マシュセリ

お寺に来たキミ


 夕焼け色に染まる境内は、時が止まったかのようだった。
 セリスはマッシュの腕の中で、ただ声もなく震えていた。マッシュもまた、黙ってケフカを睨み付けていた。
 先に動いたのはケフカだった。
「おい、おまえ」
「はっ、なんでございますか」
 ケフカは御者を指先で呼びつけ、その手から鞭を奪い取った。そして馬車から下りて、こちらへと歩み寄る。
 マッシュは身構えた。
「早く私のセリスを放しなさい」
「セリスはテメェのものじゃねえ!」
「私がセリスの主人です。セリスは私のものに決まっているでしょう?」
「……もうセリスはあんたの妻じゃねえんだよ」
 おや、とケフカはわざとらしく首を傾げた。
「離婚届など、書いた覚えがないんだがねェ」
 そののらりくらりとした態度に、マッシュは怒りばかりが募る。殴り付けてやりたいと思う気持ちを押し留めたのは、背中に回されたセリスの手だった。
 セリスは、マッシュにしがみついていた。彼女は他に頼るものがないのだ。
「……あんた、セリスを愛してるのか」
「ああ、勿論だとも」
 ひゅん、とケフカは鞭をしならせる。
「愛していなくば、わざわざ皇帝陛下に婚姻の口添えなぞするものかい」
 帝国では貴族の結婚は皇帝が取り決める。だが、皇帝の甥であるこの男は、自らの望む通りにするように伝えたのだろう。
 そもそもセリスは養子だと言っていたから、もしかしたら最初から、この婚姻は定められていたことなのかもしれない。
「誰よりも美しく聡明なセリスこそ、この私の妻に相応しいとね」
「ふざけるな! そんなものは……」
「愛ではない? では愛とはなんです? 決まった形のあるものですか?」
 ケフカは鞭の先端でマッシュの顎を掬う。にたにたと笑うその顔を、マッシュはただ睨み付けた。だが、ケフカが見つめるのはマッシュではなく、その腕の中で縮こまるセリスだった。
「セリス。散歩はもう十分でしょう。帰りますよ」
「ここは駆け込み寺だ。何人たりとも駆け込んできた女を連れ戻すことはできない。俺がさせない!」
「おまえには聞いていない!」
 ひゅ、と鞭が鳴る。頬に一線、鋭い痛みが走った。御者でもないくせにやけに手慣れてやがる、とマッシュは皮肉っぽく呟く。言い切るや否や、再び鞭がマッシュの顔を打った。
 やめて、とごく小さく、セリスが叫んだ。
「……なんだい、セリス。もう一度言ってごらん?」 声だけは優しく、ケフカが問うた。
「…………やめて、ください」
「なにを」
「マッシュを、ぶたないで」
「聞こえないね」
 ケフカは非情に返し、鞭を振りかぶる。
 ぎゅ、とセリスは強くマッシュを抱きしめてから、大きな声で叫んだ。
「マッシュをぶつのはやめて!」
「おまえごときが、私に指図するとでもいうのかい!」
 怒りとともに振り下ろされた鞭は、しかしマッシュには当たらなかった。
「……なにをしているか、わかっているのか」
 忌々しげに、ケフカは問う。セリスは鞭を、掴んで止めたのだ。これは、セリスにとっては大きな反乱であった。
 まだ、身体の震えが止まっていたわけではない。だが怯えた素振りはほとんど見せずに、セリスは毅然としてケフカを見据えていた。
「貴方こそ、何をなさっているのかおわかりですか」
「なんだと?」
「ここは帝国の統治下ではありません。ドマの国で、由緒ある寺の門を破壊した挙げ句、僧に手をあげたなど、どこに不利益が行くかわかっておられるのですか」
 最初にセリスの言葉に怖じ気づいたのは、ケフカの引き連れた御者たちだった。所詮、彼らは虎の威を借りた存在でしかないのだから、その虎の劣勢がわかるやいなや腰が引けてしまうのだろう。
 ケフカ様、と怯えて名を呼んだ御者は、ケフカに鞭を貸した男だった。
 ケフカはまずその御者をゾッとするような目付きで睨み、次いでセリスに視線を返した。その目は、蔑むようなものだった。
「妻は多少愚鈍な方が可愛いげがあるようだねェ」
「……私はもう、貴方とはなんでもありません」
 そう言い放ち、セリスはゆっくりと鞭から手を離す。面と向かってそう言うことが、一体どれほど勇気のいることだったか。それを思うと、マッシュは誰にともなく勝ち誇ったような気持ちになった。
「帝国で育ったおまえが私の元から逃げて、どこへ行けるというんだい?」 「どこへだって、行けます」
「自惚れるな!」
 鞭が唸りを上げて、地面を抉った。
「おまえは一人で生きてけやしないよ。その男だって、寺の客人だから優しいだけさ。世間知らずのおまえが、生きていけるわけがない。……直に私に泣きついてくるのを楽しみに待っているよ」
 ケフカはくるりと踵を返し、馬車に戻っていく。御者に鞭を押し返し、馬車の扉を閉めさせると、早々に車体を回転させて走り去っていってしまった。
 始まりと同じく唐突に訪れた終わりに、境内に残された者たちはしばらく呆然としていた。
 半ば興奮していたセリスは、自ら深呼吸を数度した後、ぼんやりとした口調で呟いた。
「……いってしまったわ」
 行くと言う、どちらの意味の「いってしまった」なのかをわかりかねて、マッシュは思わず首を傾げる。
 だが、セリスが清々しい表情をしているのに気づいて、敢えて問うことはしなかった。
「やったな。すごかったぜ!」
 碧い瞳をまたたかせ、セリスは嬉しそうに頷いた。しかし、すぐにマッシュの顔を見つめたまま眉を寄せた。
「どうした?」
 ひんやりとした指先が、頬を撫でる。
「……ごめんなさい」
 その手を握って、マッシュはにかりと笑ってみせた。
「平気さ。セリスが守ってくれたしな」
 服従させられてきた相手に立ち向かうというのは、並大抵のことではない。そのきっかけが、自分がぶたれたことだったのなら、ぶたれた甲斐があったというものだ。
「マッシュ……」
 申しわけなさと嬉しさとがない交ぜになった顔で、セリスはこちらを見つめる。
 その顔を見て、初めて会ったときもセリスは申しわけなさそうにしていたなというのを、ふと思い出して、マッシュは胸を痛めた。
「おーい、平気かぁ?」
「ゲンゾウ」
 そういえば、自分でゲンゾウに助けを求めていたのだった。マッシュは慌ててそちらへ手を振る。
「そっちこそ無事か?」
「誰かさんが門を閉めろなんて頼むから、木っ端まみれだけどな。……まさか門をぶっ壊して馬車で来るなんてよ。あんなん、門が閉まってようが同じことだぜ」
 ゲンゾウは黒い着物に無数の木っ端をつけたまま、やれやれといった様子でこちらへ歩み寄った。
「……ところで、もうそんなにくっつく必要ないんじゃないか?」
 ゲンゾウの声は甚だ疑問といった風で、深い意味はないようだった。
 純粋な問いかけに対し、顔を真っ赤にさせたのはセリスの方で、あっ、えっ、などと言葉にならない声をあげる。慌てっぷりに多少笑いながら、マッシュは両手を背後の地面について、身体をやや反らせた。
「……ご、ごめんなさいっ」
 解放された途端、ぴょい、とうさぎか何かのように跳ね飛び、セリスは狼狽えながら自らの髪を撫でる。こういう風に人とふれあったことが少ないのだろうな、とマッシュは彼女を不憫に思った。
「いや、気にしてねえよ。それよりゲンゾウ、師匠は?」
「ああ、今は別宅に行っちまってる」
「あー、そうか。そんな時間か……」
 基本的に、駆け込み以外はこの寺は女人禁制なのだ。だが、師範代以上の位の僧は、妻子をもつことが許されており、その場合は外に所帯をもつことになる。
 師匠が妻にベタぼれなのは、もはやこの寺の僧ならば常識だった。どれだけ機嫌が悪かろうと、夕方に別宅から帰ればにこやかになるほどである。
「しかしなぁ、いくら機嫌が良かろうと……この門を見たらさすがに怒るだろうな」
「すみません……私のせいで」
「あ、いやいや。セリスさんが悪いわけじゃないんだけどね」
 ゲンゾウは、地べたに座ったままのこちらに目配せする。言いたいことは、よくわかった。
「……めんどくさいことになりそうだなぁ、と」
「だな」
 呆れたような、しかし楽しそうな表情をした僧侶たちを見て、セリスは不思議そうに首を傾げた。



 翌日の早朝のことだった。マッシュは久しぶりに、藍に染められた着物に袖を通した。これを着たのはいつぶりだろうか、とゲンゾウに尋ねると、二年、と返ってきたから、本当に久しぶりだ。
 腕には包帯を巻きつけて、とくに手の甲には厚く巻いておく。自らの身を守るためでもあるし、相対した者の命を守るためでもある。
 昨夕の騒動を聞いた師匠は、額に青筋を立てながらにかりと笑んで、こう宣言したのだ。
「誰を敵に回したか、その身をもってして教えてやろう」
 それはつまり、戦いの合図だった。
 この寺の者は一般のように町民からは僧侶と呼ばれているが、僧兵と呼び称される場合もあった。
 義に厚く、人情に流されやすいドマの人々は、多少乱暴なことでも筋さえ通っていれば寛大に見てくれる。
 粗暴な者が更生のためにここへ送られることは多々あり、同僚の大半が荒くれ者だ。だが、力を向ける方向性さえ見誤らなければ、その乱暴さは町民には英雄のようにすら見えるらしい。
 この着物に袖を通す時を、町民はすなわち天誅と称していた。
 腰の帯をきつく縛り、マッシュは険しくなりつつある眉間を指先でほぐす。
「鎖帷子は着たか?」
 ゲンゾウのうんざりした声に、マッシュはからからと笑って胸元を見せた。
「まだ死にたくはねぇからな」
「ちっ……おまえは体格がいいから問題ないんだろうがな、俺らドマ人にとっちゃ重装備もいいとこさ」
「死ぬよかいいだろ」
「まぁな……しかし、久しぶりすぎて体が動くか心配なんだよ」
「よく言うぜ。俺と引き分けになるのはおまえだけなんだぞ」
 まあな、とゲンゾウは再びひとりごちる。結局、この会話は気を落ち着かせるための意味しかないのだ。
 二年前にこの着物を着た時は、相手にしたのはドマの大商人だった。商人の妻が駆け込みをし、それを連れ戻そうと門前町周辺の商売に圧をかけてきたため、町民に背中を押されて立ち上がったわけである。
 規模こそ大きかったが、如何せん相手はドマ人だ。義がどちらにあるかを理解すれば、折れるのも早かった。
 だが今回は違う。相手は帝国、しかも駐在官だ。帝国相手に、ちっぽけなひとつの寺が戦いを挑む。
「……しっかし、こんなことして国際問題にならねえのかね」
 ゲンゾウは呆れた風に呟く。
「かなりやばいだろうな。占領地は帝国本土と同様に取り扱うって話だし。帝国に喧嘩吹っ掛けるようなもんだろ、これ」
 確認のために何度か手のひらを握ったり開いたりしながら、マッシュは答えた。
「でもこれを機に、一気に帝国を追い払うつもりなのかもな。カイエンが一枚噛んでるとは、俺は思ってるし」
「……確かに。急にいろいろ始めすぎだもんなぁ。なんだか、準備が良すぎてる気もする」
 ゲンゾウは細い目をさらに細くさせて思案している。
 セリスがここに現れて、まだ二日目だ。だが、帝国が急速に陣地を広げ始めてから、民の不平が集いだしたのは今に始まったことではない。
「ま、腕の見せ所、だな」
 マッシュは、自らのたくましい二の腕をぽんと叩いた。

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