マシュセリ

お寺に来たキミ


 色々と騒動があり、すっかり朝飯を摂るのを忘れていたマッシュは、とりあえず台所に立ち寄って炊事をしている僧に声をかけた。
「お、マッシュか。今頃なんだ?」
「いや、まだ朝飯食べてなくてよ」
「バカかおまえ。もうなんもないぞ」
 僧は呆れた様子で、空の釜を見せてくれた。まあそうだろうと思ってはいたので、マッシュは別段気にせずに髪をかきながら台所から出た。
 仕方がないので、町へ出てどこか店で食おう。そう考えてから、そういえばセリスも朝飯を食べてないのでは、と思い付いて、マッシュはとりあえず客間に足を向けた。
 途中の廊下で、風呂の準備を頼んだ僧とすれ違ったので、セリスの様子を尋ねると、僧は肩をすくめた。
「一応、風呂は入ってたが、あの痛々しい痣はなんなんだろうな。あんなに美人なのに、とんだ男もいたもんだ」
「ゲンゾウも気づいたか。……あんなんなるまで耐えてたかと思うと、本当にかわいそうだよ」
「あれだけの器量良しなら、俺が嫁にもらいたいくらいさ。なあ?」
 はっは、と笑い、ゲンゾウは仕事があるとその場を去った。口ではそう言ってはいたが、誰よりも仕事熱心な男でもあり、女の気配をまとわせたことのないやつだった。師匠もそれをよくわかっていて、駆け込み客の世話は大概ゲンゾウに任せている。
 客間は、ドマにしては珍しく木板の引き戸で仕切られていた。普通ならば障子戸なのだが、ここに居座る者の大半が女なので、色々と考えた結果、透けない木板になったらしい。
「セリス、いるかー?」
「……マッシュさん?」
 衣擦れの音がしたのち、がらりと戸が動かされる。セリスは風呂上がりだからか、豊かな髪を頭上で丸く一括りにして簪で止めていた。
「だから、マッシュでいいってば」
「あ、そうだったわね。ごめんなさい」
「うん。ところでさ、腹は減ってねえか? 朝飯、食いっぱぐれちまってよ……一緒にどうかと思って」
 セリスは申しわけなさそうな表情をして、頷いた。


 駆け込み寺とはいえ、きちんとした寺でもあるから、その門前の町の賑わいはなかなかのものだった。
 セリスには目立たぬように頭を布で隠させ、マッシュは馴染みの定食屋の暖簾をくぐった。
「らっしゃい! おや、マッシュさん。遅い朝ごはんですかい?」
「ああ。ちょっと食い逃がしちまってさ」
 亭主はさすがなもので、マッシュの横の不審な女にはなにも問いかけない。
 時間が中途半端なのが幸いし、店は混んでいなかった。店の奥にある座敷に通してもらって、適当に注文を済ませてから、マッシュはセリスの名前を呼んだ。
「さ、ここなら大丈夫だ。頭のそれも取っていいぜ」
 ただでさえ、異国の金髪は目立つ。しかもセリスは誰が見てもわかるほどの美人だった。
「……このお店、とてもいい香りがするわ」
 するりと布を取り払い、セリスは微笑む。目が覚めるような美人とはこのことだろうなと、マッシュは繁々と思った。
「評判いいんだぜ。昼時は並ぶ人もいるくらいだ」
「マッシュって、よく馴染んでるのね。大変だった?」
「まあ、最初はな。ドマの人ってあんまり異国人に慣れてないから」
 先に運ばれてきたお通しに箸を伸ばしながら、マッシュは笑う。
「でも、俺も同じ人間だってことが伝わったら、すげえ優しくしてくれるようになったよ」
 そうなの、とセリスは静かに笑った。
「セリスはあんまり、こういう場には来たことなさそうだな」
「ええ……外に出してもらえなくて」
「そうか……」
 名家のお嬢様であった時分もそうであろうが、ドマに来てからも恐らく束縛されてきたのだろう。
「あー、そういやさ、歳はいくつだ?」
「この間、十八になったところ」
 マッシュはぽかんとして箸を止めた。若いだろうとは思っていたが、まさか二十にもいっていないとは。
「じゃ、結婚したのは?」
「それは、本当につい最近の話」
 セリスは苦々しく答えた。
「……すまん、言いたくないなら無理に聞かないから」
「ごめんなさい……」
 まだ傷痕は新しいものなのだ。だから、そう簡単には癒えない。セリスは長い睫を伏せて、俯いてしまう。
 そこに、ようやく頼んだ定食が届いてしまって、話は終わってしまった。
「はい! 今日は鰈の煮付けだよ!」
「おっ、ありがとな」
 おいしそうな甘塩っぱい香りが漂い、セリスもわずかに口元をほころばせる。
「……とても美味しそうね」
「美味しそう、じゃなくて、美味しいんだって」
 拗ねた風に言い返すと、セリスはくすくす笑った。
「そうね。いただきます」
「いただきます!」
 煮付けの旨さもさることながら、この店はとにかく味噌汁が旨いのだ。久しぶりのこの味に、ぱくぱくと食べていると、セリスがこちらを見ていた。どうやら、笑っている。
「ん?」
「だって、すごく美味しそうに食べてるから」
「だーかーらー、本当に美味しいんだって」
 セリスはしょうもない会話に、くすくすと笑った。多少心配していたが、味は口にあったようで、一人前の食事を平らげたのには安心した。
 勘定を払って、再び暖簾をくぐって外に出ると、マッシュは一度大きく体を伸ばした。
「よし、じゃあ寺に帰るか」
 布で顔を隠したまま、セリスはこくりと頷く。
「俺から離れるなよ?」
 敢えて釘をさしたのは、彼女がかなり好奇心旺盛だったからだ。門前町の出店にいちいち視線を奪われているようで、少し歩調が乱れることもあった。
 セリスは落胆した様子で、こくこくと返した。


「よう、お帰り」
 寺に帰るなり、出迎えてくれたのはゲンゾウだった。
「へえぇ、マッシュと並んでも子どもみてぇにならないなんて、さすがだね」
 言われて初めて、マッシュは確かにと思った。セリスは布を取って、ゲンゾウに一礼する。
「で、なんでおまえがわざわざ出迎えてくれるんだ?」
「そりゃあ、今師匠の部屋でお取り込み中だからさ」
「まさか、もう?」
 いや、とゲンゾウは狐のような目をさらに細める。
「ちょっと意外なやつが来たんだ」

 ゲンゾウに連れられて、二人は奥の間に向かった。障子には、師匠ともう一人の影ができている。
「師匠。お連れしました」
「ご苦労。通せ」
 は、とゲンゾウはゆっくりと障子を開ける。
 師匠と相対していたのは、厳格な顔をしたドマの侍だった。マッシュは思わず、懐かしさで顔をほころばせた。
「カイエン!」
「これはこれはマッシュ殿、お久しぶりでござる」
 深々と頭を下げてから、侍は優しく目尻にしわを寄せた。
「一体いつぶりか……お懐かしい」
「そうだな。もう七年以上は経つが……変わらないなぁ、カイエンは!」
「マッシュ殿は、大層お変わりになられましたな。とても逞しくなられた」
 会話についていけず、ぽかんとしていたセリスに気付き、マッシュは慌ててカイエンを紹介した。
「こちらはカイエン。ドマの侍だ。昔からの顔馴染みなんだ」
「侍さまですか」
 セリスはそそくさと膝をつき、頭を下げようとする。それを制したのはカイエンだった。
「いや、構わぬでござるよ。拙者は額づかれるほどの器ではござらぬゆえ」
「……いえ、私は」
「セリス。カイエン殿には既にお話ししておる」
「は……申しわけ、ありません……」
「どうかこちらにお座りになられよ」
 カイエンの言う通り、マッシュはセリスを連れて座った。セリスの顔色は真っ青だった。
「で、急になんの用なんだ?」
 早くこの場を終わらせた方がいいだろうと、マッシュは早々に話を切り出す。
「無論、セリス殿への用でござる」
「……はい」
 ハキハキとした返事だが、やはりどこか痛々しく、己が罪を理解した罪人のように見えた。
「心配するな、カイエンは無闇に帝国の者を切り捨てるような真似はしない」
 カイエンは鏡のような侍だ。義に背くことはしないし、少なくともマッシュが先にそう言ってしまった今、そのような真似はできない。
「では、単刀直入に申す。……帝国の情報を、我々に流してはくださらんか?」
「……私に、祖国を裏切れと?」
「もちろん、出所が割れるようなことにはならぬようにする」
「私は……夫から逃げました。しかし、帝国から逃げたわけではございません」
「セリス殿は、帝国の所業をご存知ないのでござるか」
 カイエンの言葉に、セリスは押し黙った。
「……愛国心を簡単に捨てられぬことは拙者にも理解できますぞ。今日のところは拙者は帰ることにいたすゆえ、じっくりと考えてみて欲しい」
 床に置いていた刀と脇差しを掴みとり、カイエンはのそりと立ち上がった。
「では、また」
「カイエン……」
「マッシュ殿。先ほどは大層お変わりになったと申し上げたが……いやはや、その優しき心根は何一つ変わってはござらぬようですな」
 カイエンはにこりと笑い、座敷から去っていく。その姿を、マッシュはただ黙って見つめた。セリスは頭を下げたまま、微動だにしなかった。


「……カイエンは、何故ここに?」
 セリスを客間へと下がらせた後、マッシュは師匠に問うた。
 うむ、と師匠は深く頷く。
「既に、公使館から女がこちらへ逃げたというのはドマ国に知られているようじゃな。恐らく、追っ手のうちに間者がいたのじゃろう」
 ドマと帝国は、いつ戦争に発展してもおかしくないほどに緊張状態にあった。戦いは水面下ですでに始まっており、その情報戦に、セリスが巻き込まれつつあるのだった。
「……ドマに、セリスの保護を願い出るというのは?」
「駄目じゃ。出汁が出尽くせば捨てられるのが関の山じゃろうて」
「ですね……」
「それに、わしは一度決めたことを曲げたくはない。セリスはわしらの客じゃ。わしらの手で守らねばならん」
 こくりとマッシュは頷いた。
「セリスを故郷に帰したとて、反逆罪で処刑じゃろう。あれを生かすには、ドマかおまえの国かしかない」
「……はい」
「セリスが口を割りたくないと言うならば、ドマにはいられなくなるだろうな」
 ドマ人は同胞には優しいが、異物にはめっぽう厳しい国民性だ。とくに帝国人相手は目の色が変わる。カイエンですらそうなのだから、一般市民においては言わずもがなだ。
「国を捨てる決意の難しさは、わしはわからん」
 師匠はじっとこちらを見つめ、苦笑した。


 夕方になった。赤く燃える夕日を見つめながら、修行を終えてマッシュはセリスのもとを訪ねた。
「……まだ、迷っている?」
 胡座を組んで座って、マッシュは目の前で正座するセリスを窺い見た。
「そうね」
 セリスは多くは語らない。
「セリスは、帝国で生まれ育ったんだよな」
「でもたった十八年よ」
「俺だって、故郷にいたのは十五までさ」
 何を言うのかと、セリスは瞬いてこちらを見上げる。
「それでも、今もずっと恋しい。帰りたいと思う。残してきたものに、一目だけでもと思うんだ」
「……ここで、こんなに幸せそうなのに?」
 マッシュはゆっくりと頷いた。ドマでの暮らしは、決して悪くはない。むしろ居心地がいいくらいだ。不義理だとは思うが、それでも、故郷が恋しいと思ってしまう。
「故郷ってのは、良くも悪くも特別なんだろうぜ」
 一度でも離れれば、そこが欠けがえのない美しいものだったように感じてしまう。それが故郷というものではないのだろうか。
 セリスはしばらく考えこんで、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……帝国が臨時統治している地で、何をしているかは知っているわ」
 帝国のやり方は、汚い。ドマの人は口を揃えて言う。非道なことも構わずする。ドマ人を土人などと呼んでいるらしいが、むしろ野蛮なのは帝国の方だ。
「でも皇帝陛下は……人民を思ってなさっているの」
「その皇帝陛下ってのは、そんなにお優しいのかい」
「孤児の私をシェールの養子にしてくださったのは皇帝陛下よ」
「だが、あんなやつの元へ嫁がせたのも皇帝陛下だ。……そうだろ」
 セリスは口元を歪ませる。
「……でも」
「陛下の命令に背いてでも逃げ出したいくらい、嫌なやつだったんだろ?」
 でも、と再び呟いて、セリスは腿の上の拳を強く握りしめた。
「無理に義理立てする必要なんてねえよ。……誰もおまえをぶったりしないから」
 セリスは顔を伏せる。ぱたぱたと、畳に水滴がこぼれ落ちた。マッシュは、両手で彼女の頬を包んでやった。触れた瞬間、セリスはびくりとしたが、逃げはしなかった。
「……大変だったな」
 そう言った途端、セリスの涙は堰を切ったように溢れ出した。もはや両手では拭いきれず、マッシュは彼女の頭を自らの胸元へ引き寄せた。
「もう心配すんな。必ず、おまえを助けてやるから……」

「おーい、セリスさん? 夕飯を持ってきたぞ」
 ひく、とセリスの呼吸が止まる。ゲンゾウの声だ。
 マッシュは数回、背中を優しく叩いてやってから、セリスの上体を起こしてやった。
「……平気か?」
 目を赤くさせながらも、セリスはこくりと頷く。
「ゲンゾウ、そこ置いといてくれ」
「あ? なんでマッシュが答えるんだよ」
「ゲンゾウさん……ありがとう。ちゃんと食べますから」
「ああ、そうか。ごゆっくりー」
 なんだか勘違いされているような言われ方だが、ゲンゾウの声は優しかった。
「ここの人たちは、みんな私に良くしてくれるのね……私が客人だからかもしれないけど」
「それだけじゃないさ」
 マッシュは肩をすくめる。セリスは稀に見る美人であるし、本当に困っているというのがよくわかるのだ。憂いを含んで遠くを見つめている姿は、思わず手を差し伸べてしまう。
「……俺も、夕飯に行かないと」
 セリスがだいぶ落ち着いたところでもあるし、マッシュはぱんと手を叩いてから立ち上がった。
「なにかあったら、すぐに俺に言ってくれよ」
 うん、とセリスはこちらを見上げながら微笑んだ。

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