ごすほかはない、と思ったが、明日はゾゾ山を登ることになっている。不眠では危険すぎる。
 次いで、リビングならば誰かいるかも、と考えたが、昼間にエドガーの背中を指差したセッツァーを思い出してしまった。
(もし悲鳴でもあげてしまったら……)
 一生バカにされる。それは堪えられそうもない屈辱だ。
(でも明日のために少しでも眠らなくては)
 夜中に安心できる場所など、この幽霊船に存在するのか。頭を抱えそうになったとき、あ、とセリスは声を上げた。

 夜のトレーニングを終え、風呂場で汗を流した直後のことだった。マッシュが上半身裸のままで髪を拭いていると、控えめなノックが部屋に響いた。
「……うん?」
 あまりにも控えめすぎて、マッシュは最初気のせいかとすら思ったのだが、徐々にその音が切羽詰まってきたので、慌てて扉を開けてやった。真っ暗な廊下に、やや涙目の女が立っている。幽霊ではなく、幽霊に怯えたセリスだった。部屋に一人でいるのが怖くて出てきたのだろうが、廊下が真っ暗で進退窮まったのだろう。恐れを隠すように身体を縮め、俯いて手のひらを胸元に押さえつけている。
「よっ。どうした?」
 あえて陽気に問いかけてはみたものの、どうもこうも、粗方のことは予想できてはいた。
「あ……え、と」
 セリスはゆっくりと顔を上げてから、視線を泳がせた。
「ん?」
「ええと……」
「なんだよ」
「その、うまく言えないんだけど」
「一人きりだと怖いって?」
 かっ、と彼女の顔が真っ赤になる。セッツァーにあまりいじめてやるなと言った手前もあり、これ以上はさすがに可哀想かと、マッシュは苦笑した。彼女の縮こまった肩をぽんと叩き、そのまま部屋に引き入れてやる。
「ま、とりあえず入れよ」
 セリスはひどく素直に、黙ってそれに従った。
「紅茶、淹れるから座って待ってて」
 そう言うと、セリスはベッドの端にこわごわと言った風に腰を下ろした。見える位置で作業をするから、大丈夫だろう。マッシュは一旦セリスから離れて、茶器を準備に向かった。わざと大きめに音を鳴らしてやりつつ、淹れたての紅茶を運んでくると、セリスはじっと固まったようにベッドの上で待っていた。
「……マッシュは平気、なのよね」
「え、なにが?」
 紅茶のカップをローテーブルに置き、マッシュは首を傾げてセリスの隣に座った。
「幽霊のこと。全然気にしてなかったから……」
 バツが悪そうに呟く彼女は、やはり幽霊が怖いらしい。洞窟やら墓地やらの探索や魔物そのものを恐れたりしないくせに、変なところに可愛げがあるなと思ってしまう。セッツァーに対して幽霊が怖いとは頑なに認めなかったのに、今はこんなにもしおらしいと、更に輪をかけて、なんだか可愛らしい。
「まあ、俺の場合はちょっと特殊というか。色々とあったからな」
「色々って?」
「えーっと、そうだな。俺、帝国とドマの戦争中に、レテ川を流されてドマ領にいたんだ。そこからナルシェに行くためには迷いの森を抜けて、バレンの滝に向かわなきゃいけなかったわけ」
 ええ、とセリスは続きを促す。だがマッシュは露骨に言葉に詰まった。
「……迷いの森んなかを通ってたらさ、その……ほら、戦争中だったからさ、結構死体とか、あってさ」
「遠慮しなくていいわ。……毒攻めのことは知ってる」
「……うん」
 迷いの森はその名の通り、深く広い。一度入れば生きて出ることは難しいと言われている。だが、帝国によって主要な水源が汚され、生き残ったわずかな人々は水を求めて森に足を踏み入れたのだろう。
「ドマ城もひでぇ有様だった。……けど、森んなかもそれなりに嫌な光景だったよ」
「……そう」
 セリスは端正な顔を歪ませる。敢えて言葉を濁したかったのは、この表情が見たくなかったからだった。
「……で、話はここからなんだけどな。迷いの森んなかでさ、俺、列車に乗ったんだ」
 場の雰囲気を変えようと、精一杯無邪気な声でマッシュはその時のことを振り返る。
「列車? ……ドマ鉄道?」
「いや、ドマ鉄道はカイエンが言うには戦争中は運行してなかったらしいんだ」
「?? じゃあ……その列車って?」
 にっ、と笑ってから低い声で、魔列車、と告げると、セリスは碧の瞳を不安そうに大きくさせた。
「死者を異界へと運ぶ、死者のための列車。それが魔列車。俺が乗っちまった列車は、あの世へのお迎えだったんだよ」
「えっ、……えっ!?」
「だから乗客はみんな幽霊。ああ、食堂車もあったぜ。食事はまあ、美味しかったかな」
 笑いながら言ったのだが、セリスにはあまりに刺激が強かったらしい。彼女は壁際に寄り、何故かマッシュから距離を取った。
「なんだよ。俺は幽霊じゃないぞ?」
「わ、わかってるけど……でもそんなところの食事を食べたりして、大丈夫なの!?」
「さぁ、前例があるか知らないし……俺は大丈夫だし、大丈夫なんじゃないのか?」
「……そんな感じでいいのかしら? ……そ、それよりマッシュはどうやって帰ってきたわけ?」
「列車止めて、下ろしてもらったんだ。丁度そこに新しい乗客が……いたからな……」
 自然、肩が下がっていた。思い出しただけで胸の奥がもやもやして、気分が悪くなる。
「……亡くなった人々ね。……ドマの」
 そこにはカイエンの家族もいた。だが、それを彼女に言うのは酷かもしれない。
「ああ。だけどドマだけじゃない。帝国の鎧を着たやつらもいた。そういや車内にもいたな、って気づいたら、死には国境がないんだよな、って思ったな」
「……列車の中で、帝国の者はどうしていたか、覚えている?」
 急に、セリスの声が鋭くなる。こういう声の時の彼女は、一人の兵士だ。ドマを攻めたのは彼女ではない。だが、その責任感の強さが、彼女を犯人に仕立てあげるのを止めない。
 マッシュはゆっくりと首を振ってみせた。
「なにもしちゃいなかったさ。……車掌が言うにはさ、車内はすでに天国と同じだ、死はすべてに平等で、魔列車の中もすでにそうだからだ、って言ってたんだ。少なくとも、俺には本当にその通りに見えた。みんな安心しきって、行き先を委ねていた」
「……そう」
「だけどさ、」
 ぐっ、と拳を握り、マッシュは続ける。
「うらやましい、なんて思いたくねぇよな。死んだほうがマシだなんて、そんなこと言いたくねぇし、誰にも言わせたくない。この世が最高だ、天国だって言えるようにしたい」
「……マッシュ」
 セリスが名前を呼んだ。その一言に、色々な感情がこもっているのを感じた。それだけで、何故だか嬉しかった。
「……ええと。話は飛んじまったけど、こういう経緯で俺は幽霊とか本当にいるんだってこと知ってるからさ。平気なんだよ」
 照れくささを吹き飛ばそうと、冗談めかして笑いかける。真剣な面持ちだったセリスは、途端に微笑んで、ゆっくりとマッシュの隣に戻ってくる。
「話してくれてありがとう、マッシュ」
「え?」
「幽霊なんてあり得ない、そんなもの嘘! って思ってたけど。貴方の話は、なんだかすんなり信じられる」
「そ、そうか……」
 そもそも結構信じていたように見えていたが、とは口には出さない。
「あり得ないと思ってるものは認められない。だからこそ……怖いのかもしれない」
「ああ……なんかわかるぜ、その感じ」
 理解できないからこそ、恐怖する。その感覚は共感できる。
「もっと……広くならなきゃいけないんだわ、私」
「そうだな、……それは俺もだ。一緒に頑張っていこうぜ」
 こくり、とセリスは強く頷いた。もう大丈夫そうだな、と思って、マッシュは心機一転、話題を変えた。
「さあて! そろそろ寝るか。明日は山登りだしな、しっかり休みたいだろ?」
「ええ、そうね」
「うっし、ランタンあるけど持っていくか? 廊下、真っ暗だったし」
「えっ?」
「えっ?」
 疑問に疑問を重ねて、部屋にはしばし沈黙が流れた。
 もしや今の話でランタンなどいらないほどの幽霊耐性がついたんだろうか、それともまさか一人で廊下はまだ無理だから、部屋まで送ると思っていたのかもしれないな、いや待てよ、まさかこの部屋から出るつもりがなかったのか。
「……帰らなきゃダメ、かしら」
 待てよ待てよ。まさかのやつか。マッシュの脳内は、超速で回転していた。が、思わぬ事態に処理が間に合わない。
「え、えーっと……?」
「だって、一人じゃ怖いじゃない! 今まで怪談話してたようなものだし」
「いや、別に怪談じゃねえし……話の流れからして、もう大丈夫なのかと」
「そんなすぐに平気になるわけがないでしょ!」
 セリスの言葉は当然といえば当然なので、マッシュは返す言葉がない。
 これまでの旅の中で、多少は甘えることを覚えたらしいセリスは、なんとなくマッシュには随分と気安く物事を放り投げてくるようになった。頼ってくれてもよいと、こちらからも何度も言い含めていたから、その結果というならば、これは順当なのかもしれない。
「……わかったわかった。じゃ、俺はそこらへんで寝るよ。ベッドはセリスが使っていいから」
「ええっ、ちょっと待ってっ」
 ぽんぽんと布団を叩いてみせた腕を、セリスが両手でひしと掴んだ。
「なんだよ?」
「……もしも、もしも布団の中から、ゆ、幽霊が出てきたらどうしたらいいの?」
「いや、出ないって。大丈夫だよ」
 失敗したな、とマッシュは思った。魔列車の話で、セリスは完全にこちらのことをその手の経験者と思ってしまったようだった。美女と呼んでも差し障りないようなひとに涙目で片腕を取られ、頼りにされるのは悪い気はしない。しないが、後でセッツァーあたりに恨まれるような気がする。
「……じゃあ、あれか。一緒に寝るか」
 そんなわけないでしょ、と怒られるのを期待して冗談ぽく言ってみたが、セリスがひどく安堵した顔をしたので、マッシュは今さら引き返せなくなってしまった。
 仕方ない、と覚悟を決めてベッドに寝転がると、それを追ってセリスも身体をすべらせるようにベッドに上がり込んでくる。
 金の髪が、ふわりと芳しい香りを放っていた。心地よい香りだ、とマッシュは漠然と思う。こちらからはできるだけ身体を近づけないようにじっとしていると、セリスがもぞもぞと、腕に身体を寄せてくる。他者の体温をこんな間近で感じるのはいつぶりだろうか、といらぬことを考えそうになって、マッシュは唇を引き結んだ。少し迷った風な後、セリスが額をこちらにすり寄せてきて、マッシュはなんとなく、呼吸を止めた。
「おやすみなさい、マッシュ」
「……おう、おやすみ」
 しばらくもしないで、穏やかな寝息が真横から聞こえてきた。よっぽど緊張して疲れていたのかもしれないし、人のぬくもりに安心できたのかもしれなかった。
 彼女が自分の元を訪ねたのは、正しい、とマッシュは思った。兄やセッツァーでは危険すぎただろう。彼女もわかっていてここに来たのだとは思うが、それを不可抗力とするか、選択とするか。
 明日は寝不足だな、と覚悟したが、気がつけばマッシュもまた、いつの間にか深い眠りに落ちていた。

 上半身裸であるのをすっかり忘れていたのをマッシュが激しく後悔するのは、翌朝エドガーが部屋を訪ねた後の話。

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