マシュセリ

初恋は実らない

 見惚れてしまいそうなくらい美しいひとを見た。いや、それは嘘だ。だって俺は本当に見惚れていたから。

 

 出会いは大粒の雪が降り頻る中、彼女の唇は驚くほど真っ青で、思わず差し出してしまった手は意外にもすんなりと受け入れられた。
「……すまない」
 雪はあまり歩き慣れていないらしく、俺の腕をやんわりと掴み、彼女はやや無愛想にそう言う。その愛想の無さは拒否ではなく、むしろ戸惑いに感じられた。
 ロックが言うには、彼女はまだ二十歳にもならない娘らしい。その大人びた外見からはあまりわからないことだが、確かに少し青い部分が見え隠れしているようにも思う。
「遠慮は要らねぇよ。これからよろしくな」
 にっと口角を上げて笑ってみせると、微かに頷いてくれた。彼女に少しだけ、近づけたような気がした。

 それから、彼女とはティナを探す旅の仲間となった。だが、なまじ帝国で高い地位にいたばっかりに、彼女は大多数のリターナーの仲間たちに睨まれて過ごさざるを得なかった。
 そのせいもあってか彼女はあまり笑わず、無駄口も叩かず、まるで鋭い氷柱のようだった。どこに触れても凍傷を負いそうな、そんな空気をまとっていた。
「これじゃ、どっちが悪だかわかったもんじゃねぇな」
 恨まれるようなことをしてきたのは彼女だが、険悪なムードを作り出していたのはリターナーだ。彼女が心を開かないのも当然のことに思えた。
 それを聞いて、兄は飄々と肩をすくめた。
「俺が言えたことではないが……リターナーは大手を振って正義面するためにあるようなもんだからな。内実が伴わないというのも仕方ないことだ」
「正義面って……偽善みたいに言うなよ」
「みたい、じゃない。まさしく偽善そのものだ。……あらゆる事象は、偽善以外の何物でもないさ。そこに人間が関わる限りな」
 見る方向、或いは見る目が異なるだけで、事象は何通りもの姿を見せる。彼女に対して恨みしか抱けないのは、一通りの見方に凝り固まってしまっているからなのだろう。
「お互い、もっと歩み寄れたら良いのになぁ」
「そうだな。本当に……」

 それでも、彼女への周囲の評価はなにも変わらなかった。帝国兵を倒せば冷酷非道な女と言われ、怪我を負えば無能と罵られ、そしてなによりそれらの嫌がらせは俺たちの知らないところでばかり行われていたらしい。
 彼女が一向に態度を軟化させないからいけないのだ、というような風潮がリターナーには満ちていた。だから、帝国の魔導研究所で彼女が失踪したことでロックを責めることは出来ない。
 だが、ロックはわからなかったのだろうかと疑問には思う。彼女の視線の先や、目付きや、極々僅かな表情の変化に。いや、俺の目からしたら、彼女の表情の変化はティナのそれよりもわかりやすいものだと思うのだが。

 そう、彼女はいつだってロックを見ていた。ひどく眩しそうに、ロックを見ていた。ロックが笑うと、彼女も僅かに笑っていた。

「初恋は実らないんだよ」
 いつだったか、兄がそう言っていたのを思い出す。
 本当に、そうだ。俺は今になってようやく、そのことに頷けるようになった。俺の初恋も、恐らくは彼女の初恋も、その言葉通りになってしまったから。


 世界が崩壊し、俺と彼女が真っ先に会えたのは果たしてどんな意味があったのだろう。神は一体何を考えているんだか、本気でわからないなと思う。
「マッシュ……生きていたのね……!」
 崩れかけた家の中を走り回り、すっかり埃にまみれた彼女は、それでもやはり綺麗だった。どうしたら彼女から目を逸らせるのだろうと考えているうちに、彼女の姿が突然視界から消えていた。
「! ……セリス、大丈夫か?」
 近すぎると見えないこともある。彼女は俺の胸に、しがみつくようにもたれていた。
「ええ、少し……疲れただけ」
 そう言うわりには彼女は強く俺の服を掴んでいて、恐る恐る俺はその背中に手を伸ばしてみる。
 不思議な感覚だった。彼女が本当にここにいるのだと、生きているのだと、やっと実感することができた。力任せにかき抱いてしまいたいのを抑え、ただ彼女の背中に触れながら、俺は笑った。
「一緒に行こう。仲間を……みんなを探しにさ」
 彼女は目を細めて、頷いた。

 二人での旅は、とても長いものになった。以前とは地形が変わっており、なかなか町や村にたどり着けないからだった。
 砂混じりの風に髪を煽られながら、彼女はよく遠くを見つめていた。きっとロックを探しているんだ、と俺は口には出さずに思った。
「セリス」
 行くぞ、という意味で彼女を呼ぶと、まるでそれを待っていたかのように彼女は微笑んで振り返る。
「ええ」
「なんだよ。何か良いことでもあったのか?」
「いいえ、別に」
 彼女の笑顔は、今までは滅多に見られない貴重なものだった。だが最近は本当によく笑うようになった。なにが彼女を変えたのか、皆目見当がつかない。
「俺に教えられないようなこと?」
 片手で髪を抑え、彼女はこちらを見上げる。その深い碧の瞳はいつも驚くほど澄んだ色をしていた。
「そうね、教えてもきっとわからないと思うから」
「ひっでぇ。勝手に決めつけんなよなぁ」
「そうね、私ってひどい人間よね」
 そう言ってから、彼女はハッとして激しく首を振った。
「あ……ごめんなさい。その、別に深い意味はないから」
「セリス?」
 くるりとこちらに背中を向け、彼女は誤魔化すように髪を梳く。
「さぁ、そろそろ行きましょう? 今日はペースが良くない気がするし」
「ちょっと待てって、おい」
「時間は待ってはくれないのよ、マッシュ! ほら早く」
 明るく笑う彼女に誤魔化されてやろうと思って、仕方なしにその後を追う。どうして詳しく話を聞いてやらなかったのか、後悔するなんて、この時は考えもしなかった。

 散り散りになった仲間たちは、時間をかけて全員見つけることができた。瓦礫の塔に向かう前夜、修練もほどほどに俺は飛空艇の甲板に足を伸ばした。星空でも目に焼きつけてから寝ようと、軽く思ってのことだった。
 冷えた甲板には、先客があった。
 鉄柵に肘をついたその後ろ姿は、心なしか震えているようにも見える。いや、確かに肩が震えている。彼女は口元を押さえ、嗚咽を噛み殺しているようだった。
 声をかけるのが憚られて、思わず進みかけた足を止めてしまった。彼女が泣いているのは見たことがなくて、夜空に一粒だけ涙が輝いて消えたのを見て、思わず声を漏らしてしまった。
「誰? ……」
 踏み込んではいけないのだと思い、俄に後退りするのを、彼女が呼び止めた。
「待って、……マッシュ、なの?」
 的確に己の名が呼ばれたことにどきりとして、彼女を見つめる。碧い双眸がこちらを窺っていた。
「……悪い。別に盗み見してたってわけじゃねえんだけど……」
「わかってるわ。……あの、こっちに来てくれる?」
「えっ……ああ」
 言われるままにゆっくりとした足取りで彼女の隣に近寄ると、微かに薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。
「良かった、貴方と少し話したかったの」
「俺と?」
 ええ、と彼女はやわらかく頷いた。
「マッシュに……言わなきゃいけないことがあって」
「はは、なんだろ。良いことかな?」
「多分、そう」
 茶化して返すと、真剣な声で肯定された。
 そうだ、彼女は先ほどまで泣いていたのだ。それと関係があることなのだろうか、などと考えてみたが、彼女の表情からは窺えない。
「ありがとう、ってずっと思ってて」
「え?」
「……ナルシェで、手を貸してくれたでしょ?」
「ナルシェって……そりゃずいぶん前の話だなぁ」
「ロック以外でそういう風に接してくれる人がいて……驚いたし、……すごく嬉しかった」
 彼女の判断基準はやはりロックなんだなと思ってしまい、そう思ってしまった自分自身にもやもやして、俺は話の矛先をわざと逸らした。
「兄貴だってそうだったろ?」
「あれはちょっとやり過ぎね」
 兄の女性に対する行動を思い返し、二人して苦笑するしかない。
「だから……本当にありがとう。貴方のおかげでここまで来れたと思う」
「いや、そりゃ言い過ぎだって。俺は何も……セリスが頑張っただけさ」
 うん、と小さく返し、彼女は俺の肩に軽くもたれた。夜闇にその金の髪がか細く散る。
「頑張れたのはマッシュのおかげなの。認めてくれないなら別に良いけど」
 年相応にわがままを言おうとしているらしいが、慣れていないのがにじみ出ていて、それが無性に可愛らしかった。そんなことを言えば真っ赤になって怒るのだろうか。
「わかったわかった、俺のせいってことで」
 言いながら何とはなしに彼女の髪に手を伸ばそうとしているのに気づいて、ハッとして手を引いた。ずっと一緒にい過ぎて、距離感がわからなくなっている。彼女は俺のものではないのに。
「マッシュ」
「ん?」
「……私、もう逃げないわ」
 唐突な言葉に、思わず彼女を見つめた。
「……何から?」
 彼女は優しく微笑んで、ただ首を振った。

コメント

タイトルとURLをコピーしました