マシュセリ

森のくまさん

 ある日の、森の中で。熊さんに出逢った……なんて、嘘だと思うでしょう。でも、本当にいたのよ。とても大きくて、とても怖くて、とても優しい熊さんが。

 その日は、少し遠出をして普段は行かない国境沿いの森に行ったの。そこには近所には咲いていない草花があって、植物研究のためにはどうしても行かなくちゃならない場所だった。
 森とはいえ、かなり拓かれたところだったから、危険も少ないだろうと思っていた。だから、驚いたわ、いきなり草むらから大きな熊が出てきたんだもの。
 黒い毛皮で、首元には白い一線の入った、大きな熊だった。後ろ足で立った背丈は、大の男よりさらに高いくらい。圧倒されるほどの存在感だった。
 私は驚いたけれど、咄嗟に腰の短刀を抜いた。やられる前にやってやる、と思ってその熊に向かって駆け出したのよ。すごい判断をしたという自覚はしているけれどね。
 けれど、私はぴたりと止まってしまった。熊の手のひらって、見たことあるかしら。犬みたいに肉球があるんだけど、黒くて、大きくて、とっても固そうな皮膚よ。殴られたら無事では済まないと思う。でもその上に、小さく載っていたものがあったの。
 そう、私のイヤリング。
 いつの間に落としたのかしら、それをその熊が拾っていたわけだった。それを見て、私はどうするか迷った。だって熊よ、迂闊に近づいたら爪でも牙でも、簡単に殺されてしまう。だから迷ったのは、ほんの一瞬だった。私はもう一度短剣を握りしめて、熊の腹めがけて飛び込んだの。
 そうしたら、また驚いた。熊は、するりと私の腕を受けて、攻撃を流したのよ。それこそ本当に、流れるようにするりとした、自然な動きだった。

「落ち着けよ、ほら、君の忘れ物だ」

 草原にごろりと投げ飛ばされた私の背中に、誰かの声がしたの。確かに、あのイヤリングは私のだった。けれど、一体誰がそんなことを私に言うのか。

「じゃあここに置いていくから」

 思わず、熊を見上げたわ。そうしたら熊は屈んで、そっと私のイヤリングを地面に置いていた。

「えっ?」

 咄嗟に言えたのは、それだけ。熊はサファイアみたいな青い目で、こちらをじっと見つめていたわ。

「ああ……驚かせたな、すまん」

 熊が、しゃべっていたの。驚いたなんてものじゃないわよ。私は草原に無様に転がったまま、熊とイヤリングとを交互に見ていた。
 けれど、熊が後ろ足で立ち上がって一歩去ろうとした途端に、私は叫んだわ。

「待って!」

 熊は不思議そうに、その青い目をこちらへ向けたの。

「……待って」

 もう一度確かめるように言って、私は慌てて立ち上がった。その間、熊は律儀に待ってくれていた。私は、何から聞いたらいいのかわからなかった。けど、とりあえず言わなきゃいけないことはあった。

「その、ごめんなさい。私、早とちりしたみたいね」

「……いや、」

 熊はわずかに驚いたように、目を見開いていた。

「それで、貴方は……何者?」

「俺は……まあ、見た目は熊、だな」

 言い淀んだその様子がいかにも人間味に溢れていて、急に肩の力が抜けたわ。この熊は、ただの熊ではないのかもしれないって思った。本当はまだ近づくのは少し怖かったけど、私は短剣をしまった。そうするのがこの不思議な熊への礼儀だと思ったから。

「お名前とかは、あるの?」

「そりゃあるさ。……けど、君、怖くないのか?」

「怖いわ。でもこんな武器じゃ貴方には勝てないってわかったし」

 私は肩をすくめて笑った。体術を会得した熊なんかに勝てる人間がいるのだろうか。

「確かに、負けはしないな。でも君みたいに立ち向かってきた人は初めてだった。大抵は逃げちまうからさ」

 熊はなんとなく愉快気に言って、足下のイヤリングを再び拾うと、私に向かって差し出してくれた。。

「これ、しっかり持っていきな。落とさないように」

「ありがとう、……ええと。熊、さん?」

 両手を皿のようにしてイヤリングを受け取ると、熊は大きな口を開けて笑ったの。そこから覗く牙はやっぱり凶暴な熊のそれだった。けれど、もう怖いとはあまり思わなかった。

「俺はマッシュ。君は?」

「マッシュね。あ、私はセリス。今は植物学者なの」
「今は、って?」

「ただの学者が、あんなに短剣使いが上手いわけないでしょう? そういうことよ」

「あぁ、なるほど。じゃ、俺も、今は熊だ」

 えっ、と私はこの日何回目かわからない驚きで、目を見開いたわ。熊に遭遇しただけでも相当驚きなのに、その熊がしゃべる熊で、その上、本当の熊でもないなんてね。

「まさか……昔は人間だったなんて言うんじゃないわよね」

 はっは、と熊は大きな呼吸をして、恐らくは笑った。

「そうそう、そのまさかだ」

「し、信じられない……けど、そうとしか考えられないのは確かね」
「まぁ、俺も最初はビックリしたけどなぁ~、慣れちまえば悪くはないぜ!」

「いや、慣れって貴方ね……」

 熊なんかになっているわりに、やけに呑気な人だったわ。明るいというのか、バカというのか、脳天気というのか。気が抜けてしまうような熊。いえ、人だった。

「でもこんな拓けた森にいたら、危ないんじゃない? 人間に狩られるわよ」

「そんなヘマはしないよ。それに今日はたまたまさ。国境沿いはほとんど来ないんだ」

 聞けばこの熊、もといマッシュは、隣の国に住んでいたらしい。だから熊になってからもそちらの山や森で暮らしているのだとか。まぁ、そういう普段の事情は、最悪どうでもよかったのよ。もっと気になることがあるんだから。

「……で、聞いてもいい?」
「んん? なにを?」

 マッシュは、きょとんとして青い目を瞬かせた。

「どうして熊になっちゃったの? ってこと」

「あー……」

 言いたくないのか、彼は頻りに視線を泳がせていた。私も結構突っ込んで聞いてしまった自覚はあったから、それを咎めたりはしなかった。答えてくれるのかと、ただ彼の言葉の続きを待った。

「んー……そうだなぁ。なんというか……」

 かりかり、とマッシュは鋭い爪先で鼻先をかいていた。

「俺、多分次男でさ、いわゆる出家をしたんだけど……俺の血を残すのってあまり良くないわけだろ? それで、大臣……じゃない、じいやが魔法使いを呼んで、俺を熊にしたんだ」

 多分次男だとか大臣だとか聞こえて、私は不思議に思ったのだけど、それより彼があまり悲観的に語っていないことに驚いた。だって、たかだか家出するのに熊にされるなんて、考えられないわ。割に合わないじゃない。

「熊にするのは……ちょっとやり過ぎなんじゃないの?」

「あぁ、でも元に戻れる方法もあるんだ」

「でも、貴方、まだ熊よ」
「一人じゃできない方法だからなぁ、みんな逃げちまうから不可能だったんだよ」

「なんだ、そうなの。じゃあ私が手伝えば元に戻れるのかしら?」
 これも何かの縁だろうと、もうその頃には、彼に恐怖して殺そうとしていたことなどすっかり忘れてしまっていたわ。というか、彼の持つ独特の雰囲気が伝わってきていて、私は何故だか彼を信頼していた。だから、今更彼が鋭利な歯を見せながらうんうん唸っても、微塵も恐怖はなかった。

「その通り、なんだけどー……そんな一筋縄じゃあいかないんだよ」

「なに? ……まさかお姫さまのキスとか? 私は学者だから、それはさすがに面倒見れないわよ」

 いやいや、と彼は慌てて手を振った。なんとなく、赤面しているようにも感じたけれど、熊の顔色なんてわからないから、本当のところはわからないわ。
「そ、そんな過激なことじゃなくてだな……ただ踊るだけだよ」

「踊るぅ?」

「手をつないで、踊るんだ。そうしたら戻れるらしい」

「なら簡単ね。はい」

 私はすぐに両手を差し出したのだけど、彼は少し躊躇っていた。それは、やっぱり彼の優しさが原因だったのだけれど。

「……俺の手、爪が長いから」

「私も最近、切るの忘れているから長いわよ。気をつけてね」

「それとは比べものにも…………いや、……すまん、ありがとう」

 彼の手は、思った通り温かかったわ。爪は気を付ければ全然当たらないし。

「私、これでも昔はダンス得意だったのよ。任せて」
「……すまん、恩に着るぜ」

 彼はややしゅんとして、黒くて小さな耳をたたんでいたけれど。意外や意外、そこそこ踊れるみたいだった。

「マッシュも上手いじゃない! ほら、次は右よ」

「俺に踏みつけられないよう気をつけてくれよ」

「そんなヘマはしないわよ、ほら」

 口で音頭を取りながら、私は必死に彼を導いた。最初こそ慌てていた彼も、次第に私と口を揃えてリズムを取っていた。
 森で踊る、熊と女。端から見たら、すごく奇妙だったでしょうね。でも私たちはとてつもなく集中していた。

「ターンも決められるかしら?」

「ようし、任せろ!」

 私は片手だけを繋いだまま、まず彼から距離を取った。そして彼に合わせて、くるりと回ったの。その時、やけに景色が遅く流れていったのは覚えてる。
 最初に、私を回す彼の姿があって、それから森の風景が続いて。再び同じ方向を向けば、目の前にいるのは熊なはずよね。けれど、そうではなかったの。
 私は回り切ってから、彼を見上げて呆然としてしまったわ。

「? どうしたんだ、セリス」

 きょとんとしてこちらを見る青い目は、一緒なのに。

「……貴方、体が」

「えっ? あっ!?」

 彼は、人間に戻っていたの。ただし、ちょっと問題ありのままで。

「あ、あっち向いてくれっ」

 くるっと肩を掴んで回転させられたのだけど、すでに、私は見ちゃったのよね。何をって、その、つまり、いきなり熊から人間に戻ったら、衣服がなにも無いってこと。
 そうね、とってもたくましい体つきだったわ。筋肉質で、少し日に焼けていた。あとは言えないわ、彼の名誉もあるしね。

「こ、これ羽織る?」

「す、すまん……色々と」

「家出してからずっと熊なら、もしかして衣服なんて持ってないんじゃないの? ……うちに来るのが一番近いと思うんだけど……どうする?」

 え、と彼は明らかに嬉しそうにこぼしたわ。

「いいのか?」

 勿論よ、と私が言ったのは、全裸の人間を森に置いていくのはあまりにも非道だと思った以上に、彼のことが気に入っていたから、かしら。だって、熊の姿でも仲良くなれたのよ。人間の姿だったら、言わずもがなだわ。

 だから、私はいつも娘に言うの。森の熊さんには気を付けなさい、って。熊は命を奪うのよ。命を奪わない熊は、心を奪うのよ。だから、気をつけなくちゃ駄目なのよって。
 そう言うと、夫はかりかりと鼻先をかいてあらぬ方向を見るんだけれどね。

コメント

  1. 以前からのストーカー より:

    移転おめでとうございます!
    徹夜の作業だったのでしょうか
    お疲れ様です!
    気長に移転作業してください
    バックアップしてて良かったですよね…
    この作品、本当に大好きなので移転一作目なのが結構嬉しいです

    • 管理人たらこ より:

      いつもありがとうございます~!移転後、確認にもちょうどいい文量だったのでお試し掲載中でした。
      順次、同様な感じで作品格納していきたいと思います。
      また、別途WEB拍手もご用意予定です~またお気軽にコメントくださると幸いです。
      まだ現在改装中ですので、全体的に改修していければと思います。

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