マシュセリ

Lost Memories



「――それ、本当に?」
 嬉々として尋ねられ、セリスは多少なりとも照れながら小さく頷いた。ティナはすでに、自分たちの関係を知っている。だから一番に彼女に伝えたかった。
「じゃあ、絶対に生きて……勝たなきゃね!」
 まるで自分のことのように幸せそうに、ティナはそう言ってくれた。そして甲板上を吹く風に髪を煽られながら、彼女は静かに呟く。
「帰るところがあるのは本当に幸せなことだって、今なら良くわかるの。私にはモブリズのみんながいて……」
「私には、彼がいてくれる」
 うん、とティナは笑った。
「みんなを見つけて、みんなで戦えば、きっと勝てるわ」
 セリスは相槌を打つように深く瞬いた。
「女二人でなにを楽しく話してんだ?」
 と、不意に背後から皮肉めいた声がかけられる。二人して振り向くと、コートのポケットに手を突っ込んだまま、セッツァーが無愛想な表情でやってきた。
「秘密よ、ヒミツ。女だけの」
「んだと? 大して女々しくもねぇくせに何言ってやがる」
「あら、失礼ね。今してた話はれっきとした女の話なんだから」
「ふっ、そうかい。悪かったな」
 銀色の髪を無造作にかき上げ、セッツァーは軽く息を吐く。
「てっきり、昔話でもしてるのかと思ったぜ」
 何気無く言われた言葉に、セリスは思わず顔をしかめた。不快だったからではなく、胸に苦々しいものを感じ得なかったからだった。
「……帝国でしてきたことを忘れたわけではないわ。一度でも血塗れたこの手は、もう元には戻らないって、わかってる」
 そしてちらりとティナを見ると、彼女は真っ直ぐな目でこちらを見返してきた。強い瞳だった。
「だからこそ私は……償うためじゃなく、許されるために、生きていきたいの」
「許されるため……そうね。私も……」
 ティナはわずかに考えて、こくりと頷く。
「あの子たちはこんな私をママと呼んでくれる。きっと私は……許されたのだと思うの。だからやっぱり、償うためじゃなくて、報いるために、これからを過ごしたい」
 報いるため。そうだ、報いたいのだと思う。こんな自分を受け入れてくれた人に。共に歩んでくれる人に。許してくれた人に。
 はっ、とセッツァーは愉快に笑った。
「なるほどな。よくわかったぜ、アンタたちを心配する必要はねぇようだ」
「心配なんてしてくれてたわけ?」
 セリスの小声の突っ込みをとくに気にした風でもなく、セッツァーはぐっと髪をかき上げる。そして、やけに真剣な目でこちらを順番に射抜いた。
「……絶対に忘れんなよ、アンタたちを許してやれる人間がいることをな」



 部屋の中はとても静かだった。わずかに響くのは彼女の息だけ。規則的なそれを聞きながら、マッシュは傍の椅子に座って彼女が起きるのを待っていた。
 突然セリスが甲板で倒れたと聞いて駆けつけて、その細い身体を抱き上げて運ぶ間、あの時、ティナを庇って彼女がひどい怪我をした時のことを思い返していた。怪我に響かないようにと慎重に、その血まみれの身体を運んだのに、彼女の記憶だけはこぼれ落ちてしまっていて。
「……あの時……もっと強く抱いていれば、なんてな……」
 マッシュは自嘲気味に笑む。何を言っても仕方のないことだが、後悔は募った。そもそも、己が彼女をきちんと庇ってやれていれば。
 ぎゅ、とセリスの白い指先を握り締めて、その無垢な寝顔に語りかける。
「こんなに近くにいるのにな。……すげえ遠いよ」
 泣き顔も、笑顔も、この唇のやわらかさすらも知っているのに。
 彼女は知らないのだ。自分との思い出なんて、何もかも。
 だから。
 最初から、すべてやり直せば良いと思った。もう一度、彼女の横に並んでやろうと。
 だけど。
 セリスは、もっと根本からやり直せるのだ。他のひとを選んだって構わないはずだ。無理に同じ路を歩まなくたって、セリスはセリスだから。
「……ん、…………」
 ぴく、と指先が動いた。
「セリス?」
 身体を前に乗り出して呼ぶと、長いまつ毛がゆっくりと上げられていく。開いたまぶたから見える瞳は青く輝いて、こちらを見ていた。
「マッシュ……」
「おう。良かった、結構大丈夫そうだな?」
「……心配、かけた……?」
「おう。突然倒れられちゃ心臓に悪ぃよ。いきなり俺を殺そうとしないでくれ」
 つい冗談めかした言い方をしてしまって、はっとしてセリスを見たが、しかし彼女は笑っていた。
「……マッシュ、」
「ん?」
「ここに座って」
 セリスは空いている方の手でぽんぽんと、自らの枕元を叩く。
「ん? ……良いけど、かなり沈むぞ」
 そう言うと、また彼女はふわりと笑んだ。寝起きだからか、やけに当たりが軽く感じられる。マッシュはセリスの指先を離して立ち上がり、出来るだけ静かにベッドに腰かけた。
「……私どれくらい眠ってた?」
「うん? ああ、かれこれ三時間くらいかな」
「そう……」
「本ッ当にびっくりしたんだぜ? ティナもすごい動揺してて、わけわかんねぇし」
「そっか……ティナにも心配かけたのね。後で謝っておくわ」
「おいおい、俺には?」
 またつい以前のように言ってしまい、慌てて身体をひねって彼女を見下ろすと、セリスはマッシュの背中というよりは腰に、顔をぴとりとくっ付けていた。
「セリス……?」
 しがみつくように、細い指先が腹部を掴む。
「貴方には、むしろ謝ってほしいくらいだわ」
「え?」
「約束してくれたのに」
「……セリス、おまえ」
「ずっと一緒にいよう、って言ってくれたのに」
 泣き声に近いその言葉に、マッシュは愕然として問うた。
「おまえ、記憶が……」
 甘える猫のように、セリスは顔を擦り寄せる。その表情は隠れてしまい、窺えなかった。
「忘れてしまってごめんなさい。忘れちゃいけない大切な記憶だったのに」
「セリス……」
「貴方につらい想いをさせてしまってごめんなさい」
「馬鹿、そんなのどうだって良いんだ」
 マッシュは大きな掌で、彼女の頭を撫でてやる。
「もう、どうだって良いんだ。……こうしてまた、おまえに触れていいんなら」
「でも、」
「さっきおまえの言った通り、むしろ謝るべきなのは俺の方さ」
 長く、美しい金の髪を、指先で優しく梳いてやる。二度とこうすることもないと思っていた、甘やかな金糸。その先端までもが限りなく愛おしくて、途方もない気持ちになる。どうしてこれを手放せるとわずかでも思ったのだろう。
「……なあ。もう一度、同じ約束をしてくれるか?」
 微かに震えるセリスに、優しく呟く。
「これから何があっても、永久に二人は一緒だ。死以外に二人を別つものはない」
 嗚咽を漏らしながらも、セリスはこくこくと頷いた。マッシュは笑って、服を握り締める彼女の左手を取り、その薬指に唇づける。
「じゃ、とりあえずはこれが誓いの証し、な」
 馬鹿、という小さな文句は聞き流して、彼女の手を握ったまま。
「セリス。……顔、見せてくれよ」
「……いや、よ。真っ赤だもの」
「真っ赤なのが嫌なのか? 俺が全ッ然構わなくても?」
 顔を見られないためにか、セリスは意固地にマッシュを強く抱きしめ直した。随分久しぶりに見る彼女のかわいい仕草に、言い様もないほどくすぐったい気持ちになる。
「この体勢、結構つらいんだけどなぁ……」
「……マッシュばっかり、ずるい」
「ずるい?」
「面と向かっては言いにくいの」
「何がだよ?」
「私だって、貴方のことが好き」
 え、と思わず声が漏れる。
「記憶がなくても、貴方の傍にいたいと思ってた」
「はは。嬉しいな、そりゃ」
「エドガーが言ってた。きっと身体が覚えていたんだって」
「兄貴が?」
 思えば兄にも心配をかけた。彼女をどうにか元に戻そうと、色々と、嫌な役もしてくれていた。ちょっかいも出していたみたいだが。
「……もし、記憶が戻ってなかったら、セリスは……誰を選んでた?」
「答えは一つしかなかったわ」
 寸分の迷いもなく、セリスは言い切った。
「純粋で真っ直ぐな強さを、貴方は持っていた。強さがなにかを貴方は知っていた。だから、」
 彼女の言葉に、マッシュは深く頷いた。これと同じことを、彼女から聞いたことがあったから。
 何度でも彼女はそう言ってくれる、ような気がした。それは自信よりもずっと不確かな、奇妙なほどの確信だった。
 このひとが、自分を選んだということ。たったそれだけの事実が、たとえようもないほどにこの胸を満たした。
「あー、……なんつーか……聞かなきゃ良かったか、な……」
 熱くなる顔を片手で覆ったままで呟くと、セリスはくすくすと声を上げて笑った。


 こうして、セリスの記憶は無事に戻った。全員そのきっかけを知りたがったが、彼女は頑なに言おうとはしなかったらしい。
 ただその代わりに、セリスは照れたように笑んだ。それは年相応の、幸せそうな笑顔だった。

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