ついに、ケフカに挑む時が来た。瓦礫で出来た醜い塔の頂上に、破壊神の名を騙って君臨する、狂気の男。
「世界の命運がかかる戦いだ。決して負けるわけにはいかない。……しっかりと休み、万全の状態で行こう」
洞窟探索で疲労したセリスたちを気遣って、エドガーが三日間の準備期間を提案し、誰からも異論はなかった。気持ちの整理、身体の準備、武器の手入れ。なにもかもを整えて、戦いに臨めるならばそれ以上のことはない。
そして、飛空艇はサウスフィガロ近郊に停められた。
セリスはひとまず、愛剣の手入れをしに町へ行くことにした。孤島を出てからずっと簡単な手入れで騙し騙しやってきたが、長らく本格的な手入れは怠っていた。いつへし折れてもおかしくはない。
魔封剣は、剣を媒体として魔力を吸収する技であり、剣が壊れれば技も壊れる。さすがにこれで決戦へは行けない、とセリスは苦笑する。
朝から鞘を片手にサウスフィガロの鍛治屋に足を運ぶと、意外な先客がいた。
「……セリス殿」
「カイエン。貴方も剣の手入れに?」
カイエンを前にすると、何故か口調が固くなる。彼とは武人とした相対するのが常だったから、そうすることが礼儀のように思っていた。
カイエンは渋い顔で、セリスを見やった。
「いや。拙者は新しい刀を頼み申したところ」
「新しい? しかし、カイエンはずっと同じものを使っていたはずだろう」
「ふむ。よく気づいたでござるな」
「いや。ドマの刀の装飾は独特だから、美しくてつい……目に入っていた」
ドマは文化が他国とはかなり違う。細かな装飾の施された鞘などは、芸術のようですらあった。そういう美しいものにはついつい興味が湧いて、気付けばその刀をよく見ていただけのこと。
「……拙者には、何か新しく始めることが必要なのでござる」
ふ、と笑んだカイエンは、ひどく穏やかな瞳をしていた。これが彼の本来の姿なのだろう。帝国への憎しみを捨て去ったわけでは決してないはずだが、今やカイエンは更にその先のなにかを見据えている様な気がした。それはまだ、セリスには辿り着けない境地であり、その景色を共に見つめることは叶わないが。
そう、とだけ返事をすると、丁度、鍛治屋の店主がセリスに気がついて、大きな声をあげた。
「らっしゃい!! 今日はどんなご用件で?」
「ええ。これの手入れを頼みに」
「お、こりゃまた珍しい……帝国の名匠、ジハードの作品ですか」
「さぁ、詳しくは知らないわ。二日で仕上がる?」
まだ若い青年に見える店主は、セリスの剣を四方から眺める。
「……中が錆びてますね。相当の血を吸って」
そう呟き、店主はちらりとセリスを見た。
「ま、ジハードの剣は滅多にいじれないですから。やってみます」
にこ、と店主は気の良い笑顔を浮かべて、剣を鞘に納めた。そしてくるりと背を向けて、奥の鍛冶場へ歩いていく。
「……そうだ、お客さん、」
「?なにかしら」
「色々、ありがとうございました」
「えっ?」
「陛下とフィガロのこと、救ってくれたんでしょ? ……お客さんが昔、いくら悪いことをしてたとしても、そこは感謝してますよ」
店主の言葉は淡々としていたが、セリスの胸を射貫いた。己の行動で救えたものなど殆どないとわかっている以上、これが許しだとは思わなかったが、それでもほんのわずかな肯定を受けたのだと。
返す言葉のないセリスの肩を、カイエンがそっと叩いた。
「……カイエン」
「過去は変わらぬ。しかし……未来は変えられる。それはみんなわかっているのでござるよ。拙者はようやく理解し始めたようなものなのでござるが」
「ええ……」
年齢を感じる目尻の皺を優しく寄せて、カイエンは頷く。
「生きて帰って……殺めた者たちの分まで、セリス殿には幸せになっていただきたいでござる」
その表情に一瞬、シドの微笑みを思い出して、胸が苦しくなる。
この両手は既に夥しいほどに血だらけだった。それを拭う術は今更あるはずもないが、それでも、二度と血を流させないために剣を握り、戦うことはできる。
今度こそケフカを倒し、平和を取り戻す。託された希望を必ず、世界に届けるために。
「ありがとう……カイエン……」
剣を鍛治屋に預けて、セリスは町を見物して歩いてみることにした。ここにいることを許されたとは思ってはいないが、一度も見れずに悔いが残るのは避けたい。
サウスフィガロは活気に溢れていて、見ているだけで気持ちが上向くかのようだった。国を誇れる民達がいて、その民達に愛される王がいる。帝国はそうではなかったが、それが歪な状態であると正そうとした人間は誰もいなかった。だが、どうすればよかったのだろうと悔いて下を向くことは、もう辞める。
「……あら?あれは、……」
町中に張り巡らされる水路に取り付けられた水車。くるくると回るその傍に立つ一組の男女。やけに様になっているなと思って思わず視線を向けてみると、それはエドガーとティナの姿だった。
遠巻きながら、良い雰囲気なのが伝わってきて、セリスは思わず微笑む。幻獣と人間の混血として生まれたティナは、帝国によって感情を奪われていた。それが今は、あんなにもきらきらと輝いて、それを受け止めてくれる人もいる。
「……幻獣、か」
そっとしておこうと、その場から離れてサウスフィガロの町を囲む柵壁の上を歩きながら、セリスは俄に考える。幻獣という存在。三闘神が産み出したという、力そのもの。死者を一瞬でも蘇らせる力までも持つ、強大な力。
ケフカは魔大陸で暴走した後、三闘神をどうしたのだろう。奴の目的は三闘神のバランスを崩し、世界を崩壊させることだったのではないのか。それなのに、世界は中途半端に残っている。まるで、見せしめのように。
ストラゴスは、三闘神は魔法の神だと言っていた。魔法の力を生み出した祖であり、源であると。もし三闘神が消えれば、魔法も消える。ならば今、三闘神はどこにどのように存在しているのか。
いるとするならば、魔大陸の残滓を含むあの醜い塔だろう。ケフカが各地に落とす裁きの雷の、異様な広範囲さ、その威力の高さを思えば、ケフカは三闘神の力を利用しているのではないかという可能性が、頭をよぎる。
「……ケフカが死ねば……魔法が消えるかもしれない……?」
魔法の力すべてが消える、というなら、その力を凝集した魔石も、魔法の力を持つ幻獣も、消える。
そうして思考が辿り着いた答えに、喉元に剣先を突きつけられたようにひやりとした。
「じゃあ……ティナは、……」
その体の半分に幻獣の血が流れているティナは一体、どうなるのか。ケフカを倒す代わりにあの幸せそうな笑顔が消えてしまうなど、そんな可能性があっていいのか。
「おっ、セリスー!」
遠くから聞き慣れた陽気な声が聞こえてきて、セリスははっとして顔を上げた。見れば、無邪気な笑顔を浮かべたマッシュが手を振って走り寄ってくる。
「こんなとこにいたのかぁ。鍛冶屋にいると思ってたからさ、……ちょっと探しちまった」
「あ、それはごめんなさい、……ちょっと町を見たくて」
「いやいや、俺もちゃんと約束してなかったからさ、悪かった。……ここは見晴らしが良いよなぁ、俺もよく来てたよ」
そう言われて初めて、セリスは周りの景色に目をやった。輝く海と、多くの民が行き交う道の二つが見え、とても活気に溢れている。誰もが、この営みがこれからも続くと思っているはずだった。旧帝国領の町だって、ケフカがこの世界から消えたとわかれば、あるいは希望を取り戻してくれるかもしれない。まだ世界は終わらないと、これからも日々は続いていくと。
だが、そのためにもし、ティナの異変が避けられないというなら、それは。その時、この腕は容赦なく迷いなく剣を振るえるだろうか。
「……どうかしたか?」
「いいえ、……」
考えるより先に、反射的に首を横に振っていた。
「そういう風には、あんまり見えないな。……何か、心配か?」
だが、マッシュは相変わらず心配そうに尋ねてくれる。そうか、この人には少しくらい寄りかかっても良いのだった、とセリスは思わず苦笑する。
この手を選んで、大切に握って傍にいてくれる、優しくて、あたたかい人だから。隠さずにいようと、セリスは小さく、頷いた。
「……三闘神は、魔法の神だと言われているのは覚えている?」
「ん?ああ……そうだったかも」
「その力を、ケフカは恐らく……取り込んでいる。だから、ケフカを倒すということは、この世界から魔法が消え去るということになる、可能性があるんじゃないかと思って……」
「魔法が消える?」
マッシュは何度か瞬く。
「……ってことは、魔石も、幻獣も?」
「そうよ」
つい淡々として応えてしまったが、その言葉に込められた意味に気づいたのか、マッシュは呆然として、呟く。
「……ティナ、は」
問いかけなのか呟きなのかわからなかったが、セリスはただ、ただ、首を振った。わからない、と。
「ティナや兄貴は、このことを……?」
「わからないわ……」
もしかしたら、エドガーは既に考え至って、知っているのかもしれない。この頭でも考えつくことなのだ、あの切れ者が思いついていないとは到底思えない。
「……そうか、」
ぽん、と頭を撫でられて、セリスは顔を上げる。
「きっと大丈夫さ」
にっ、とマッシュは笑っていた。
「兄貴がティナを手放すとは思えないよ。世界の理をねじ曲げてでも、ティナを守るはずさ」
兄への固い信頼と、セリスを安心させようという思いが篭もった溌剌とした笑顔に、なんの根拠も無く心が軽くなる気がする。そのまま肩を抱き寄せられて、なすがままに身体を委ねてマッシュにしなだれかかった。燃えたぎるような体温が、心にまで火をともしてくれる。
「そう、よね……消えたりなんか、させないわよね」
「そうさ。だってティナは半分は人間なんだぜ?」
うん、とセリスは頷く。最悪の結果ばかりを考えてはいけない、未来を掴むために戦うのだから。
「言う通りだわ。……私もなんとか、力を尽くしてみせる」
誓うように言って、しかし魔導を宿すこの身にも何が起きるかわからないのだと、頭をよぎる。魔法を使えなくなったときに何かが起きれば、この手で何も救えないかもしれない。
「……マッシュ、」
「うん?」
聞き返す時のこの声が、本当に好きだと思った。次の言葉をただ、待っていてくれる。
「お願い、……死なないで」
このぬくもりを、決して失いたくない。それは祈りであり、願いであり、誓いでもあった。
セリスの言葉に、マッシュはひどく穏やかに笑った。
「ハハ。馬鹿だな、俺がそう簡単に死ぬように見えるか?」
釣られてセリスはつい笑ってしまう。
「残念ながら……見えないわね」
「だろ? ……必ずみんなで、生きて帰ってこよう。な」
強く抱き寄せられて、セリスはこくりと頷いた。もう誰一人として、ケフカには奪わせたりしない。その為に自分にできることはすべて、やり切ってみせる。
「……そうだ、話は戻るんだが……」
「話?……ああ、ごめんなさい。そういえば私を探してた訳を聞いていなかったわね」
「おう、……これを渡したくて」
「?これは……」
ぽすりと手のひらに載せられた青の小包は、上部を丁寧にリボン結びされている。なんとなく良い香りがするそれを、随分とかわいらしいなと思ってしげしげと眺めていると、マッシュがわざとらしく咳払いした。
「あー、それは師匠の奥様から、セリスにって」
「奥様が?……開けてもいいかしら」
「勿論。それはセリスに渡してくれって頼まれたものだから。……俺には説教だけだったけどな」
「ふふ。貴方のことが心配なのよ」
ばつが悪そうにするマッシュの顔は珍しい。それだけあの二人には心を許しているのだろうと思う。
結び目を解いて、包みを丁寧に剥いてみると、中に入っていたのは小さな容れ物だった。やはりなんだか良い匂いがしている。蓋を開けてみると途端に香りは強くなり、入れられたクリーム状のものがそれを放っているのだとわかった。
「これは……カトレアの香りね。お屋敷の庭に咲いていたものかしら」
「ああ、……これ、たまに奥様が作ってるやつだ。軟膏に香りをつけたやつらしい」
あの時、手のひらを優しく包んでくれた婦人のあたたかさを思い返して、その思いやりが胸に沁みる。
「そうみたいね。……素敵。大切に使うようにする。今度またお礼をしに行かなくちゃね」
ん、とマッシュはまるで自分のことのように嬉しそうな表情をする。
「もし好きな花があるなら、教えてくれれば俺が作るよ」
「そう?ありがとう。……」
大きな手のひらで細かいことをしている様を想像すると、なんとなくかわいらしくてつい笑ってしまう。肩を抱く手からそれがマッシュにすぐに伝わったのか、顔をしかめてみせた彼に尚、笑むと、途端に穏やかに微笑み返されて、気が抜けた。意地悪はやめて、少し真面目に考えてみる。
「そうね、……薔薇とか、クチナシとか……匂いが強いものならこうやって加工したら素敵かもしれない」
「ああ、……どっちもよく似合いそうだ」
優しく目を細められて、セリスはそれ以上、何も言えなくなってしまった。言葉に詰まったのを察してか、マッシュがそのまま穏やかに問いかけてくる。
「もしかして花、好きなのか?そうじゃなきゃ、匂いとかわからないだろ」
「そ、そう?……でも、確かにそうね、シドが研究の片手間に品種開発なんかしていて、……それの手伝いを時々したりしていたから。もしかしたら普通より馴染みはあるのかもしれない」
「へえ。……知らなかったな。シドのことも、セリスのことも……」
「言ったことないもの。当たり前よ」
「そりゃあそうだけど。……もっと聞かせてほしいんだ、セリスのこと。セリスが好きなこと、大切にしてること……俺も大事にしたいしさ」
少し気恥ずかしそうにそう言うマッシュに、こちらも気恥ずかしくなってしまう。こんなに許されて、幸せでいいのだろうかと、ふと思う。
「それなら……私ももっとできることがないかしら。貴方のしたいことはなんでも叶えたいと思うのだけど」
「なんでも、ってのはあんまり言わない方がいいと思うが……」
ううんと唸りながら、マッシュは頬をかく。
「そうだなぁ。俺は、こうやってセリスの近くにいられる時間があれば嬉しいかな。飛空艇ん中とか、みんなが一緒だとこんな風にはいられないわけだしさ」
「そうね、……私も嬉しい」
素直な言葉がすんなりと胸まで落ちてきて、それに応えようと、マッシュの広い背中に片手を回す。気持ちが伝わればと、全身でぶつかるように彼をぎゅうと抱いた。が、ほんのわずかにその背中に緊張が走るのがわかって、つと顔を上げてみると、何故かばつが悪そうな顔をしたマッシュと目が合う。
「……すまん。近すぎると、その。悪い気が起きそうだ」
「悪い気?」
言わんとすることを一瞬測りかねて、ああと思い至る。セリスはつい、苦笑した。
「でも、あまり気にならないんでしょう?ニケアでも気にしてなかったじゃない」
「あれは、そりゃ…………そりゃあ、好きな相手なら話は違うもんだろ」
「へ……」
思わず瞬いたセリスの顔を見て、マッシュが途端に赤面する。その表情に、今言われたことの意味を悟った。
「いや、その……勿論、セリスにそういう気がなきゃ何もしたりしない。そこは本当に安心してくれ。俺は修行してるからな」
ただ穏やかにそう言われて、それが彼の本心なのだろうと知る。近づかなければ、彼は決して惑わない。近づいたとて、惑わされない姿も知っている。それを唯一、この身だけが、乱すことが出来る。
わざとしな垂れかかって、セリスは薄く笑った。
「そう……じゃあ、私にその悪い気があったら、どうする?」
「え、……えっ!?」
「貴方にもっと触れていたい。……触れてほしい」
「セリス、……」
目が合って、町の喧騒が遠くなっていくように感 じる。熱っぽい青い目が、ただ真っ直ぐにセリスを捉えていた。
サウスフィガロの宿は、人の出入りが多い港町にあるためか、当然のように大きい。傾いた日が入り込む窓からは、まだ人々の活気が聞こえてきている。
ひどく背徳的なことをしているような気が、していた。戦いを前にしてこんなことをしていていいのか、誰よりも真っ直ぐなこの人を、こんな行為に誘って良いのか。ぐるぐると回る思考を遮るように、後ろから太い腕が、首を囲むように伸びてきた。迸るほどの熱が、背中に当たる。
セリスはただ、その場に立ち尽くすしかできない。それを非難することもなく、優しい手つきが首元の髪を片方に寄せた。他者の予測のつかない動きにぞくりとして、身体に震えが走っていく。それは奇妙な心地良さだった。
「あ、……」
一際熱い、やわらかなものが、首筋に触れた。思わず漏れ出た声に最も驚いたのは、自分自身だった。
「……甘い匂いがするな」
思いの外低い、掠れたその声が、ひどく胸を焦がす。
「そ、それは、さっきもらったのを塗ったから……」
「ああ、……なるほどな。ここも?」
かぷりと耳朶を食まれて、途端に飛び上がりそうになった身体を、しかしマッシュの腕が許さない。
「ち、ちが……、ちょっと……!」
「ハハハ、元気そうだな」
打って変わっていつもの声色で笑われると、どういう顔をしたらいいかわからなくなる。
「大丈夫、しちゃいけないことをするわけじゃないんだ。ただ、セリスのことを教えてくれればいい」
ゆっくりと耳元でそう言って、マッシュは励ますようにぽんぽんと肩を叩いた。
「今から……セリスのことは、俺しか見ない。他の誰も知らない、……だから、安心してくれていいんだ」
訥々と言い聞かせるように続く言葉はただただ真摯で、嘘偽りのないその心が透けて見えるようだった。
傍にあり続けてくれた、伸ばされ続けてきたこの腕を恐れることなど、ありはしない。セリスは小さく頷いて、後ろのその強靭な胸に身体を預けた。
暴かれていく肉体に、セリスは唇を引き結んでただ、じっとその羞恥に堪えた。己の他に見る者はないはずの白い四肢を見られて、身体中から発火してしまいそうになる。本来なら逆の立場ではないのかというほどに、丁寧に衣服を取り払われて、ベッドサイドに畳んで置かれていく。不思議と何故かそれを直視できない自分に、セリスはなんとはなしに眉を寄せた。
酒場の女性たちほどに魅力的な体付きというわけでは無いことは、知っていた。長年軍人として鍛えてきた身体は、この一年の眠りの間に衰えた。それでも身体に触れる指先の優しさが、そんなことは関係がないのだと教えてくれる。
人肌同士で触れ合うとまるで別次元のようにあたたかく、溶けてしまいそうな心地良さがあった。このままぐずぐずに溶けて、隅から隅までこの男と触れ合えたらどんなに。
「……こんなに、」
「ん?」
「こんなにも、あたたかく思うのは、……マッシュだからなのかしら」
「どうかなぁ、……まあ、あんまり比べてくれるなよ」
苦々しく言われて、己の問いになんの意味も無いことを知る。
「そうね。……他の熱は、知りたくない……」
この心を埋めるのは、ただこの人の熱であってほしい。
人の身体は脆く儚い。血が流れ、魂が漏れ出てしまえば、そこに当然のようにあるはずのぬくもりは消え去り、全てが恐ろしいほどに冷えてしまうということを、この手はまざまざと知っていた。だからこそ、己を包むこの激しい熱が、いかに尊いものであるか、痛いほどわかる。
迸る生命に抱かれてもなお、願うのはただ唯一、このあたたかさが失われないでほしいということだけだった。
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