リキアから遠く離れた、ベルン。市街地は高い山に囲まれ、オスティアに比べるとやや肌寒い気がする。
国王のデズモンドは竜騎士団となどの武力を背景に、リキアに高圧的な態度を示していた。 そして、黒い牙の本拠地はここ、ベルンにあるという。
情報収集のために解散して間もなかったが、あまり長居はしたくないな、とオスティア侯弟ヘクトルは小さなため息を吐いた。
「ん?」
と、ヘクトルの目にとある店が映った。 小さな宝石店だった。
反射的に脳裏に浮かんだのは、いつも縮こまって紫の髪をふわふわさせている、少女。
あいつに似合うものが何かあるだろうか。
そう考えて、ヘクトルは否定するように首を振った。
「……んなことする意味がわかんねぇし」
ヘクトルが何をしてやらなくても、彼女は微笑んでいる。
ただ一緒にいるだけで満足なのだろうというのは、見ているだけでわかった。だから尚更、ヘクトルはフロリーナへ何かしてやろうとは思ったことすら無かった。
ちら、と展示品を流し見る。紫の宝石のついた、控えめな輝きを放つネックレスがあった。
やはり必要ないな、と歩き始めようとしたヘクトルは、思わず足を止めた。
慣れないベルンの街を、小さな彼女を見つけるためにヘクトルはその大きな体で走った。
迷子にならないように慎重に。しかし、まるで少年のような柄にもない動悸がヘクトルの足を急かす。角を曲がった瞬間、ヘクトルはあの紫を目に捉えた。
「おい!」
「きゃうっ」
フロリーナはいつも通りに、仰々しく身体をびくつかせて、小動物のような速さで振り返る。自分を呼び止めた人物がヘクトルとわかった途端、フロリーナは頬を真っ赤にさせて頭を何度も下げた。
「ヘ、ヘクトル様! ……す、すみません。私、驚いてしまって……」
「いーよ。それより、少しこっち来いよ」
ヘクトルはいつになく性急に、フロリーナのあまりに細い手首を掴み、引っ張った。
「ひゃっ」
「あのなぁ……触っただけでいちいち変な声だすな。リンが聞きつけたら斬られるだろ」
「す、すみません……」
半分は冗談なのに、しゅんとしてまた頭を下げようとするフロリーナの目の前に、ヘクトルは手を差し出す。
「もう謝んなって。……ほら」
フロリーナの視線が注がれたのは、ヘクトルの手の中の輝き。
「え? な、なんですか? これ……すごく……」
「綺麗だろ?」
そう言って見つめたフロリーナの瞳に映った輝きは、思っていた以上に美しかった。
ヘクトルの動悸は、大きくなる。それを知ってか知らずか、フロリーナはふわりと微笑みを返した。
「はい……紫の宝石のネックレスですね。誰かにお渡しになるんですか?」
一瞬、ヘクトルは目の前の少女が何を言ったのか理解出来なかった。
「アホか! おまえに見せてんだから、おまえにやるんだよ」
「へ!? で、でもすごく高そうですし、私になんか……」
手首を握られたままフロリーナはわずかに後退りしようとしたが、そんなことはわかっていたので、ヘクトルはこれでもかというくらいに不貞腐れた表情を浮かべてやる。
「おまえに似合うと思ってわざわざ買ってきたんだ。俺が言ってることが信じられないのかよ?」
「そ、そんなわけないです!」
「なら、ほれ。後ろ向けよ。つけてやるから、髪を上げててくれ」
「は、はい……」
その従順な態度に、内心はにやにやしながら、くるりと回るフロリーナを眺める。後ろを向いて髪をかき揚げる細い腕が、紫の髪をやわらかに揺らし、やけにヘクトルの目に焼き付いた。と同時に、一瞬甦った動悸にヘクトルは思わず唇を噛む。
「あ、あの……ヘクトル様?」
「あ、……わりぃ」
フロリーナの胸部に手を回し、首筋にネックレスを当てる。ヘクトル自身、何故かはわからなかったが、不思議といつものようにびくびくする彼女に苛立ちを感じない。むしろ、心を満たすのはすのは穏やかな気持ちだった。
だからかもしれない、むにゃむにゃ言っているフロリーナに向かって、口をついて出た言葉は案外に優しいものだった。
「くすぐったいか?」
「え……あ、はい……少し」
髪に隠れている留め具を引っ掛けるのはなかなかに難しい。フロリーナの少し驚いた声には、集中していたせいでヘクトルは気付かなかった。
「へ、ヘクトル様……」
「おい、動くなよ。……よし、できたぞ」
「あ、はい」
ふわりと髪を下ろし、フロリーナは俯いてネックレスを見つめる。
「わぁ……すごく素敵です……!」
「俺が選んだんだ、当たり前だ」
「そうですね、ありがとうございます!」
振り向いたフロリーナは頬を朱に染めて無邪気に微笑んだ。胸元の宝石がわずかに輝き、ヘクトルの目を奪う。
見立てた自分が言うのもなんだが、本当にこいつに似合ってるなとヘクトルはぼんやり思った。
「ヘクトル様?」
大きな瞳がヘクトルを見上げていた。フロリーナは背が低いし、ヘクトルは背が高いから、いつも通りの光景だ。それなのに、ヘクトルはフロリーナの無垢な瞳を見ていられずに、思わず目を逸らしてしまった。
「……お、おう。なんだ、また泣くのかと思ったぜ」
「そ、そんなに私……泣き虫じゃありません」
「おい、言ってるそばから泣きそうにすんなよ……」
うざってぇ奴、とだけ今までは思っていたのに。ヘクトルは小さくため息を吐いた。
「す、すみま……」
「ちげぇよ。あのさ、おまえ……それ、大切にしろよ」
いつから自分はこんなに面倒な女に甘くなったのだろうか、とヘクトルは髪をかく。フロリーナは相変わらずマイペースに、ヘクトルを見上げて微笑んだ。
「あ、それは、はい、もちろんですっ」
フロリーナの事だから、どうせ命令だと思ったのだろうとは感じたが、わざわざヘクトルはそう伝えようと思わなかった。それは多分、フロリーナのやわらかい笑みに、毒気を抜かれたから。
「ヘクトル様?」
ヘクトルが急に、ふ、と笑ったので、フロリーナは首を傾げる。
「なんでもねーよ」
笑顔や優しさは人から人へ移っていくものだとは知っている。だが、フロリーナのそれは自分には特別に作用しているということ。それを今さらにヘクトルは知ったのだった。
ベルンに麗らかな日差しが射し込んでいた。黒い影を鮮明にする、目映い光が。
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