広大な針葉樹林が視界の半分を占める空。
地平線に落ちていく夕日の中で、ひとつの影があった。
「ティターニア、あの湖で小休止しましょうか」
周囲の偵察の帰り、ヴァネッサは喘ぐ天馬の背中をなでて優しく告げた。
ひん、と嬉しそうに嘶き、天馬は素早く駆ける。天馬に無理をさせるのは絶対にしてはいけないことだと、見習い天馬騎士のときに教えられた。
男性を乗せることができない天馬は、例え女性でも一通りの馬具と乗る者の武器でかなりの体力を使う。その疲労によって天馬は速度、高度を著しく低下させてしまうのだ。普通の状態なら避けられる敵からの弓もかなり危険になる。
と、という軽やかな蹄の音とともに草原に降り立ち、ヴァネッサは天馬からも降りた。槍を天馬の背中にくくりつけて、振り向いて見た湖は空から見たものよりとても大きく、夕焼けにきらきらと輝いていた。一瞬見惚れたが、天馬の声に我に返った。
「さ、こっちよ」
ヴァネッサは天馬を促し、湖のほとりに立った。しゃがみ込んで水を両手ですくうと、透き通った良い水だとわかる。
「ティターニア、ほら」
天馬は目を細めて、ヴァネッサの手の中へ鼻先を突っ込んだ。
「美味しい?」
ひん、という返事に、ヴァネッサは微笑んだ。
「さぁ、急いで帰還しましょうか」
天馬の背中に跨り、ヴァネッサは手綱を強く握る。もう一度だけ景色を見て、ヴァネッサはそれを心に強く焼き付けた。
ルネス王国。先の王ファードはグラド帝国に討たれ、実質ルネスは滅びた。しかし王子、王女は辛くも生き延び、王国再興と打倒帝国を掲げて戦ってきた。
フレリアも同盟国として天馬騎士を含む軍隊をルネス王家に貸し与え、ヴァネッサはかなり初期からルネス王女エイリークと共に戦っていた。カルチノに裏切られジャハナを救えず、意気消沈とするエイリーク隊だったが、別に動いていたルネス王子エフラムがグラド皇帝を討ったことで、こうしてルネスに戻ることとなった。
そうして、今飛んでいるのはルネス王国上空。荒廃していると聞き、実際近隣の村はかなり荒れていたが、美しい自然はまだ残っていたようだった。
終始、冷たい風がヴァネッサの頬を撫でる。山の向こうに見える大きな影はルネス城だろうか、夕日に照らされているそれは遠目ながら寂れて見えるような気がした。祖国がこんなにも荒れ地と化して、ルネスの民はさぞかし悔しいだろう。
ヴァネッサはフレリアを思い浮かべて、きっと自分なら槍を片手に敵に襲いかかるだろうと容易に想像できた。
明日にはあの山を越えて、ルネス城に進軍することになっている。ようやくその麓の野営地にたどり着き、ヴァネッサは一際大きな天幕を目指して飛ぶ。天馬の羽音を聞いたのか、フレリア王子であるヒーニアスが天幕からひょっこりと現れ、ヴァネッサは思わず緊張してしまった。
少女のように激しくなる動悸を意識しないようにしながら、どこかぎこちない動作で天馬から降り、膝をつく。ヒーニアスはその流れるような長髪を軽く梳き、美しい声をヴァネッサにかけた。
「ヴァネッサか。遅かったな」
「はっ……申し訳ございません」
この戦いの中で、ヴァネッサは随分と王子と一対一で話すことがある。もう何度目かわからないのに、ヴァネッサはそれでもまだヒーニアスの顔を真っ直ぐに見れなかった。
しかしヒーニアスはそれを全く気にしていない風だった。
「ふっ。構わん。それで、どんな様子だったのか」
偵察を頼んだのはエフラム王子だったのだが、ヒーニアスに訊かれてヴァネッサに答えない理由はない。
「はい。ルネス城周辺に見張りは殆ど見当たらず、城主はどうやら何も策を立てていないように思えました。近隣の村は荒廃が進み、残っている自然もこのままではいずれ、無くなるやもしれません……」
「そうか。エフラムには私から伝えておこう。ご苦労だった」
「ありがたきお言葉です、王子。……では」
「うむ、これからも頼むぞ」
「勿論でございます」
すっと立ち上がって手綱を握り締め、一礼してヴァネッサは馬小屋に向かう。これ以上話せば自分の理性の限界だ、とその足取りはどこか早かった。
「ティターニア、大丈夫? 今日はとても疲れたわね」
すっかり日も暮れ、松明の灯りがそこかしこに灯されている中をヴァネッサはゆっくり歩いて馬小屋に向かった。
「明日は山越えだから、ゆっくり休んで頂戴」
かこん、と閂の丸太を外し、そのなかにヴァネッサは天馬を引き入れる。利口な天馬は自分から小屋へと入るものだ。
ティターニアもわかっているので、すぐに小屋で羽を閉じ、ヴァネッサが馬具を取り外している間、とても大人しく待っていてくれる。
仄かな灯りの中で慣れた手つきで馬具を外し、その後ヴァネッサは天馬の背中を丹念にブラッシングしてやった。
ひひん、とティターニアは気持ちよさそうにつぶやく。
「ねぇティターニア、もし戦いが終わったら、私は……」
先ほどのようにヒーニアス様と話すことはできなくなるのかしら、という言葉は飲み込んだ。馬小屋に誰がいるかわかったものではない。
天馬はただクリッとした瞳をヴァネッサに向けた。
「ううん、なんでもない。さ、綺麗になったわ」
ブラシを水桶に浸け、くんと伸びをすると自然とため息のような深呼吸がもれた。
「どうかしたのか、ヴァネッサ。ため息なんて吐いて」
「きゃっ……フ、フォルデ! 驚かさないでください!」
隣の小屋からのっそりと現れたのは、何故かヴァネッサによく絡んでくる物好きなルネス騎士。薄暗いなかに、明るい金髪がやけに目立っている。
騎士には不似合いな、間の抜けたような笑顔でフォルデは壁にもたれた。
「ごめんごめん。なんか邪魔しちゃ悪いかなと思って」
「結局邪魔をしてるじゃない……いたのなら、何か言ってくれれば良かったのに!」
独り言を聞かれたのかと思うとヴァネッサの口調は益々きつくなる。フォルデは悪びれもしていない様子で勝手に天馬の鼻先を軽くなでていた。
「俺がいたら、君はすぐに帰ってしまっただろう? 天馬のためにもならないと思ってね」
「……調子が良いんだから」
「俺の取り柄だからな」
「ほめていません!」
「そう怒るなよ、さすがの俺でも今日はちょっとナイーブなんだから」
相変わらず飄々として言うフォルデに、はっとしてヴァネッサはどう言うべきかわからず、押し黙ってしまった。
それぐらいのこと、想像できていたはずだったからだ。すっかり荒れた祖国に帰るのだから、ルネス騎士がなんらかの感傷に浸るのは当たり前だ。
しかし、そもそもフォルデがブルーな気持ちになるなんて、あんまり考えられなかったのもまた事実ではある。目をそらして黙るヴァネッサに困ったのか、フォルデは苦笑して肩を叩いた。
「ごめん、それと君は関係ないよな。……忘れてくれ」
怒っていない、と優しく肩を叩き、フォルデはくるりと踵を返す。
「ま、待って、私は……」
何か言わなくては、とヴァネッサは必死に言葉を紡ぐ。
フォルデは気づいて足を止めた。
「ん?」
「私はあなたのこと、誤解していたようだわ……」
「ヴァネッサ?」
「あなたも騎士ですから、祖国奪還にかける気持ちは人一倍なはず。私には、それがわかっていなかった……ごめんなさい」
いつも笑っていたから、わからなかった。それは言い訳なのかもしれなかったが、実際ヴァネッサは、自分が他人の心に鈍感なのを自覚していた。
それがフォルデと自分の違いであり、相容れない元であることも。
「よせよ、ヴァネッサ」
ふ、と笑い、フォルデはヴァネッサに近寄る。
「……俺がそう見せないようにしていたんだから、わからなくて当然さ」
「何故、隠すんです?」
「弱みは見せたくないもんさ。……好きな女には人一倍ね」
「はぁ……」
なるほど、と感嘆をもらす。ややあってから、ヴァネッサは気づいて、目を見開いた。
「って……ど、どういう意味?」
「ま、ゆっくり考えてみてくれよ」
「フォルデ! ま、待ちなさ……!」
くるりと去っていくフォルデの背中を追おうとしたヴァネッサは、ガターンと大きな音を立てて、水桶を蹴り倒してしまった。
それに驚いて、天馬は小さく嘶いた。
「……もう!! 誰よ! こんなとこに水桶を置いたのは……」
自分だ、と自覚した瞬間、ヴァネッサは頬を真っ赤にさせた。
「なんなのよ……あの人」
他人の心にズカズカ足を踏み入れていく、あの男に、少しでも好印象を持ってしまった気がする。ざわつく心を抑えながら、ヴァネッサは桶を持ち上げて、またため息をついた。
戦いはまだ続いている。
明日のために、今日のことは忘れよう。
ヴァネッサは天馬の喉もとを撫でて、ひとり俯いた。
「……王子」
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