邪神が倒れてから、二年経った夏。
仕事を終え、山小屋に着いたのはもう夕方近くになっていた。
額の汗を拭い、セリスは久方ぶりに小屋の戸を押し開けた。
「ただいま」
もう挨拶に照れ臭さは感じない。そんな自分が嬉しかった。
玄関に背負っていた荷物を置いていると、奥の部屋からバタバタと足音が響いてくる。
「セリス!よく帰ったな!!」
満面の笑みでこちらに駆け寄るのは、小屋で修練に勤しんで暮らすマッシュだ。
奥から現れたということは、恐らく夕食の準備をしていたのだろう。彼からほんのりとこうばしい香りがする。
「本当に無事で良かった。お疲れ様!」
「あ、今汗だくだから、あんまり……」
両手を広げる彼に、セリスは思わず一歩退く。
「あぁ、ごめんごめん。濡らしたタオルかなんか持ってくるから、ちょっと待ってて」
「ありがとう、助かるわ」
再びバタバタと走り去り、濡れタオルを手にマッシュはまた駆けてきた。
大した高さではないが、山を登ってきたのだ。夏場にこれは、汗が止まらなくなっても仕方ない。
「腹は?減ってる?」
「少し。でも、我慢できないほどじゃないわ」
ひんやりと冷えたタオルで、首や背中、胸元を拭く。火照った身体にはひどく心地好い。
「そうか。んー……」
マッシュは腕を組み、しばし何かを思案していた。
「なぁに?何かあるの?」
「うーん。まぁ、あるにはあるんだが……」
「言いにくいこと?」
すっかりぬるまったタオルを片手に、セリスは首を傾げる。
「もしかして、私が疲れてるからって遠慮してくれてる?」
問いかけに、マッシュは困ったように頭をかいた。どうやら正解らしい。
「大丈夫よ、別に。明日から三日は休みだから」
「ん。じゃあさ」
すっ、と彼は天井を指差す。
「星見がてら、外で食べないか?」
「素敵なアイデアね。私も手伝うわ」
マッシュらしいな、とつい笑ってしまう。
「おう、ちゃちゃっと済ませて出掛けよう」
首筋に張り付く髪を束ねつつ、セリスはマッシュと共に小屋の奥に向かった。
大きめのバスケットに二人分の食事を詰めて、小屋を出る時には、もう外は真っ暗になっていた。
「セリス、ランタン持ってくれ」
「ええ」
山では、戸締まりなどの用心をする必要がない。二人はランタンとバスケットとだけを手に、小屋から出掛けた。
「夜は冷えるからな。大丈夫か?」
「寒くなったらくっつけばいいわ。私はちょっと汗くさいかもしれないけど……」
くすくす笑って言うと、マッシュがその頭をくしゃりと撫でた。
「また少し山を登るから、俺も汗かくし。どっちが汗くさいとか多分わかんないぜ」
「どれくらい歩くの?」
「んー、ほんのちょっとだよ。ま、食事前の軽い運動だな」
ランタンの仄かな明かりの中で、マッシュはいたずらに笑む。
「競争するか?」
「嫌よ、汗かくから。私の話聞いてた?」
まったく、と肘で彼の脇腹をつついてやった。子どもっぽいところはいくつになっても変わらないらしい。
「それに、せっかくの夕飯がぐちゃぐちゃになったら嫌じゃない」
「うっ、それはそうだな……悪い」
マッシュは大きな背中を丸め、目に見えてしょぼくれた。こういうところが無性にかわいいのだが、そう言っても彼自身は理解してくれない。
「……はいっ、じゃあスタート!」
ランタン片手に、セリスは脈絡なく走り出した。
「えっ!?」
「ほら、早くしないと私の勝ちよ!あ、でもバスケットは揺らさないようにね!」
「待てよ、それじゃ俺にハンデ多すぎないかー!?」
後ろから叫びつつも、彼は律儀に後を追いかけてくる。セリスはそれに捕まらない程度の速さで、山を駆けた。
「セリスの勝ちだよ!」
草原と岩肌をいくらか過ぎた頃、背後からマッシュが叫んだ。
「本当に!?」
随分走ったので、セリスはその場で膝に手をつき、深呼吸を何度もする。
あれだけ汗をかきたくないだの言っていたのは何だったのか。肩で息をしながら、セリスは思わず笑ってしまった。
「昔の軍事演習を思い出したわ……」
まあ、その時はもっと重装備で山を登ったのだが。感覚はそれに近い。
「ふぃー!!やーっと着いた……!」
時間差で、マッシュも同様にその場にバスケットを置いて、荒く息をする。
「マッシュ、中身は?大丈夫?」
「ふっふ、見て驚くなよ~?ほら!」
「ウソ、すごいわ……全然崩れてない」
したり顔をするマッシュに、しかしセリスも負けない。バスケットから水の入った小瓶を抜き、渇いた喉を潤してから、セリスはにっこり笑った。
「でも競争には私が勝ったから、何か景品はあるのよね?」
はい、とその小瓶を彼に渡す。
「そりゃもちろん」
腕で額を拭って、マッシュはランタンを指差した。
「それ、消して」
「?いいけど……」
言われた通りに、セリスはランタンの灯を消した。辺りは暗闇に閉ざされる。
ごくん、とマッシュが水を飲み下した音が聞こえた。
「夏の大三角形って知ってるか?」
「三角形?知らないわ」
「じゃ、教えるから」
「それが景品?」
「駄目か?」
「ぜひお願いします、マッシュ先生」
段々と目が慣れてきて、セリスはマッシュの隣に座ってバスケットの中身に手を出した。
「走ったら本当にお腹空いたわ。もう食べていいわよね」
「良いけど、ちゃんと俺の話聞けよ」
「もちろん」
夕飯は、焼きたてのバゲットに、野菜とスモークしたチーズや肉を挟んだものだ。
いただきます、とお先にぱくりと一口いただいてから、隣に立つマッシュにもひとつ、手渡す。
「うん、おいしい。外で食べるとなんだか特別な感じがするわね」
「たまにはいいよな」
「毎日でもいいわ」
「それじゃ特別感が薄れちゃうだろ?」
言いながら、マッシュも草原に腰を下ろした。
「うん、うまい」
「ねぇ、それで、大三角形ってどれのこと?」
セリスは夜空に向かい、指を差す。
山から見る星空が美しいのはよく知っているが、夏場はあまり空気が澄んでいない。冬だとあまりに多くの星が見えるが、今はそれらしい星は、あまり見当たらなかった。
「あれと、あっちと、それ」
夜空に向けられたセリスの手首を掴み、マッシュは星を指す。
「な。でっかい三角だろ?」
「名前は?」
「あれがアルタイル……あっちはベガ。で、これがデネブ」
「違うわ。あっちがデネブ。でこれはベガよ」
「うん?そうだっけ」
セリスの手首を掴んだまま、マッシュはしばし固まった。
「……ん?待てよ。知ってんのか?」
ぱちぱちと瞬く彼に、セリスは思わず吹き出してしまった。
あはは、と笑うセリスに、マッシュはぽかんとしている。
「ウソよ、本当は知らないわ。騙されたわね、マッシュ先生?」
「セリスー?おまえな、あんまり人をからかうと痛い目見るからな?」
「だって、貴方が面白いから……」
「あのなー……本当に知らないぞ」
手にしていたバゲットをひょいと口に放り込むと、マッシュはセリスの手首を引っ張り寄せた。
「あら、何するつもり?」
「そりゃもちろん。……くすぐりの刑な」
「えっ!?あ、ちょっと!ダメよ!!」
両手で、脇腹やら首やらをくすぐり倒されて、セリスは声にならない悲鳴をあげた。彼は異様にくすぐりに手慣れているので、呼吸すらできなくなる。
「わ、わかったから、もう、やめ……」
「反省した?」
「した!したから……」
「よーし。じゃあ終わり」
セリスはひいひい泣き笑いながら、マッシュにしだれかかった。彼はこらえるようにくつくつと喉を鳴らす。
「本当にくすぐり弱いよなぁ」
「……それは自分でもびっくりよ」
「最初やった時、過呼吸なりかけたもんな。あれは俺もやり過ぎたけど……」
思わずその時を思い出し、二人して笑ってしまった。お互いに距離感を探していた時期のことだ。
あれから、いろいろあった。マッシュは復興の手伝いの頻度を減らし、山に籠るようになった。セリスは護衛の仕事が軌道に乗り始め、よく町に向かうようになった。
二人でいる時間は、以前より減った。だが、距離が離れたとは思わない。
「……ね。マッシュ」
「うん?」
「私、貴方といられる時間が本当に好き」
「うん。俺も」
「これからもよろしくね。なんて、今言うのは変かな」
「いいや。……ありがとな」
夏の星空の下、二人はしばらくそこで過ごした。
笑ったり、黙ったり、ふざけたり。なんてことはない、尊い時間を。
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