思わず見惚れてしまいそうなくらい美しいひとを見た。いや、それは嘘だった。何故なら俺はその時、本当に見惚れていたのだから。
―初恋は実らない―
その出会いは、大粒の雪が降り頻る道の最中だった。はっとするようなほど豊かな金の髪が、防寒具からさらりと漏れ出して雪に輝いていた。それは絵画に描かれる、天上から落ちてくる光のようで、ほんの僅か、俺はそれを呆然と見た。だが、そんな彼女の唇は驚くほど真っ青で、思わず手を差し出してしまった自分自身に驚いているうちに、その手は意外にもすんなりと受け入れられた。
「……すまない」
彼女は雪道をあまり歩き慣れていないらしく、俺の腕をやんわりと掴んでやや無愛想にそう言う。
「おう。……遠慮はいらねぇよ」
初対面の人間相手なのだから、警戒されたとて仕方のないことだろう。だがむしろ、雪を踏みしだく際に腕に無遠慮にかけられる重みを感じて、声色とは裏腹に、素直に従ってくれている気がした。
彼女を連れてきたロックが言うには、実はまだ、彼女は二十にもならない歳らしい。帝国の早熟なエリートとして有名だったというが、山篭もりのこの身には知らぬ話だ。確かに言動や外見は大人びているようだが、少し青い、若さが見え隠れしているようにも思える。
「セリス、……だっけか。これからよろしくな」
にっと口角を上げて笑ってみせると、微かに頷いてくれた。彼女に少しだけ、近づけたような気がした。
彼女は反帝国組織リターナーの一員となり、ナルシェから飛び去ったティナを探す旅の仲間となった。だが、帝国で将軍という地位にいた彼女に、大多数のリターナーの仲間たちは良い感情を持たなかった。それを自覚しているためか、ナルシェで旅の準備をする間、彼女はあまり笑わず、無駄口も叩かず、まるで鋭い氷柱のようだった。どこに触れてもこちらが凍傷を負いそうな、そして不意に本人の方がぽきりと折れてしまいそうな、そんな空気をまとっていた。
「……これじゃ、どっちが子どもだよって感じだよなぁ」
勿論、恨まれるようなことを実際に彼女はしてしまっているはすだ。だが、今はリターナーに助力する決意を見せた相手に、許さないという姿勢を全く崩さず険悪な雰囲気を作り出しているのは、どちらかといえばリターナーの面々だった。こんなことでは、彼女が誰にも心を開かず、組織に馴染もうとしないのも当然のことに思える。
そんな俺のぼやきを聞いていたようで、傍にいた兄が飄々と肩を竦めた。
「おまえにもそう見えるとなると、事は意外と深刻なのかもしれんな」
「兄貴。……なんとかできねえもんかなぁ。あの空気は本当に嫌になるぜ」
「どうかな。……リターナーは反帝国のための集いだ。帝国への憎しみの心があるからこそ参加した者達が、今更、その帝国に友愛の気持ちを抱けるわけがない。仕方のないことだ」
「でもよ、セリスはもう……」
「かつての帝国の所業に怒る人々が、彼女の罪が過去のものだったからといって許すと思うか?……残念ながら、リターナーはそういう気質の集団では、ないんだよ。マッシュ」
リターナーに属する人達が憎しむのは、これまでの帝国の所業と、今まさに続く惨禍と、その両方だ。セリスはたとえ今、リターナーに助力しようとしていたとて、彼らが許す要素はほとんどないのだった。
「……だが、やがて帝国が傾けば、そうも言っていられなくはなるはずだ。帝国の中から反帝国が生まれれば、セリスのような存在はむしろ旗印になる。だから、遅かれ早かれ彼女とは仲良くしていかなければならないだろうな。まあ、俺は個人的に彼女とは懇意にしたいがね」
結局のところ、リターナーがセリスを受け入れる時があるとするならば、それは利害の関係でしかないということだった。相変わらずの兄の悪癖がだだ漏れているところには頭が痛くなったが、しかしその言葉には珍しく、俺は同意する。
「……お互い、もっと歩み寄れたら良いのになぁ。……下心はなしで」
「ふ。そうだな。本当に……」
それでも、リターナー達からセリスへの態度はなかなか変わることはなかった。帝国大陸になんとか辿り着き、その果てに、魔導研究所で彼女が自らを犠牲にする羽目になるまで。裏切りを疑われても尚、それでもリターナーを生かそうと尽力した、その姿を知るまで。
帝国と決別したと口にしていたセリスは、実際今更リターナーを裏切るわけは、なかった。それは僅かなり共に旅をしてきた俺達が一番知っていたことだった。だが、リターナーの中に居場所を持とうとしなかった彼女を、もしかしたら、と思ってしまったロックを責めることは、誰にも出来なかった。
彼女をリターナーのなかで寛ぐことができないままにした、居場所を作ってやれなかった俺達もまた、ロックにセリスを裏切り者と疑わせてしまった間接的な犯人といえるのだった。
だが、何故信じてやらなかったのだと、ロックに問いたい気持ちは、あった。あるいは、どうしてわからなかったのかと。彼女の視線の先に、いつもいたのは。目付きや、極々僅かな表情の変化をさせたのは。それは全て、ロックだったというのに。そんな彼女をどうして、ほんの一欠片でも、裏切り者と考えたのだろうかと。
彼女はいつだってロックを見ていた。ひどく眩しそうに、ロックを見ていた。ロックが笑うと、彼女も僅かに笑っていた。俺はそれを、知っていたのに。
「初恋ってのは、実らないものなんだよ」
いつだったか、兄がそう言っていたのを思い出す。
俺は今になってようやく、その言葉に素直に頷けるようになった。俺の初恋も、恐らくは彼女の初恋も、その言葉通りだったのだから。
それから。三闘神の力の暴走によってすべてがめちゃくちゃに引き裂かれ、帝国もリターナーもなにもなくなってしまった世界で、俺と彼女が真っ先に会えたのは果たしてどんな意味があったのだろう。
運命を司る神がいるというなら、一体何を考えているんだかわからないなと俺は思う。
「マッシュ、……貴方、生きていたのね……!」
崩れかけた家の中を走り回り、すっかり埃にまみれた彼女は、それでもやはり綺麗だった。初めて会ったあの日のように、金の髪を美しく波打たせて、セリスはその澄んだ目で俺を真っ直ぐに、見つめていた。
どうしたら彼女から目を逸らせるのだろうと考えているうちに、彼女の姿が突然視界から消えた、ように見えた。慌てて差し伸べた手は、倒れそうになった彼女を間一髪で捉えた。
「おっと、……大丈夫か、セリス?」
「ええ、ありがとう。少し……疲れただけ。大丈夫」
言葉とは裏腹に、セリスは俺の腕にしがみついて立っているのがやっとの様子に見えた。その細い腰を恐る恐る手のひらで支えてやると、彼女の額が俺の胸にこつりと当たる。そこにじわじわと掛けられていく重みを感じて、彼女の疲労の深さを悟った。少し、なんかであるはずがなかった。この崩壊した世界で、たった一人どうしてここまで来られたのか。どれほど無理をしてきたのか。
「遠慮すんな、……俺にはどんだけ寄り掛かったっていいから」
その疲れ切った背中を、俺はそっと、抱き寄せた。本当は俺ではないものがそうすべきとわかっていたが、今少しでも彼女を安心させてやれるのは、この場にいる俺だけだったからだ。
ふわりとした髪にそっと触れて、頭を胸に抱き寄せる。それは不思議な感覚だった。彼女が本当にここにいるのだと、生きているのだと、俺は今更実感していた。これまでこんなに近くで彼女の体温も香りも、感じたことがないにもかかわらず。
力任せにかき抱いてしまいたい気持ちを抑えて、ただ慈しむように彼女の頭と背に触れながら、俺は笑って告げた。
「これからは、一緒に行こう。仲間を……みんなを探しにさ」
彼女はこくりと頷いて、俺に身体を預けてくれた。その心と身体を少しでも癒せるような止まり木に、俺がなれているのなら、それで良かった。
二人での旅は、とても長いものになった。魔力の暴走によって裂けた大地と海は大幅に地形が変わっており、旅人に道を聞いていてもなお、次の町や村になかなかたどり着けないからだった。
砂混じりの乾いた風に髪を煽られながら、彼女はよく遠くを見つめていた。きっとロックを探しているのだと、俺は口には出さずに思った。
「セリス、」
それを辞めさせたいと思ったわけではなかった。ただ、遠くを見つめてどうしようもない表情を浮かべる彼女の気を逸らしたいと、そう思って彼女を呼ぶと、彼女は微笑んで、ゆっくりとこちらを振り返った。まるでその掛け声を待っていたかのような笑顔を見て、まさかそんなはずもないのにそう思ってしまう自分に、俺はつい苦笑した。
「何か良いことでもあったのか?」
「良いこと?……いいえ、別に?」
彼女の笑顔は、滅多に見られない貴重なものだった。だが、ここ最近は本当によく笑うようになったと思う。それに、雑談のような会話もよくしてくれていた。
なにが彼女を変えたのか、皆目見当がつかない。ただ、リターナーでは得られなかった居場所のようなものに、俺が欠片でもなれていたのなら、良いなと思った。
「なんだよ、俺に教えられないようなこと?」
わざと拗ねた言い方をすると、それにセリスが呆れた風に言い返してくれるのを俺は知っていた。彼女はその細い指で、風になびく自らの髪を抑え、こちらを見上げてくる。その深い碧の瞳は、いつも驚くほど澄んだ色をしていた。
「そうね、教えてもいいけど、マッシュには……きっとわからないと思うわ」
「ハハ、ひっでぇな。それは話してもらわないとどうかわかんないだろ?」
「そうね、私ってひどい人間だから、」
言いかけて、彼女はハッとして激しく首を振った。
「あ……ごめんなさい。その、別に深い意味はないの」
「セリス?」
くるりとこちらに背中を向けてしまった彼女に声を掛けても、その背中は何も、語らなかった。
「さぁ、そろそろ行きましょう。今日はもう少し、進んでおかないといけないわよね」
「あ、ちょっと待てって、おい」
「時間は待ってはくれないのよ、マッシュ!ほら早く」
振り向いたその顔は、わざとらしいくらいに明るかった。仕方なくそれに誤魔化されてやろうと思って、俺はその後を追った。どうして詳しく話を聞いてやらなかったのかと後悔するなんて、この時は考えもしなかった。
世界に散り散りになった仲間たちは、時間をかけて全員見つけることができた。そして、力を合わせて、世界をこんなふうにしてしまった元凶を、打ち倒す。その日がついにやって来た。
倒すべき敵が君臨する瓦礫の塔に向かう前夜、修練もほどほどに俺は飛空艇の甲板に足を伸ばした。星空でも目に焼きつけてから寝ようと、軽く思ってのことだった。
冷えきった夜の甲板には、先客があった。鉄柵に肘をついたその後ろ姿は、心なしか震えているようにも見える。いや、確かに肩が震えている。彼女は口元を押さえ、嗚咽を噛み殺しているようだった。声をかけるのが憚られて、思わず進みかけた足を止めてしまった。
彼女が泣いているのは、一度も見たことがない。一体、何に。明日の恐怖なのか、あるいは全く違うことなのか。俺が、それを見ていいのか。
「あ、……」
このまま見ない振りをすべきではないかと思い至った瞬間、彼女の頬から一粒の涙が落ちて、夜空に消えていったのを見て、俺は思わず声を漏らしてしまった。
「誰?……」
その問いかけが鋭いのに気が付いて、これはやはり俺が踏み込んではいけないのだと思い、俄に後退りしたが、それを彼女が呼び止めた。
「待って、……マッシュ、なの?」
足音を極力消したのにも関わらず、的確に己の名が呼ばれたことにどきりとして、俺は彼女を見つめてしまった。碧い双眸が、暗闇の奥の俺を窺っていた。
「……悪い。盗み見してたわけじゃねえんだ、その、偶然、」
「わかってるわ、貴方はそんなことしない。……あの、……もっとこっちに、来てくれる……?」
「えっ?……ああ、わかった」
俺がここにいて良いのかと、胸中ぐるぐると思いながらも、言われるままにゆっくり彼女の隣に近寄ると、微かに薔薇のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。知っている、これがセリスの匂いなのだと。
「良かった、……貴方と少し、話したかったの」
「えっ、俺と?」
驚いてつい聞き返してしまった俺に、彼女は目元を自然に拭き取りながらやわらかく頷いた。
「マッシュに……言わなきゃいけないことがあって」
「はは、なんだろ。良いことかな?」
「多分、そうかしら」
思いのほか真剣な声色に困惑してつい茶化して返すと、真剣な声のまま肯定されてしまって、俺はその返事ができなかった。
いま、泣くのを堪えていたことと関係があることなのだろうか、などと考えてみたが、薄暗闇のなかの彼女の表情からは窺えない。
「マッシュ。貴方に、ありがとう、ってずっと思っていたの」
「えっ?……なんだ、そんなこと?」
思いがけない話題に拍子抜けして、俺は苦笑しながら彼女を見た。その目は、穏やかに俺を見返してくる。
「覚えている?……ナルシェで、貴方が手を貸してくれたでしょう?」
「ナルシェって……そりゃずいぶん前の話だなぁ。覚えてはいるけどよ」
「そう、……良かった。あの時、ロック以外であんな風に気安く接してくれる人がいて……驚いたの。掛けてくれた言葉も、……嬉しかった」
そうか、と応えて、彼女がそんな些末なことを覚えてくれていたことに、嬉しくなる。しかし彼女の判断基準はやはりロックなんだなと思うと、今度はどうしようもなく胸がもやもやとしてくる。わけのわからぬ自分の感情に振り回されたくなくて、俺は話の矛先をわざと逸らした。
「俺は、そんな大したことは…………それに、兄貴だってそうだったろ?」
「あれは、まあ……ちょっと気安過ぎね」
「……それについては俺から謝っておくよ」
世のあらゆる女性に対する兄の行動を思い返し、二人して苦笑するしかない。笑いで肩を揺らした後、セリスはふんわりと、微笑んだ。月明かりに照らされて、彼女はひどく綺麗だった。
「あのね、だから……本当にありがとう。私は貴方のおかげでここまで来れたと思っているの」
「そりゃ光栄だけど、言い過ぎだな。……セリスがここまで来たのは、……いや、俺達がここまで来られたのは、セリスが頑張ってきたからじゃないか」
苦しくとも、しんどくても、前に進むことを決してやめず、一人でも歩き続けてきた。どれだけ心細かったろう、怖かったのだろう。それを、俺は想像することしかできない。寄り添って、心の内を聞いて、その身体を抱いて慰めることは、俺には許されることではなかった。それでも、共に傍を歩くことはできた。傍でずっと、その頑張りを見てきた。
これが本心からの言葉だと、彼女にどうにか伝わったらしい。うん、と小さく返して、セリスは少し、俺に近づいてくる。そして、おずおずと俺の肩に軽く頭をもたれた。思わぬ動きに俺は硬直したが、セリスは俯いていて、俺の固い表情は見られずに済んだ。
「ありがとう。……でも、私が頑張れたのは……マッシュのおかげなの。認めてくれないなら別に良いけど」
わがままな風に言おうとしているらしいが、慣れていないのがにじみ出ていて、それが無性に可愛らしかった。もしもそんなことを言えば、彼女は真っ赤になって怒るのだろうか。呆れるだろうか。あるいは、気にもしないのだろうか。
「わかったわかった、俺のせいってことで」
冷たい風が、甲板を吹き抜けていった。闇夜にその金の髪がか細く散る。このか細い肩を抱き寄せてもいいのだろうかと、少し思って、俺は唇を噛んだ。今、一生懸命に手渡してもらったこの純粋な感謝の気持ちを、こんなことで汚したくない。
「話を聞いてくれて……ありがとう。明日は頑張りましょうね」
途端、するりと去っていく彼女に、俺はじっと立ち尽くしたままこくりと頷く。セリスは、一歩引いて、俺の目をじっと、見た。その視線は、まるで目に焼き付けるかのように必死に見えた。
「マッシュ、私は、」
「?おう、」
「……もう逃げないわ」
続けられたその唐突な言葉に、思わず俺は眉を寄せて問いかけた。
「……何から?」
彼女は優しく微笑んで、首を振った。
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