マシュセリ

お寺に来たキミ



「よく帰ったね、セリス」
 ケフカは周りを囲む使用人を突き飛ばし、優しく労う素振りでこちらへ歩み寄る。そして、偽りの門番に捕まったままのセリスの頬へ指を滑らせた。
「傷は果実を熟れさせる……ここから逃げて、おまえは一体どれほど傷付いたかな」
 セリスから合図が出ない限り、彼女を戒める手は離せない。汚い手で触るな、と喉まで出かかるが、寸でのところでマッシュはごくりと飲み下した。
「犬は所詮、犬。身に染みてわかったろう。どうだい? その美しさゆえに男たちに踏みにじられる運命の味は」
「……味なんてなかった、わ」
 その悲壮な声に、思わずゾクリと身体が震えた。なんて、自然な。人を騙す悪魔ですら、こんな風にごく自然に芝居ができるだろうか。
「そうかい。ならば私がたっぷりと教えてあげましょうか」
 ぐ、とケフカがセリスの顎を掴む。その瞬間、マッシュは合図よりも早くセリスを解き放った。
 ぱし、と小気味良い音が響く。
「いいえ、今日は趣向を変えましょう?」
 セリスが、ケフカの顎を捕らえたままに、にこりと涼やかに笑ったのを見、マッシュは寒気すら感じてしまった。


 何をする、と言いかけて、ケフカはそのまま床に押し倒された。セリスは馬乗りになって、それでも顎を放さない。上品な笑みを浮かべたまま、ケフカに体重をかける。
「こんなに簡単にできるのに。どうして逆らえなかったのかしら」
「は、放せっ!! おい、おまえたち、何をぼうっと見てる!!」
 使用人たちは突然のことに怯えてしまい、その場で立ちすくんでいる。
「いやー、まあ、ぼうっと見てるつもりはなかったんだけど。セリスの気の済むまでじっとしてるよ。な」
「な。セリスさんの好きにやっちまえ。扉は閉めとくからさ」
 マッシュとゲンゾウは、門番の制服である帽子を投げ捨てて、ケフカに笑いかけた。
「! 貴様ら……どこかで見たな。あの寺の腐れ坊主どもか!!」
「ねえ、そんな風な悪い言葉遣いは良くないわ」
 吠えるケフカの顎を、セリスはさらに握りしめる。
「身勝手な理由で、由緒正しい建造物を壊した貴方には、そんな言葉遣いは許されないわ。……そうね、そんな言葉遣いだからこそ、怖かったのかもしれない」
 淡々と、セリスはケフカに語りかける。その様子は、過去の傷痕を指で確かめているようだった。
「私の心は弱かったし、貴方の心はおかしかった。それだけ、なのかしらね」
「なにを、言って……」
「ケフカ。私はこの館で一人のある人間を殺しに来たの」
 殺しに来たと、彼女は強く言った。そんなこと、聞いていない。マッシュは反射的に目を見開いた。
「セリス?」
 きらりとセリスの手の中で刃物が光る。その隠し持っていたナイフで、セリスはケフカの首筋を軽く叩いて見せた。
「力を入れたらさようなら、ね」
「セリスさん、そいつが如何に屑だろうと、殺生は駄目だ!」
 ゲンゾウが慌てて叫ぶ。だが、それを制したのはマッシュだった。
「セリスを信じよう」
「だが!」
「心配いらないわ、ゲンゾウさん」
 セリスは忌々しげに、ケフカを離した。ケフカは床に頭をぶつけながらも、セリスを睨み上げた。
「何をする!!」
「何って、これをよ」
 すぱ、とセリスが切りつけたのは、自身の手のひら。それから一瞬遅れて、傷から血が流れ出した。
 血はぽたぽたと、絨毯を赤黒く染め上げる。
「……は? 何をしているんです?」
 ケフカは呆気にとられて、セリスの手のひらを見つめていた。
「死んだのよ。貴方の妻セリスは、今。ここでね」
 敢えて血を絞り出すように、セリスは手を握りしめた。
「物語は……そうね、悪の限りを尽くした貴方は、寺の関係者に復讐されて、妻を盾にして逃げ延びた……こんなところでいいかしら」
「……俺に手を出さなくていいのか? 憎いんだろう、殺したいのだろう?」
「簡単に殺したってつまらないでしょ? 貴方が無能な人だと帝国に周知させてからでも遅くないわ」
 にこ、とセリスは笑って立ち上がる。セリスは最初から、けりをつけるためにここまで来たのだろう。
 死んだことにせよ、とはつまり、もう関わらないでほしいということだ。そして、帝国に帰るつもりもないということでもある。
 ふ、とケフカは口角を上げた。
「生きて帰れると思ってるのかい」
「どうして?」
「ここに来るまでに見ていなかったのか? 私の雇った有能な傭兵たちが、おまえらを待ち構えているんだよ」
 ああ、とセリスはわざとらしく明るい声で、今思い出したかのように言う。
「その人たちなら、今は他所で仕事中じゃない? 外は大変な騒ぎらしいわよ」
 実際、ケフカの館の周りはとんでもない騒ぎだった。今まで不満を溜めていた民衆が一斉に立ち上がり、僧たちと共に一揆を起こしていたのである。
 民衆たちは水面下で戦いの準備をしていたのだが、戦いを始めるきっかけに困っていたのだ。僧たちの奇襲を知り、ようやく彼らはあたためていた矛を握ることとなったわけだ。
 さらにこの後、この一連の騒動はドマ全土に飛び火し、国内に点在する帝国の支配地をすべて叩き出す契機となるのだが、それを知るのはまだ誰もいなかった。
「ケフカ様!! ケフカ様!! ここを開けてくださいませ!!」
 どんどんと、必死に扉が叩かれる。壊れんばかりのその勢いに、全員の視線が注がれた。
 マッシュは咄嗟に返事をする。
「私は忙しい、後にしろ」
「しかし、民衆が武装蜂起いたしました!! 門番が行方不明になっており、鎮圧に時間がかかってしまい、すぐに近くからの増援を……」
「黙れ、私の邪魔をするというのか! それくらい自分たちでどうにかしろ!」
「ケフカ様!!」
「下がれ!!」
 数秒間、扉の向こうは静かになる。だが、すぐに足音が走り去っていくのがわかった。
 声真似も特にしていないというのに、よほど焦っていたのか、或いはよほどケフカと会話がないのか。どちらにせよ、このような口調は何年ぶりだったかと、マッシュは自らを笑った。セリスが首を傾げてこちらを見上げていたが、その疑問に答えてやることはしなかった。
「……さあて、俺たちも加勢しに行こうか!」
 ゲンゾウは元より、セリスも力強く頷いた。その表情はさっぱりとしていて、当初よく浮かべていた申しわけなさは見当たらない。彼女は、ようやく楔から解き放たれた。ケフカと対峙することで、自由となったのだ。
「ああ、そうだ。手は大丈夫か? これで止血しておけよ」
「ありがとう」
 布切れを受け取って、セリスは微笑む。
 強い女だ、と思う。心も体も、壮健でしなやかで。だからこそ、こんなにも目が惹き付けられるのか。
「ケフカ。貴方とは、二度と会うことはないでしょうね。……さようなら、哀れな道化」
 不様に床に座り込むケフカを後目に、セリスはそう言い捨ててから立ち去った。


 帝国統治域で朝から始まった暴動は、予想外に長く続いた。しかし火付け役であった駆け込み寺の僧侶たちは、その日の夕方には寺に戻ってきていた。
 寺自体は帝国の支配下ではなかったし、目的はケフカ本人への報復だったからだ。
 結局ケフカに危害は加えなかったが、館からセリスがごっそりと金品を持ち帰っていたことには、さすがに呆気にとられた。
「だって門の修繕費は必要でしょう? それに、手切れ金も貰っておかなくちゃ」
 にこ、と上品に笑うセリスは、精神的にずいぶんとたくましくなっていた。
 それを聞いた師匠は一際愉快そうに声を上げた。
「いいから、着替えて傷の手当てをしてこいよ。そのぼろ服はもういいだろ? ほら」
 マッシュが促すと、セリスは素直に奥の客間へ下がっていった。
「なるほど。しっかりした娘じゃのう、改めて気に入ったわ」
 くつくつと笑う師匠に、マッシュも釣られて笑ってしまう。
「さて、こうも虚仮にされてケフカは……いや、帝国はどう出るのか見物じゃな」
「やはりケフカだけという話では終わりませんか」
「無理じゃろう。しかし、カイエン殿を始め、ドマ国の侍は既に戦う用意が出来ている。今回も急な話であるのに、市民たちを動かして我々を援助してくださった」
「数日は様子を見るしかなさそうですね……」
 うむ、と師匠は深く頷き、次いで神妙にしているマッシュの背中を叩いた。
「マッシュ、おまえもなかなか話がわかるようになってきたな」
「は、はい?」
「今回のことも、おまえはよくセリスを助け動いた。内心、おまえが暴走しないかとひやひやしていたが……杞憂だったようじゃ」
「……いえ。いつそうなっても、おかしくはありませんでした」
 セリスが無茶をしようとするせいで、飛び出してしまおうと何度思ったことか。だが、セリスの力量を見誤っていたことがその理由だろう。この一連の出来事は、己にはまだ見る目が足りないのだと、気づくきっかけとなった。
「そう自覚しているならば、良い。おまえは良くも悪くも、見たままを信じ過ぎる」
「はい」
「あの娘は、面白い。見た目は絹のごときじゃが、なかなかどうして、強い糸じゃ」
「糸……確かに、俺も最初はそう思っていました。けど……」
 今は違う。彼女は糸ではなく、もっと美しく、かつ強いものだろう。簡単に消えそうにもなく、周りすら巻き込みそうな。まばゆいばかりの、光だ。
「マッシュ。客人に手を出すことは許さんぞ」
 大丈夫です、とマッシュは笑って返した。
「すぐ客人じゃなくなりますからね」


 夜の帳が空を覆い始めたころ、マッシュは再びセリスを伴って定食屋に来ていた。
 奥の座敷に通されるや否や、するりと頭巾を脱いで、セリスは微笑む。
「ありがとう。また誘ってくれて」
「セリスが一番頑張っただろ。そのご褒美ってとこさ」
 胡座をかいて座り、マッシュはにかりと笑った。セリスは照れたように肩をすくめる。
「頑張れたのは、マッシュがいてくれたから」
 頭巾をたたみながら、セリスは何気なく呟いた。うん、と答えながらも、マッシュは頬が緩まっていることを自覚する。
「これで晴れて、自由の身だな」
「ええ……そうね」
「これからどうするか、決めたか?」
「それはまだ。でも、ケフカに大見得切ったんだから、ちゃんと自分で選んで歩いていくつもり」
 どこへだって行ける、とセリスは言っていた。寺から去っても、確かに彼女ならばどうにかやっていける気がした。
「でも、何も足枷がないって、とても素敵だけど……」
 セリスは困ったように笑う。
「少し、戸惑ってる。どこへ行けばいいか、わからなくて……」
「一気に軽くなっちまったんだ、そりゃ仕方ないよ」
 まるで昔の自分のようで、マッシュは優しくセリスを見つめた。
「俺もさ、寺を出ようかと考えててな」
「えっ?」
「俺は、ドマには逃げに来たんだ。重たいものは全部置き去りにして、身体一つでここまで逃げてきた」
「貴方も持てないような、重いものだったの?」
 ああ、と頷きながら。マッシュは遠い故郷を眼裏に浮かべていた。
 砂漠のなかの、機械の城。あたたかで、しかしそれ以上に窮屈で、息苦しい場所。すべて、自分は置き去りにしてきてしまった。逃げれば、解放されると信じていたから。
「……けど、セリスを見ていたら己の弱さが情けなくなってな」
 セリスは戦ったのだ。一度は逃げられても、心には残ってしまうから。戦わなくては、勝つことはできない。
「ドマが落ち着いたら、故郷へ帰ろうかと思ってる」
「マッシュの故郷……どんなところなのか、聞いてもいい?」
 どこなのか、と彼女は問わない。それに感謝しつつ、マッシュは視線を落とした。
「みんな、笑っていた。だから俺もいつも笑っていた。幸せな場所だった」
「……それが、苦しかった?」
 ふ、とマッシュは自嘲する。思えばなんて贅沢な悩みだろう。
「でも、今なら乗り越えられると思うんだ。……セリスも頑張ったんだ、俺もやらなきゃ情けねえ」
 セリスは真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「情けなくなんかない。マッシュは……格好いい、わ」
「ん?」
「私を何度も助けてくれたでしょう。……最初から、今まで、ずっと」
 尊いものを見るような目で、セリスは優しく言う。
「……貴方の故郷を、いつか見てみたいな」
 え、とマッシュは思わず声を漏らしてしまった。
 自分から言おうと思っていたことだったし、セリスがひどくやわらかな表情で言うものだから、驚いたのだ。
 先手をとられるとは、本当にこの娘は困る。マッシュはかりかりと鼻の頭をかきながら、セリスを見つめた。
「ええと、だな。いつか、じゃなくて……良かったら俺と一緒に、行かないか?」
「えっ!?」
 セリスは慌てて、口に手を当てる。
「いや、もちろんセリスが嫌なら無理強いはしねぇ。すぐにどうこうってわけでもないし……」
「一緒に行っていいの?」
 呆然として問われ、マッシュはなんとなく焦りつつ否定的に返してしまう。
「しかし、なんにも未来が決まってないわけだから、どうなるかわからないぜ? ただおまえを振り回すだけになるかも……」
 セリスは俄にムッとして、唐突に立ち上がった。
「そんなこと、いつだってそうよ」
 そしてずかずかとマッシュの横まで歩み寄る。すとん、とそのまま正座して、同じくらいの目線でセリスは強く言い放った。
「ほら、わからなかったでしょう」
「……セリス。だが、本当にいいのか? ドマならカイエンや師匠が……」
「自分で選んで歩いていくって言ったわよね、私。……先に一緒に行こうって言ったのは貴方だけど、一緒に行きたいって決めたのは私よ」
 力強い碧眼に絡め取られて、それから目が離せなくなる。
「それとも、汚い女だって思い出した?」
「! 自分をそんな風に言うな!」
 マッシュは思わず、彼女の両肩を掴んだ。セリスは薄く笑う。
「でも本当のことよ」
「……おまえが自分をそう思ってても、俺はそうは思わないよ」
 こんなにも美しい女は、見たことがない。見た目も、心根も。強く、美しい。
「マッシュ……」
 名を呼ばれたのが先か、後か、マッシュはセリスを胸に抱き寄せた。彼女はおとなしく、上体を預けてくれた。
「……俺が逃げずに戦えるように、そばで見ていてほしい」
 おまえの勇気を、どうか俺に。マッシュは腕に込める力を強くさせる。
「見てるわ。ずっと、ずっと……そばにいさせてくれるなら、ずっと」
「ああ。頼むぜ」
 ぽんぽんと背中を叩くと、セリスは何度もこくこくと頷いた。
 初めて会った時も、こうして抱き締めたことを思い出す。たった数日前の話なのに、ひどく昔のことのように感じた。
「あのー……お食事、お持ちしましたよ」
 控えめな声で、店員が襖越しに声をかけて、マッシュははっとして腕の力を弱めた。
「あ、ありがとな! 悪い、ちょ、ちょっと待ってくれ」
 慌ててセリスを放そうとして、彼女の腰をぐいと押す。だが、セリスははっきりとそれに抵抗して、マッシュの頭を両手で包んだ。
「セリス? なに……」
 それきり、言葉は紡げなかった。

 襖を開けた店員は、真っ赤な二人の顔を不思議そうに交互に眺めながらも、深く問うことはなかった。

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