(――俺は、誤ったのだろうか)
白いシーツに広がる艶やかな金髪を撫でながら、まだほの暗い部屋でエドガーは静かに眉を寄せた。
傍らに眠る彼女の、絹のような肌をじっと見つめる。
何度見ても、まるで女神のごときと心奪われる。いつからかはわからない、だがずっと触れたいと願ってきた。
(そうだ。俺は後悔をしているわけじゃない)
溶けてしまう雪のような儚さと、鋭い氷柱のような強さ。
欲しい、と思った。
いつもなら下らない美辞麗句があれこれと浮かぶのに、ただそう思った。
ああ、この気持ちは良くないものだ。そう気づくのは難くなかった。
なにより、彼女の心がこちらに向くとは考えられない。向けようとも思わなかった。
生まれてこのかた秘め事は得意だし、女に不自由しているわけでもない。
彼女でなくてはならない理由が一体どこにある、と考えるのをやめてしまえば、簡単に心に軽さを得られた。
だが、その軽さがひどく歪んだものだとはわかっていた。歪みは時と共にそのねじれを増していく。
だからこそ、彼女を想うロックを見ないように、ロックを想う彼女を見ないように。そうしてきた。
確かに、それは間違ってはいなかった。踏み込まないことは忘れることに近しい。
自分が考えるべきは国であり、個人ではない。そう、信じた。
それなのに。
「エドガーでしょ……?」
恐る恐る、だが嬉しさがはっきりとわかる言い方だった。
港町ニケアの喧騒が、耳から遠ざかっていく。
「さて、人違いだな。俺は君みたいな女は知らない」
え、と言葉に詰まったセリスは、今さらながら他人を見るような視線を向けた。
「なに、言ってるの?記憶をなくした?それとも本当に……エドガーじゃないの?」
「俺は荒くれ者のジェフって名さ」
決められた台本のように、そう口にするしか出来ない自分をもどかしく思った。
目の前に、彼女がいるのに。生きて、俺の名を呼んで、俺だけを見つめているのに。
神がいるというなら、呪ってやりたいとすら思った。
国を助けようと全てをかなぐり捨ててやってきたのに、その最中にこの仕打ちか、と。
強く抱きしめてその匂いやあたたかさを確かめたい衝動を、俺という個を、殺せと言うのかと。
「……エドガー、って、こんなに良い男なのか?妬けるね」
冷たく笑い返すと、セリスはかわいそうなくらいに傷ついていた。
よく見れば、彼女は少し痩せている。この一年、どうしていたのだろうかとばかり考えてしまう自分は、国王失格かもしれない。
「だが、そいつは君みたいな美しいレディを放っておくような奴なんだろう?」
それは無意識だったのか、わざとだったのか。自分でもわからない。
会話の中に散りばめたこんな変なヒントに、セリスが気づくとでも思ったのか。
「……そうね。でも立派な人よ」
ふ、とセリスは笑っていた。
心なしか嬉しそうに見えたのは、気づいてくれたからだろうか。
「国を一番に考えて、みんなの見ていないところを視界に収めて。……自己犠牲を厭わない人」
「そんなに偉いやつなんて、いやしないさ」
やめてくれ、と思った。俺はそんな立派な人間じゃない。
今も、国と君を一瞬でも秤にかけたような男なのに。
「人はみんな汚い。誰もかれも利己的さ。そんなこと、この廃れた世を見てりゃわかるだろ?」
盗賊の頭のジェフとして、この世を罵った。
この世界で生きる希望を捨てていないのは、盗賊のような利己心の塊の奴らばかりなのだ。
それは、人間の本来の姿だからではないのかと。
「でもきっと」
凛とした、しかしあたたかい声に、弾かれたように彼女を見つめた。
セリスは真っ直ぐに、エドガーを見ていた。その深い青の瞳に、全てを晒されるような気がした。
「どこかで、エドガーは誰かの為に生きているわ」
自ら光り輝く、希望。彼女はなにかを乗り越えて、希望になろうとしている。
「……どうしてそこまで、信じられる?」
辛うじてエドガーはジェフとして、馬鹿馬鹿しいという風に口角を上げた。
「あら、理由や理屈が必要かしら?人間が立ち上がるのに、そこに小難しい理由は要らないわ」
眩しさで、エドガーは目を細めた。
どうして君はこの世に不釣り合いなほど美しく、強いのか。
「信じたい、というのはただの……私の気持ち」
「君の?……へえ。面白い人だ」
銀に染めた髪を撫で付け、エドガーは笑った。
「俺はこれからフィガロ行きの船に乗るんだが……君とはまたどこかで逢える気がするね」
それは予感なんかではない。そのことはしっかりセリスにも伝わったようで、彼女はパッと嬉しそうに笑み、頷いた。
それに微笑み返した時、確かに自分はエドガーだった。
(……何故、あいつはこの美しい花を見捨てておけるのだろう)
そっと、彼女の剥き出しの首に顔を寄せる。
芳しい香りが鼻をくすぐり、エドガーは目を閉じた。
見かけとは裏腹に、ロックは不器用で繊細な男だ。奴はとうの昔に枯れてしまった花に今も心奪われている。
それを悪いことだとは思わない。が、そのせいで自ら摘んだ花に水をやることすらあいつには出来なかった。
摘まれた花は、いずれは萎れる。それが道理だ。だが、セリスは違った。
(或いは……君はまだ摘まれてはいなかったということか?)
ロックは小さなこの花の芽生えを大切にしてきたのかもしれない。
そうして今では大輪の華を咲かせたそれを、摘み取ったのはロックではなく。
ずっとその花の育つ様を眺めていただけの、この俺。
(君は気づいていたのだろうか)
人間が摘む花を選んだのではなく、花が摘む人間を選んだのだ。或いは、摘む時期を選んだのだ。
見つけたのはロックだった。だが手に入れたのはエドガーだった。
酷いことをしてしまったという、出来るなら戻りたい気持ちと。死ぬまで彼女と共にいたいという、利己的な気持ちと。
どちらが真なる望みかと問う必要はない。
(俺は……迷っていたのか?)
そうかもしれない。だが、或いは恐れているのかもしれなかった。
確かめるようにセリスの下腹部を抱き締めて、彼女の背中と自らの体を密着させる。
あたたかで、やわらかで、それは確かに今さっき自分のものになったもので。
「……愛してる」
陳腐だ。だが、他にこの気持ちを表す言葉を知らなかった。
愛しくて、守りたくて、哀しくて。どうしたらよいかわからない。
「…………エドガー……?」
気だるそうに、セリスはわずかに頭をもたげてぼんやりと背後に問う。
「起こしてしまったかな。すまない」
彼女の口から確かに自分の名前が紡がれたことに深く安堵している自分は、臆病者だと思った。
「ううん……」
「まだ夜明け前だ。寝ていてもいいよ」
「……エドガーは?」
「私ももう一度眠るよ」
やや間があってから、セリスは脱力して呟く。
「嘘ばっかり」
「なにがだい?」
「……ずっと起きてたでしょ?」
どきりとして、エドガーは薄く目を開けて取り繕うように苦笑した。
「少しは眠ったさ」
「嘘つきね」
まだはっきりと覚醒していないからか、セリスはやけに淡々とそう言った。
「心外だな。疑うのかい?」
真っ白な背中に問いかけても、返事はない。
彼女がなにを暴こうとしているのかがわからなかった。
俺の感情か、それとも行動か、或いはもっと別のことか、単に寝ぼけているのか。
「セリス」
ぎゅっと彼女を抱く腕に力を込める。
「……貴方は、優しい人よ」
「うん?」
「誰にでも優しいから……貴方はかわいそうな人」
「かわいそう?」
「……貴方は、どこにいるの?」
ひどく抽象的な問いに、エドガーは一瞬戸惑った。
「……俺は……」
どこにいるのか。それは、果たして自ら決めて良いのか。彼女はそれを決めろと言っているのかもしれない。
「俺は、……ここにいる。君のとなり、すぐ傍にいるよ」
セリスはエドガーに言わせたのではない。言わせてくれたのだ。そう思ったとき、エドガーは熱い涙を一筋流していた。
彼女は希望だ。絶望を乗り越えて、すべてを照らし、救う希望になった。
「どうして、私なの?」
ふ、とエドガーは笑った。迷いはなかった。
「人が誰かを愛するのに理由や理屈が必要かな。俺は……そうは思わないけど」
セリスはわずかに頷いて、呼吸に肩を揺らす。
その豊かな金の髪に顔を埋め、エドガーはまた目を閉じた。
穏やかに、それが正解でなくとも誤りではないのだと、掴んだぬくもりに確かにそう感じながら。
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