8、なぜだかとても落ち着かない
モブリズからさらに蛇の道を北上し、たどり着いた港町ニケアでは、なんとエドガーと再会することができた。
紆余曲折あって、フィガロ城でようやくマッシュはエドガーと抱擁を交わしたのだった。
男と抱き合う趣味はない、と豪語しながらも、実の弟は別格らしい。エドガーはいつになく優しく微笑んでいた。
「しかし、セリスがこいつと一緒にいたとは驚いたな。子どもっぽいやつだから、手がかかっただろう?」
銀に染まった前髪をかきあげて、エドガーは困ったように笑う。セリスはそれに、首を横に振って答えた。
「まさか。マッシュには助けてもらってばっかり。私の方が手がかかったんじゃないかしら」
兄のエドガーから見れば、彼はいつまでも弟であって、子どもっぽいと思うのだろう。だが、この旅は、マッシュが舵を取ってくれていたと言っても過言ではなかった。
「そうなのかい?……なんだ、おまえも少しはレディーの扱いがわかってきたんじゃないか?」
エドガーに脇腹を小突かれて、マッシュはくすぐっそうにしながらも、子どもっぽく笑む。
「余計なお世話だってーの」
気分がすっかり弟に戻ったのか、彼は軽口を叩いて兄と肩を揺らしていた。
これが彼の自然体なのだろうかと考えたが、かといって今まで無理をしていたかというと、そんな風には決して見えなかった。
もしかしたら、今まで旅の中で自分が見てきたマッシュの姿を、エドガーは知らないのかもしれない。そう思うと、なんとなく誇らしくなった。
「さて、とりあえずフィガロ城は再起動できたことだし……今夜はゆっくり休もうか。今後のことは明日以降、だな」
「ああ。しばらくは城中てんてこ舞いだろうし……落ち着くまで手伝うよ」
言って、マッシュはくるりとこちらに顔を向ける。
「セリスも、付き合ってくれるか?」
にかりと笑ったその表情は、既に答えを知っている表情だ。
「ええ、もちろんよ」
翌日は、マッシュの言っていた通り、てんてこ舞いだった。
砂をかき出すことはもとより、修理やら掃除やら、はたまた溜まった事務仕事、図書室の蔵書から歴史を紐解くことまで、なんでもやった。
所詮自分は他国の人間だから、などと考えていられたのは最初だけで、明らかに重要そうな書類や、国家機密に近い歴史書にまで目を通す羽目になったのには驚いた。
「彼女は十分すぎるほど信頼に値する」という国王の一言は、まさしく鶴の一声だった。
「セリス様、昼食の準備が整いました」
久しぶりに頭を使い、疲れきって椅子の背にもたれると、メイドがひとり寄ってきてそう告げた。
「あ、はい。すぐに行きます」
ぐだっているところを見られたかも、とセリスは慌てて立ち上がる。
朝もそうだったが、まだ掃除の手が行き届かないせいで、エドガーとマッシュ、セリスは使用人たちと共に食堂で食事をしていた。
時間をずらして使う、と主張した神官長に、エドガーはわざわざそのような手間は不要だと返したのだ。恐らくは、たくさんの女性と食事ができるからという理由なのだろうが、民のこころに添うようなその意見に、神官長は嬉しそうに頷いていた。
「陛下と殿下は、既にお待ちしておりますよ」
先を歩いてわざわざセリスが部屋から出るのを待ち、その扉を閉めてくれながら、メイドは明るく言う。
「えっ、そうなの?……ごめんなさい、急いでいきます」
「あ、そうではないのです。陛下が、セリス様の仕事が一段落ついたら呼んでくれればいいと仰っていました」
ああ、なるほど、と腑には落ちたのだが、一見きょとんとした顔を浮かべてしまった。それに気づいたメイドは、慌てて言葉を付け足す。
「陛下は、セリス様のお手をわずらわせるだけでも大変心苦しいのです。ですからせめて、セリス様のペースに合わせて差し上げたいのだと思います」
どこまで本音なんだか、と思ったが、気遣ってもらったことに変わりはない。
「……素敵な君主をいただく国は、良いですね」
メイドは、セリスの出身を知らない。故に、はい、と溢れるように笑った。
「マッシュ様、本当にお身体がすごいですね!」
「触ってみてもよろしいですか?」
「馬鹿、失礼でしょう!」
「なによ、アンタも触りたいならマッシュ様に頼めばいいじゃない!」
「はぁ!?あなたこそマッシュ様に失礼なんじゃなくて?ね、マッシュ様?」
セリスは、目を丸くしたまま、しばし食堂の入り口で固まった。
メイドたちに囲まれて、困った顔で笑っているのはマッシュだ。エドガーと比べれば目新しい存在なのだから、仕方ないのかもしれないが。
「……いや、んなことより、腹、減らねえか?飯にしようぜ……」
「ほら、マッシュ様は空腹であらせられるのよ!退きなさい、この羽虫!」
「なんですってぇ!!アンタだってちゃっかりマッシュ様の隣の席に座ろうとしてたじゃない!」
「ふん、食堂は指定席じゃないんだから、別にいいじゃない」
「口の減らない女!そんなだからまだ独身なのよ!」
「結婚がゴールだなんて誰が決めたのよ?頭が固いわね!」
ぱちくり、と瞬いて。頭痛にふらつきそうになる。
壮絶だ。とにかく、壮絶だ。
「静かになさい!陛下、ならびに殿下の御前ですよ」
すっかり萎縮したセリスに気付き、立ち上がって声を上げてくれたのは神官長だった。
「客人も見えました。卑しい言い争いはおやめなさい」
耳障りな金切り声がやむと、食堂は一気に静まりかえる。数十人はいるだろうメイドたちの視線は、途端にセリスに向けられた。
「さ、セリス様。こちらへ」
神官長は、空いていた席に手招く。いや、わざわざ空けていた席、なのだろう。
「遅かったな。腹、減っただろ?」
なぜなら、その席は、つい今しがたメイドたちが取り合っていた席だったから。
「……いえ、むしろ待たせてしまったみたいね」
「気にすんなよ、セリスには色々頼んじまったからさ」
メイドたちに見つめられながら、セリスはマッシュの隣に座った。視線に浮かされたのか、ひどく、頬が熱くなっている。緊張しているのかもしれない。
だが、マッシュはいつも通りに気遣いの言葉と笑顔を投げてくれた。
「結果的には助かってるけど、無理はしないでくれよな」
「あ、……ええ」
「?どした、あんま調子良くなさそうだな」
「えっ、いえ、そんなことは……」
何故だか、マッシュとうまく話せない。周りの視線がこちらに向かっているから、だろうか。
「ちょっと、疲れたのかも。食事すれば治るわ、うん」
「……そうか?ならいいけど」
隣にいるのに。遠くに感じる。
自分が今まで占領していたこの人は、本当はみんなに愛されるべき人であって。
誰からも好意をもたれて、誰しもに好意を返して。そんな人だ。
メイドの視線の意味は、痛いほどよくわかる。そのほとんどは「何故」だろう。
何故、彼がこんな女に席を取っておいたのか。その理由を問うているのだ。
そこに、自分はなんと返せばいいのか。誤解されぬような挙動を、己は取れるだろうか。
つまるところ、己を疑ってしまうのだ。今までの挙動は、距離感は、一般的に見て正しいものだったのかどうかと。
「セリス?大丈夫か?」
肩に走る衝撃に、思わずびくりとした。ぽん、と軽く、大きな手のひらが肩を包むように乗せられる。
反射的にマッシュの目を見つめると、彼はやはり普段と変わらず親しみがこもった目でこちらを見ていて。
「……ええ。大丈夫、になった」
それがすべての答えな気がして、セリスは肩の荷が下りたように気持ちが軽くなったのを感じた。
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