マシュセリ

お寺に来たキミ

 新緑の輝きに満ちた町並み。ここ、ドマ王国は最近、春を通り越して初夏のような様相を見せていた。
「……あぁ、今日もいい天気だなぁ!」
 強い日射しを浴びながら、門前で空を見上げている男がいる。ドマ人は生まれながらに黒髪なのだが、この男の髪は明るい金だ。加えて、ドマ人には稀なほどの恵まれた体躯は、誰にとっても一目で異国の生まれだとわかる。
「あら、おはようマッシュさん」
 親しみ深くかけられた声に、男は人好きのする笑みを浮かべて手を振った。
「おう、おはよう!」
 返された婦人は、嬉しそうに去っていく。
 マッシュは、ドマに流れてきた異国人だ。だが、その人柄が良かったのか、すっかりこうして人々に受け入れられていた。
 門前を行き交う人々に何度か挨拶したりされたりを繰り返してから、マッシュは俄にその大きな手のひらをパンと鳴らした。
「さって、掃除はじめっかな!」
 それは日課ともいうべきものであり、修行の一環でもある。マッシュは背後の門の内側に建つ、歴史ある寺の僧侶なのだった。
 町民の多くは、この寺を「駆け込み寺」と呼んでおり、その名の通り、月に何人かは寺に駆け込んでくる者がいた。そのほとんどは、既婚の女性だ。
 ドマでは女の社会的地位がそう高くないため、離縁したい場合は寺に頼るしかない。夫との生活に耐えられずに家を飛び出した妻を保護してやることも、寺の役目の内なのだった。
 とはいえ、男はプライドの高い生き物で、大抵は大事になる前に話し合いで解決する。女には少し寺で働いてもらった後、故郷に帰るなりなんなりしてもらうので、寺には結局僧侶しかいないことが多かった。
 マッシュがこの寺に居着いてから既に七年以上は経つが、面倒を見た女は両手で数えるほどだ。むしろ、彼女らには炊事や洗濯などをしてもらっていたので、面倒を見てもらったというのが適切なのかもしれないが。
 そして現在も長らく駆け込みの女がいないので、門前の掃除はマッシュの日課となっている、というわけだった。



 春の風は強く、落ち葉も少なくない。それでもマッシュは手慣れた様子で、門前を掃き清めていった。
 十分も経つかしないか、すっかり綺麗になった通りを見渡して、マッシュは額を拭う。
「ふう。ま、こんなもんだろ」
 手にした箒を蔵に置いて、朝飯に出向こうと思ったマッシュは、しかしふと振り返った。
 すると、一心不乱にこちら目掛けて走ってくる人影が目に入った。
「んんっ?」
 もしや、駆け込みだろうか。目を凝らして見つめてみると、その人は長い髪を振り乱し、とにかく走っていた。だが髪色からして、ドマ人ではない。異国の女だ。
 マッシュは、一瞬息を呑んだ。女の背後には、数人の追っ手がいたのだ。
 助けて、と女は美しい声で微かに叫び、マッシュに向かって手を伸ばして駆け寄る。受け止めなくては、とマッシュは久しぶりの駆け込みに多少慌て、箒を手放してこちらも腕を伸ばして女を待つ。
 駆け込みには、ルールがある。寺の境内に入りさえすれば、もう何人たりとも女を連れ帰ることは許されないのだ。例えばこの前の駆け込み客はなかなかの強者で、手にした長い棒を悠々と境内に叩きつけ、夫をはね除けていた。
 とにかく、境内に入りさえすればいい。走る異国の女もそれを知っていたのか、迷うことなくマッシュの腕へ飛び込んできた。
「よっし、もう大丈夫だ!!」
 マッシュは自慢の体つきで、女をなんなく抱き止めて一歩下がった。
 追っ手の男たちはドマ人のようで、忌々しげにマッシュを睨んでから、その場を走り去っていった。
 女は相当走ってきたのか、肩を激しく上下させて息を整えている。
 マッシュはゆっくりと女から手を離し、まじまじとその顔を見下ろした。
 顔色は真っ赤だが、肌は透けるように白い。髪は金で目は碧。
 端的に言えば、美女だった。


「……大丈夫か? もう心配ねえからな。ゆっくり深呼吸してみろ」
 女は言われた通りに数回、深呼吸をしてから、マッシュを見上げた。
「…………ありがとう。助かりました」
 ぺこりと頭を下げた瞬間、わずかに女の首筋が見える。マッシュは思わず、顔をしかめてしまった。
「その痣は、旦那に?」
 問うと、女はハッとして首を手で隠した。
「……ええ」
 こんな異国の美女を嫁にして、暴力を振るう男がいるとは。胸くそ悪さになんだか喉が苦い。
「でもこれで駆け込み成功したわけだし、仲介は任せてくれな!」
 女はひどく申しわけなさそうに、再び頭を下げた。



「師匠ー、駆け込み客がお越しです」
 寺の廊下を進み、マッシュは奥の間まで聞こえる声でそう言う。
「それは誠か!」
 そのきびきびとした返事は、頭上付近からして、マッシュの背後に付き添っていた女は不思議そうに辺りを見回した。次いでびくりと身体を震わせたのは、師匠が屋根から飛び降りてきたからだった。
「おや、驚かせてしまったようで、すまんな! わしがこの寺の長、ダンカンじゃ」
 言うなり、師匠は豪快に笑った。
 女は肝が座っているようで、すぐに廊下に膝をついて頭を下げた。
「お騒がせして申しわけありません。こちらが駆け込み寺だとお聞きし、こうしてお訪ねいたしました」
「そのように畏まらずとも良い。……苦労なさったようじゃな。どうかゆっくりと体と心を休まれていかれるがいい」
「ありがとうございます……」
 師匠は女に近づき、その背中をぽんぽんと叩く。その白い首に見えている痣はどうにも痛々しく、マッシュは無意識に唇を噛んだ。
「して、そなたの名はなんと?」
「は……セリスと申します。名字は……今はもう、シェールに戻りました」
「シェール? ……」
 シェールという家名を、マッシュはおぼろ気に知っていた。確か、南の帝国の名家ではなかったか。
 とすれば、この女は帝国出身であるわけだ。
 現在、ドマと帝国は仲が悪い。いや、昔からそうだったが、三年前に小競り合いが起き、一部のドマ領が帝国の統治下になってから、さらに仲は悪化していた。
 セリスは気づかれたことを悟ったのか、今度はマッシュに向き合い、頭を下げる。
「お察しの通り、私はドマの者ではございません。夫……であったのは、帝国から派遣された、駐在官です」
「駐在官!? ……いや、待て。それってここらへんのか?」
 まさかそうであっては、とマッシュは表情をひくつかせる。セリスはわずかに頭をもたげ、静かに頷いた。その姿は粛々としていて、まるで罪人のようですらあった。
「あの駐在官の妻か……」
 師匠も俄に眉を寄せる。
「ご迷惑ならば、すぐにでもこの場を離れるつもりです」
「いや、迷惑などと。ただ、ドマのやり方が通じるとは思えん」
「……仰る通りです」
「セリスよ。もはや夫になんの未練も情もないかね?」
「元々そのようなものはございません」
「そうか。ならば良い。……マッシュ、セリスを客間に通してやりなさい」
「はい」
 師匠に促されて立ち上がったセリスに、自分の後についてくるよう言い、マッシュはまた長い廊下を進み出した。
「……あの」
「ん? どうした?」
 歩く足を止めずに、マッシュは頭だけをそちらへ向ける。
「マッシュ、さんは帝国の方でしょうか」
「いんや、違うよ。俺は北の生まれ」
 指で上を指して答えると、セリスはそうですか、とやや落ち込んで返した。その落胆には、同感できる。やはり異国の地では、知らぬ者とはいえ同郷がいると安心するものだ。
「あ、でも駆け込みなのは俺も同じさ。無理矢理ここの門下に入ったようなもんだからな。だから、俺には普通に話してくれていいぜ」
 にっ、と笑むと、セリスはわずかながら安堵したのか、深く頷いた。


 セリスを客間に案内した後、他の僧侶に風呂などの支度を頼み、マッシュは再び師匠の下へ足を運んだ。
 師匠もそれを待っていたのか、珍しく奥の間で座っていた。
「大変なことになりましたね」
「うむ」
 腕を組んで座る師匠の前に腰を下ろし、マッシュは話を切り出す。
「……この寺でセリスを守りきれるとは思えません。彼女がここにいるのは既に知られているはずですし」
 逃げ去った追っ手たちがこのことを報告しているのは間違いない。
 あれだけ追っ手を差し向けていたのだから、セリスを連れ戻すつもりは十分すぎるほどあるのだろう。
 駆け込み寺に入った女に手出しできないのは、あくまでドマのルールだ。異国の者相手に通用するかはわからない。しかも今回は相手が相手だから、確実に破ってくるだろう。
「うむ。……時間の問題じゃろうなぁ」
 師匠は髭をとかしながら、口を歪める。
「しかし、助けを求める女を拒むことはできん。男が愚かであるのは国を越えたもののようじゃ」
「セリスの身体の痣……お気づきになられましたか」
「あれは拷問の痕に似ておるわ。帝国は身分が厳しいと聞く……抵抗できなかったのじゃろうて。かわいそうな娘じゃ」
 マッシュは思わず押し黙る。セリスは恐らく、かなり年若い娘だった。それが身体をあんなに赤く腫らして、かわいそうと言う他なかった。
「シェールと言えば、確か帝国では名の知れた血じゃな。その娘があの扱いか……」
「帝国では、貴族の結婚は皇帝が決めるのだと聞いたことがあります」
「なるほどのぅ……」
 セリスの元夫であろう駐在官は、確か皇帝の甥にあたる。これがまた狂った男で、在任二年で無礼討ち四十人という、とにかく短気で居丈高な性質だった。愛人も飽きればわざわざ殺し、結婚はやつには似合わぬ単語の一つでもあったのだが、皇帝が決めたというなら誰に逆らえるものでもない。
「マッシュ。おまえはどう思う」
 問われて、マッシュは淀みなく答える。
「とても他人事とは思えません」
 誰かに人生を決められるなど、許せることではなかった。敷かれたレールから勇気を持って逃げ去ったセリスを、見放してなるものか。
「そうか……うむ。わしも腹を括ろう」
「ありがとうございます、師匠」
「構わん。マッシュ、セリスに気を配ってやれよ」
「はい!」

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