夜、飛空艇はロックの向かった洞窟を目指して飛び続けていた。
もう夜半だが、なんとなく俺は寝付けずにいた。カタカタと鳴る機体の音をぼうっと聞いたまま、窓の外の暗闇を見つめる。
セリスが、気になる。ロックがようやく見つかったというのに、大きく喜ぶような素振りはなかった。もちろん、ロックの行動理由がレイチェルという女性のためだということは、無関係ではないだろう。いや、これはこじつけの理由なのは、わかっている。
彼女はその部分に関しては冷静そうだった。俺が振り向いて、彼女に良かったなと伝えた瞬間、すべてが凍りついたかのような顔をしていたのは、わかっていた。
どうしてこう、うまくいかないのだろう。俺はただ。
ただ、セリスに笑っていてほしいだけなのに。
「……ん?」
足音がする。なんとなく耳を澄ませていると、俺の部屋の前で止まった。
わずかな静寂のあと、トントンとノック音が響いた。セリスだろうと思った。出るべきか一瞬迷い、迷う理由はないことに気が付いて、俺は立ち上がった。
「どうした?眠れないのか」
努めていつも通りを振る舞って、ドアを開けた目の前で俯いて立ち尽くしているセリスに声をかけた。
「セリス?」
「……、して」
「うん?」
「眠る前の、挨拶。……してほしい」
俯いたまま、セリスが身を寄せてくる。拒めず、ついその肩を抱き止めてしまう己に、困惑した。
「……セリス、でも」
「お願い。これで最後にするから。もう、迷惑は、かけないから……」
その声は、ひどく震えていた。今にも爆発してしまいそうな、消えてしまいそうな。
「迷惑?」
そんなことは思ってなどいない、と返事しようとした途端に、セリスが叫んだ。
「好きでもない女に……!!こんなことをさせるのがどれほど迷惑で最低なことか、わからないほど私のことを馬鹿だと思っているの!?」
言い切って、しんとした廊下の暗闇が戻る。呆気に取られて、思わずセリスの顔を見つめた。だが、暗闇に沈み、窺い知れない。
「セリス、……迷惑なんかじゃない。俺は……」
俺は、ただ。セリスに、幸せに、笑っていてほしかっただけ。
一度だって、心からの幸せの笑顔を、俺は、見たことがない。どこか痛みを堪えるような、そんな表情ばかりしか、俺にはさせてやれない。
挙げ句泣かせた。どうしたら良かった。どうすれば良い。
思わずセリスをきつく抱き寄せると、びくりと身体を引きつらせて、彼女は俺を突き飛ばした。
「もう、いいわ。本当に……」
ごめんなさい。
セリスの青い瞳から、ぼろりと涙が落ちた。それなのに、彼女は、笑っていた。
「セ、……おい、待っ……!」
廊下を駆け出すセリスの腕を掴もうとした手は、宙を切った。出遅れて、俺も駆け出す。薄暗いメインホールでようやく追い付き、考えるよりも先に、後ろから彼女を羽交い締めにしていた。じたばたと足掻いて、逃れられないのを悟ると、セリスは段々と大人しくなった。
「逃げなくていい、……怒ったりしやしないよ」
努めて落ち着いた声色で、静かに耳元で言う。
「……それは、わたしに……興味がないからでしょう」
脱力しながら、セリスは吐き捨てるように返した。
「貴方は、わたしなんかに、何も……何も感じてなんか、ないもの」
ぼた、と俺の腕に涙が当たる。なまあたたかで、力強い。セリスの持っているぬくもりが、そこに詰まっていた。にも関わらず、まるでゴミのように、ぼたぼたと俺に落ちてくる。今まで、ずっと。セリスは泣いていたのだと、そう思った。
「好きなのは、わたしばっかり……」
酷い人。
鋭いナイフのように、セリスの言葉が突き刺さる。
「……違う」
「違わない。……かわいそうだから、同情してくれてるんでしょう。……マッシュらしいわよね」
「違う、俺は……」
ただ、生きて、笑ってくれていたら。そのためにだったら、俺はなんだって。
はあ、とセリスはひと息吐いた。
「もう、部屋に戻るわ……だから、」
だから、最後に、眠る前の挨拶をしてくれない?
セリスは気丈な声で、だが腫れた目で、俺を見上げた。
腕をゆるめると、セリスはくるりと身体を回してこちらを向いて、額を差し出してくる。誘われるまま、そこにいつものように、静かに口づける。
「……セリス、」
顔を歪めて、セリスは笑んでみせた。ありがとう、と言って離れようとしたその身体をきつく抱き止めて、俺は、もう一度口づけた。額に、瞼に、頬に。少し塩からい、涙の上から。何度も、何度も。
「……もう、やめて、これ以上……」
小さな蝋燭の光が、彼女の濡れた瞳を照らす。そこには俺が、俺だけが、映っている。びく、と震えた身体を、逃さぬよう後頭部に片手を回して、強く抱き寄せた。
セリスは俺の胸元に顔を埋められて、呆然としている。涙の跡が、痛々しく頬を伝っている。
「……俺の、したいようにしていいって、言ってたよな?」
「え、……」
呆然としたままの表情で、セリスは黙った。俺が、その唇を塞いだために。
流れた涙が、唇を濡らしている。しっとりと合わさった唇に、歓喜にうち震えたのは俺の方だった。
「……あ、……」
驚いて俺を見つめる目を、じっと見返しながら、もう一度、その唇に触れる。少し離れて、もう一度。困惑して固まっていた唇が、少しずつ抵抗を辞めて、迎えるような感触に変わる。
唇をやわらかく食むようにすると、おどおどと、それに合わせるように動きを変えたのがわかった。その些細なセリスの動きが、たまらなく俺を呼び寄せた。
彼女の荒い呼吸に気付き、解放するように首筋に口づけると、セリスは目を伏せてわずかに吐息を漏らした。
「……ひどいひと」
「……違いないな」
俺は思わず自嘲する。セリスは明日にもロックと再会できるというのに。
「でも同情ってのは、違う。俺は……」
俺も、好きだ。おまえが。
決して口にしてはいけないその言葉を、俺は一度、飲み込んだ。
「……泣いてほしくない。笑っていてほしい」
セリスは一瞬呆けてから、乾いた声で笑ってまた、酷い人、と言った。
「わたしを泣き止ませるためには、こんな、……こんなことまでできるのね、貴方は」
ふふ、と、セリスはすっかり疲れきった表情で、笑う。
「……どうしたら、貴方に好きになってもらえたのかしらね……」
ぎゅうと、セリスが抱き付いてくる。とくとくと、心臓の音が聞こえるほど。
「……どうすれば、信じてもらえたの……」
背中を抱き寄せて、俺は、そうか、と独りごちる。
信じてこなかった、のだ。彼女の言葉を、心を。こんなに近くで見守ってきたというのに。
俺への言葉も、気持ちも、行動も、すべてが誤りだと決めつけて、見ないふりをしてきた。そして、なにより彼女を深く、何度も、傷付けてきた。この額に、頬に、口づける度に。
酷い人と、わかっていて、それでも俺に心を寄せ続けたセリスに。
「こんなに、惨めな……ことって、あるのね、 ふふ……」
セリスはくすくすと、笑う。痛ましい笑みだった。
「そんな顔、……しないでくれ。セリス……」
俺のせいで、そんな顔を。俺が、彼女にそうさせている。
「悲しませたくない。……わかってほしい」
「……私も同じ。貴方をもう、苦しませたくない。……だからもう、馬鹿なお願いはしないわ」
「駄目だ」
駄目だ、と、俺は二度、強く、言った。
「俺以外に、誰にも、こんなことを、させないでほしい」
「……意味がわからな、」
呆れたようにこちらを見上げたセリスは、ぴたりと止まった。
「俺はセリスの言うとおり、酷い奴だ。……セリスの気持ちを決めつけて、見ようとしなかった。その癖、……セリスがロックと再会するのを見たくないと思ってしまう、自分がいる。この表情を……誰からも隠しておきたいと、そう……願う自分がいる」
何のためにここまで彼女を守ってきたのか。もうなにもかも、わからない。理屈などなかった。
「俺だけが、」
「んっ……!……」
この額に、瞼に、頬に、そして唇に。触れていい人間であれば、どれだけいいだろう。誰よりもやさしく、ゆっくりと触れるのに。トロトロと呆けていく彼女をしかと抱き寄せて、何度も、何度も。
「は、……マッシュ……?」
緊張ゆえか息も絶え絶えに、困惑した表情のセリスが、そう呼ぶ。
「うん。……俺の部屋、連れ帰ってもいいか?」
ぎく、とセリスの身体が硬直したのがわかった。挨拶の口づけの反応があれなのだから、それもそうだろうと思ってはいた。
「……どうして……?」
訝しげな視線が突き刺さる。それも俺のせいでしかない。
「それは、」
口にしたら、終わる。これまでの全てと、これからの全てと。そういう感覚がしていた。だがここで、言わなければ、俺はこの先一生、彼女の溢れるような笑顔を見ることも、見る資格も、無いだろう。
「理由なんて一個しかないよ。俺が、……セリスを好きだから」
「嘘、……もうやめて」
「嘘じゃない。……セリスが嫌ならもう、触れない。……って言いたいが、どうだかな……あまり自信がない。修行のし直しだな」
情けない台詞に、セリスがじとりと見つめてくる。ずっと俺を見ていた瞳は、こんなにも綺麗で真っ直ぐだと、今になって気付かされる。
いや、違うのだと、俺は唇を噛んだ。初めから知っていた。知っていて、見ない振りをしてきた。見てしまえば、戻れなくなる道と恐れた。
「セリスは嘘をついたこと、なかったのにな。……何を恐れたんだろう、俺は」
すまなかった。心の底からそう言って、懇願するように、またセリスを抱きすくめる。ゆっくりと身体を委ねてくれたのがわかり、その重みに自らの罪の重さを知る。
「……許してなんてあげない」
「ああ。ずっと俺を叱ってくれ」
くすくす、と胸のうちで肩を震わせて、セリスは笑っていた。照れたような、けれどひどく嬉そうな、とびきりの笑顔で。
これこそ、と、俺は言葉にならなかった。
「……もっと、いたいな。セリスと、二人で」
言うと、セリスはぎゅうと抱き付いてくる。かわいいな、と思うと自然とその額にまた口付けてしまった。
けれど、むくれた表情を向ける彼女に気が付いて、俺は瞬きと眉の動きで疑問を浮かべる。と、力任せに首を引っ張られて、押し潰すように唇を奪われた。
「こっちがいい」
なんて表情を俺に見せるんだろう、そしてどうしてこんなにも、胸がいっぱいになるのだろう。
終わりだ、これで。俺の無駄な努力も、彼女の悲しみも。
深いため息と共に、返事代わりにゆっくり丁寧に口づけてから、俺はセリスを抱き上げて自室に戻った。
傍観者にはなれない
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