エドセリ

湖沼の囚人

 身体を流れる血。それは脈々と受け継がれ、身体を形作る貴いもの。
 とくに、厳しい自然とともに暮らしてきた人々は血というものを何よりも一番に考えるものなのだという。
「……変えてみせるさ」
 必ず、と背後からセリスの手を握りしめ呟いたのは、この国の国王であるエドガーだった。
二人ともベッドに気怠く横たわったままで、しばらく経つ。
 夜明けの光が厚手のカーテンの隙間から、わずかに室内に漏れている。
 粗末な一室だが、ここはベッドの寝心地だけは悪くないので、重宝していた。
 セリスはシーツで胸元を隠しつつ、彼の熱っぽい手のひらを握り返した。
「貴方が言うと、冗談に聞こえないわ」
ふ、とエドガーが笑ったのが背中ごしに伝わった。
「冗談を言っていると思われるのは心外だな。……形ばかりの婚姻など多くの不幸を呼ぶだけだ。そんなもの、撤廃してやるのが未来のためになる」
「そうかしら。不幸かどうかは貴方の態度次第でしょう?少なくとも、相手の女性は幸せだと思うわよ」
 フィガロの王族と血が混じり合うことは、国民誰しもにとって、何よりも喜ばしいことだと言える。
 愛のない婚姻など、幸せには関係がないのだ。そこに血さえあれば。
「……君は、それでいいのかい」
 セリスの首の下を通ってベッドに投げっぱなしにされていた彼の腕が、むくりと起きて額を撫でた。
「私も成婚パレードを見てみたいもの。きっと国中……世界中が大騒ぎよ」
 剥き出しの床に視線をやって、セリスはぽつりと漏らす。
 婚礼衣装に身を包んだ国王夫妻の姿を想像すると、その豪奢な式への歓声が聞こえてくるような気さえした。
 その観衆の中心で堂々と手を振る彼の姿は、想像に難くない。
「沿道で、私はそれを見るの。幸せ一杯の国民たちに混じって、貴方に笑って手を振るのよ」
祝福する気持ちはきちんと抱けている。きっとそれ自体には何も苦しまないで済むだろう。
「でも、貴方は私になんか気づかないで、先へ先へと行ってしまうんでしょうね……」
 大観衆のうちの、たった一人になど、目は行かない。
 いくら彼と肌を合わせても、結局自分は砂粒のひとつでしかない。それをまざまざと自覚させられることが、何より苦しい。
 この時間は、言うなれば幻なのだ。ふと気づいて周りを見れば、自分は一人で荒野に立っているに過ぎない。
「そして、私と貴方のお話は、それで終わる。……後腐れなくて、悪くないんじゃない?」
「……勝手に終わらせないでくれるかな」
 エドガーは冗談めかして苦笑する。だが、声が固い。
「じゃあいつまで続ける気なの?」
「君が俺を拒むまで」
 聞き飽きた答えだと言っても良かった。胸中で辟易するセリスの身体を、背後からエドガーがそっと抱き寄せる。
 首筋に顔を埋められ、くすぐったさに身を縮ませると、意地の悪い笑い声が耳元で聞こえた。
「……貴方って、毎回そう言うわね」
「気持ちが通い合っている以上は君をこの腕に抱いていたい。……そう思うのは当たり前だろう」
「通い合う?……」
 そんなことが有り得るのだろうかと、セリスは口を歪めた。
 どこまで突き詰めたとしても、相手の思考は欠片もわからない。それが当たり前だ。わかりあっている、通じ合っていると信じ込んでいるだけに違いない。
「君は信じていない?」
 まるで心を読まれたかのような問いかけだった。ぎくりとして肩越しに彼を見上げると、すべてを見透かすような青い目がこちらを見つめていた。
 セリスは咄嗟に、視線を逸らす。

(……信じたところで)

 言葉にはしなかったが、目の動きがそれを悠然と悟らせただろう。

(貴方は私のものには決してならない)

 この一時は、所詮はかない夢でしかない。ぬくもりも、匂いも、声も。すべて、消え去ってしまうのはもう目前なのだ。
「もしかして、セリス。君は」
 つ、と首筋を這うように、エドガーの指先が流れる。
「……後悔している?俺を選んだこと」
「違うわ」
 セリスは反射的にそう答えた。
「そうじゃない」
 二度否定し、彼の手の甲を握る。なによりも後悔していること。それは、エドガーを選んだことではない。
 彼を愛してしまったこと。彼に愛されるようになったこと。

(……あの時、踏み留まっていたら)

 ふと思って、小さく首を振る。あの時などという明確な一点など、あっただろうか。

(ない……んじゃない。作らなかったんだ。彼が)

 するすると糸を手繰るように、或いは川を流れるように。漫然と愛すように、彼に手を引かれていたのだと、思った。
 気づけば、彼の腕の中にいた。最初からそうだった。
「俺は最初に言ったよね。君を後悔させはしないと」
「ええ、覚えているわ勿論」
「少し、本音を漏らすと……最初は、醜い嫉妬心があったんだ」
「……?」
 エドガーの口調は優しい。
「あいつから、君を奪ってしまいたくて……大きな口を叩いた。だがずっと不安だったよ。君は俺を選んだけど、俺を愛してはいないだろうと思っていた。……愛してもらえずとも良かったんだがね」
 最後の呟きは、今はそうではないということを切実に伝わらせた。
「どのみち、俺は自由に婚姻できない。君に本気になったとて、不幸になるだけだった。お互い、隙間を埋め合えるだけで済めば、それが一番なはずだった」
「エドガー……」
「だが、君は俺を見てくれたね」
 すがるように、身体をきつく抱き寄せられる。
「だから俺も、見て見ぬふりができなくなってしまった。君をどうにかして手離さない方法はないか、考えてしまうようになってしまった」
「……その答えは、愛人かしら?」
「違う。それでは傷の舐め合いに逆戻りだ。俺は君と、もっと高い場所に登っていきたい」
「じゃあ山登りのパートナー?いいんじゃない、面白くて」
 セリスは投げられた言葉の波をすべて躱し、エドガーの腕を押し退けて身を起こす。
「もう朝だわ。そろそろ行かなきゃ」
「セリス」
「……やめて。話をしたい気分じゃないの」
 再び伸びてきた彼の手を避け、先に身支度を始める。
 これ以上こうしていたら、何もかも終わりになる。そんな気がした。
「……わかった。ではこの続きはまた今度にしよう」
 しばらくして、背後から衣擦れの音がした。

(聞きたくない。考えたくない。何もかも……)

 進めば戻れなくなる。後退りするにも、彼の手を離せない。
 この場所にずっといることはできないと知っていて、動けないでいる自分の醜さに、真実辟易する。
「……エドガー」
「どうしたんだい?」
 彼の不思議そうな声に、セリスは自らが発声していたことに気づいた。
「いいえ……なんでもない」
「またそうやって隠そうとする。君の悪い癖だね」
「すぐに私に近づいてくるのは、貴方の悪い癖かしら」
「正解。気づいてた?」
 また背中から捕まえられて、あからさまにため息をついてみせる。だがエドガーはめげなかった。
「君に触れていたいからね。願わくば、ずっと」
「叶わないわ」
「そうかな?」
 ふ、と耳に息がかかる。セリスは身体をわずかに跳ねさせてしまった。
「それは、君の態度次第じゃあないのかな。少なくとも、俺は叶える努力は惜しまないつもりだけど」
 先ほどのこちらの言葉を文字り、エドガーは意地悪く笑う。
「不安かい?」
 ぞくりとするほど優しい声色が、そう囁いた。すべてを見透かすような、どこか恐ろしい声。それなのに、つい従ってしまう。
 セリスはほんのわずかだけ、顎先を動かして答えた。
 不安、でしかない。何を選ぼうと、不安の薄闇が視界を阻む。だが確かなのは、彼がいない場所は色濃い闇だということだった。恐ろしくて、考えることすらしたくない。
 どうしたら、この焦燥から救われるだろうか。
 セリスは目を閉じ、自らに問いかけ、次いでエドガーに一言告げた。
「……キスして」
「君が望むなら、いくらでも」
 間髪入れることなく返されるその答えに、安堵している己が、確かにいて。
 まるで、沼に沈んでいくかのごとくだった。囚われてはいけないのに、その不可思議な感触に包まれていくのを拒めない。

(うんざりする。……何もかも)

 わざとらしい音を立てて首筋やら肩、うなじなどに口付けをする彼に、セリスは小さく、透明なため息をついた。誰の目にも見えない、けれど確かな吐息を。

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