セツセリ

あなたは天使を信じますか?

 ドマ旅行から帰ってきて、俺は引っ越した。理由はたったひとつ、故郷のその町が両足が不自由なレイチェルが暮らしにくい所だったからだ。
 馬車に轢かれて、一時は生死の境目をさ迷ったレイチェルは、医者も驚くほどの奇跡の回復を見せた。足こそまだ動かないものの、そんなことは車イスを使えばいいのだし、リハビリにも励んでいる。
 レイチェルは、死ななかったのだ。今でもそのことを信じられない気持ちでいっぱいだ。だが、確かにレイチェルは生きて、笑っている。
 ではあの天使は、幻だったのか。いつからか、天使は俺の元を訪れることはなくなっていて、俺はつい最近まで天使を忘れていたくらいだ。
 天使は幻だと、そう思いたいのだが、俺にはそれを言い切ることはできない。
 まだ、あの羽が俺の手元に残されているからだ。セリスと書かれた、白い羽。それは天使が幻ではなかったことを静かに語っていた。
 天使はもしかしたら、俺たちを救うために運命を変えたことで、姿を現せなくなってしまったのかもしれない。
 何故あの天使は、俺たちに助力してくれたのか。それはわからない。あの女は天使としては異端だったのかもしれない。
 それでも、俺はあの天使に感謝している。彼女が来なければ、俺はドマ旅行になんて行かなかった。
 実際、俺たちがドマにいる間、故郷では強盗事件かあったのだという。幸い死人は出なかったが、この事件がレイチェルの死に関係するはずだったのじゃないかと思う。

 
 そうそう、新しい隣人の話を忘れていた。
 引っ越した町で、俺はやっぱりあの天使は幻ではなかったと思わされることになった。

 引っ越しにドタバタしたのを謝りに、隣の一軒家を訪ねた俺たちに、ドアから現れた女。
「あら、ご丁寧にどうもすみません」
 俺は驚いて、言葉を失った。
「はじめまして、わたしたち昨日引っ越してきました。あ、わたしはレイチェルで、彼はロックです」
 俺が引いていた車イスの上で、レイチェルがにこにこと紹介する。
 それを聞いて、女はやわらかに目を細めた。
「はじめまして」
 はじめまして、という挨拶には、違和感しかない。何度も会ったはずなのだから。
「私はセリス。セリス・ギャッビアーニです」
「セリスさん?素敵な名前ですね。ね、ロックもそう思うでしょ?……ロック?」
 まさか、名前まで同じとは思わなかった。あり得ない。だが、これは幻ではあり得ない。
「あぁ、うん……そうだな」
 適当に返事した俺に対し、金の長い髪を耳にかけて、セリスはいつかのように困った表情を浮かべる。
「もう一人、一応いるんだけどね。朝にならないと帰らないのよ。彼、ディーラーだから」
「えっ、ギャッビアーニって言いましたよね?それで、ディーラー……って。まさかセッツァー・ギャッビアーニ?」
「ええ。なんか有名らしいわね、あの人」
 くすくすとセリスは笑う。俺もレイチェルも、セッツァーの名は知っていた。通り名は確か、黒衣の奇術士だったか。
「セッツァーっつったら、超一流のディーラーだよな。金持ちのカジノ遊びには必ず呼ばれるとかいう」
「そんな偉い人じゃないわよ。ただの皮肉屋で、口が悪くて……」
 優しいひと、とセリスはゆっくりとした口調で続けた。そしてそう言ってから、自らくすりと笑った。
「ごめんなさいね、こんな話。ああ、中でお茶でもいれましょうか?」
「あ、いいえいいえ!そんな」
 レイチェルは慌てて両手を振る。
「まだ引っ越しの後片付けが終わってなくて。また今度、そうさせてもらいますね」
「わかった、待ってるわね」
 そうして、セリスはぱたぱたと手を振ってくれた。俺はレイチェルの車イスを押しながら、セリスの白い腕に一枚貼られていた絆創膏がやけに気になってしまった。

 あれから、レイチェルはすっかりひとりで出歩ける身体になった。
 ただ、まだ遠くだと不安らしく、よくセリスの元を訪れている。レイチェルのおかげで、俺も隣人と親しくなっていた。
 聞くと、セリスにもセッツァーにも、きちんと今まで生きてきた思い出があるようで。それは当たり前なのだろうが、ではあの天使が転生したのが彼女なのではない、ということなのだろうか。
 一度、何とはなしにセリスに向かって「天使って信じてる?」と問うたことがある。彼女は、困ったように首を横に振った。「そんなものは人間の想像よ」という言葉を、天使そっくりの彼女の口から聞くとは思わなかった。
 そんな話をしていると、珍しく家にいたセッツァーがくつくつと笑って言った。
「さぁて、俺は信じるけどな」
「あら、意外ね」
 俺の目の前で、セッツァーはセリスの肩を後ろから抱きしめた。
「俺にとっての天使は確かにいたからな?」
 気障なことを言う男なのは既に知っていたので俺は黙っていたが。確かに一理あるなと思ってしまうのは、セッツァーという男が有名ディーラーたる所以だろう。
「私は、天使なんかじゃないわ」
「わかってら。あんな翼なんて生えてたら、邪魔で仕方ねえし」
「邪魔?飛べていいじゃない、貴方の夢なんでしょ」
「ばーか。飛ぶことよりアンタを抱けることの方がよっぽど良いんだよ」
 なんだか俺たちは邪魔者らしいので、その日はすぐに帰宅したのだが。

 俺は今、幸せだ。レイチェルが隣にいて、笑っていてくれる。
 俺を幸せにしてくれた天使も、多分幸せなのだと思う。
 愉快な隣人と、これからの未来を過ごしていけるのは、レイチェルが生きているからだ。
 俺は天使を信じている。きっと、誰にとってにも天使はいるのだと思う。だから俺は、今の俺の天使を大切にしたい。死が二人を分かつまで。

ロック・コール
 
 

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