階段

抱擁

 ダンカンの修練小屋で、マッシュは新たな奥義を伝授された。師匠が新たに紡いだ技は、あらゆる動作の可能性、選択肢を想起したうえで最低限の動作で拳を叩き込むという、一見して地味そうな、しかし武道の極致ともいうべき技だった。馴染めば攻守ともに使え、どんな相手にも応用できる。
 ケフカをぶちのめしてこい、と豪快に笑って言ったダンカンに、マッシュは強く、頷いた。

「さぁて、お次はどこへ行く?」
 セッツァーが長い銀の髪を払い、普段よりは明るい声色でそう問うた。多分、とにかく北の地から去りたいのだろう。
「そうね、行っていないところはたくさんあるわ。とくに南西はまだまだ……」
 そうだな、とマッシュはその隣に並び、頷く。
「大半の町がまだ残っているんだとしたら、ジドールとかマランダとかサマサとか、行ってないよな」
「じゃあそっち方面を探してみるか。地形から変わっちまってるからな、低空での飛行にして常に陸を確認しながら……」
「ふむ、少しいいか?」
 だがセッツァーの結論に、待ったの声がかかった。
「兄貴?」
 兄が片手を上げて、神妙な面持ちでセッツァーを見つめる。その重大そうな雰囲気に、なんとなくその場の三人とも呑まれてしまう。
「……ティナに会いたいのだが」
「は?」
 セッツァーが素っ頓狂な声をあげる。
「だから。私の愛しのティナに会いたいのだが」
「い、いや、わざわざ言い直さなくても……」
 唐突に飛び出たストレートな表現に思わず赤面したが、兄はお構い無しに真面目な顔で言う。
「冗談ではなくてだな。彼女は戦えないとは聞いているが……モブリズの現状も気になる。必要な支援があるならフィガロから用意したい」
「そうね、私は賛成。ティナにエドガーの無事を伝えられていないし……心配しているはずだもの」
「そうだろう、そうだろう」
 賛成意見のセリスの白い手を取り、頬を擦り付ける勢いで兄は嬉しそうに頷く。それをつい引き剥がしつつ、マッシュも同意した。
「まあ……確かに、セリスの言う通りだよな。どうせ情報もないし、ゆったり行こうぜ」
「まーったく、好き勝手行ったり来たりさせやがって。……まあ、まだ試運転みたいなもんだからいいが……」
 口ではぶつくさ言いながら、セッツァーは愉快そうに口元を歪めている。単純にこの船を飛ばせること自体が嬉しいのだろう。

 モブリズに向かって飛空艇は飛び立った。フィガロの砂漠を通り過ぎたと思うと、港町の上空もあっという間に飛び去っていく。徒歩で歩いて数日かかる距離も、この船ならば数刻でいい。
  
 子どもたちを驚かせまいと、村近くの平原に飛空艇を停めて、そこからは徒歩で村に向かう。
 先に船から降りていった兄は、その直前にマッシュをやおら捕まえてきた。
「おい、マッシュ。おまえも覚悟が決まったんなら、早く彼女に伝えることだな」
「は?! よ、余計なお世話だって」
「そうか?まあとにかく、あの様子なら大丈夫だ、自信もって行けばいい。ゴチャゴチャ考えすぎるとうまくいかないぜ」
「な、なにがだよ、まったく……」
 無邪気に笑う兄に、マッシュは顔を赤らめるしかない。素知らぬ振りをしたところで意味はなく、あれこれと考えそうになる頭を振り払って、平常心を保とうとした。
「あ、マッシュ?」
 が、その時タイミング良く後ろからかけられた声に、がちりと不必要なほど身体が強張ってしまって、兄が途端、堪えきれず噴き出すように笑った。
「……おまえ、それでよく長らく二人でいられたな。本当に何にも手出してないのか?」
「ば、バカ言え! 兄貴じゃあるまいし……!」
「あら、エドガーまだいたの? 早くティナに顔を見せてあげたら?」
「ああ!言われなくても喜んでそうさせてもらうよ。……それじゃ、まあ頑張れよ」
 にやりと笑い、エドガーは飛空艇を降りていく。それを見送り、マッシュは改めてセリスを振り返った。
 相も変わらず、よく見なくとも綺麗な女だと思った。素性を知らぬまま十の男がすれ違ったら、十の男が振り返るだろう。
 例に漏れず見とれてしまいそうな心を叱咤し、マッシュはにかりと笑う。
「これでティナが戦う力を取り戻したら万々歳なんだけど、……無理に戦ってほしいわけじゃねえしな。どうなることやら」
「そうね。……でもどうなってもティナは、きっと大丈夫よ。ティナはエドガーのこと、本当に大切に思っているようだから」
 金の髪をするりと耳にかけて、セリスはモブリズの方を眺める。ふわりと舞った風が、その髪を揺らす。
「……ティナのことが少し羨ましい、かも、しれないわね」
「え?」
 ふ、とセリスは眩しそうに目を細めた。憂いあるその表情に、胸が締め付けられるような気がする。
「愛する人が自分を愛してくれる、って。それってきっと、……かけがえのない、奇跡的なことだもの」
「セリス?」
「……なんて、少しだけ思ったの。柄にもないけどね」
 なんてことはなくそう言い放ったセリスに向かって伸ばしかけていた手に気付き、マッシュは誤魔化すようにそれを一度、握りつぶした。そして、行き場を失ったその腕で、自身の前髪を撫でつけた。
「……それは、誰もがそう思っていることじゃねえのかな」
 また、自分は逃げた。頭をよぎったロックを理由に、セリスから目を背けた。手を出してはならないとずっと己を律してきたつもりだったのに、それはいつのまにか、くだらない逃げ癖になってはいるのではないか。
「ただ、……お互いに思いを言葉にするだけなのにな。相手側に気持ちがないなら、それを言ったところで仕方ないって、諦めちまうのかも」
 兄なら、相手がどうでも己の気持ちを恥ずかしげもなく言えるのだろうが。そんな兄でさえ、決して軽々しく使わない言葉があるのを知っていた。
「……そうね」
 ゆっくりと、深く、セリスは頷いた。
「私も……きっとそんなことは言えないもの。そうしたら、今この手にある何もかもが壊れてしまいそうで……」
 するりとこちらに視線を投げたセリスと、目が合う。その青い双眸が、何か言いたげにじっとこちらを見つめている。
 目を逸らさずに、見つめ返し続ければこの気持ちがまさか彼女に伝わるのだろうかと、そう思った矢先、セリスの方がふと俯くように視線を外した。
 それにわずかに安堵した自分に気がついて、マッシュは強く、唇を噛んだ。
「セッツァーがね、みんな臆病者なんだって言っていたの」
「臆病者?」
「どんなに強い人間でも、大切なものを壊したくない時、自分の選択に臆病になるものなんですって」
「ふうん……セッツァーのやつがねぇ」
 マッシュは何気なく返事しつつ、その言葉の意味を考えてみる。セッツァーがどういう人生を送ってきたのかを詳しくは知らないが、しかしあの切れ長の目は、確かに本性を見抜く。まさかセリスを通じたイヤミではないかと不意に思い至ったが、一度首を振って、思考から追い出した。
「ティナは感情を知らなかったから……だから、そういう弱さとは無関係でいられるのかもしれない。真っ直ぐで、素直で、……恐れずに進めるのかもしれないわね」
 ティナを思いながら微笑んだセリスの横顔がやけに綺麗に見えて、マッシュは瞬いてから、同じようにモブリズの方を見つめた。
「確かに、そうかもな。そういうところは俺も羨ましいや」
「あら、意外ね。貴方も嘘がつけないところは結構似ていると思うけど……」
「……褒められてる気がしねぇな~……」
 くすくすとセリスが笑うのに、マッシュはわざと大袈裟に肩を竦めてみせる。
 自分自身の気持ちと セリスの気持ちとに、いい加減きちんと向き合うべき時なのだろうと思う。だが、こうして笑い合えているならそれはそれでいいのかもしれないと、納得しようとしてしまう気持ちがある。
 セッツァーの言葉通り、どれほど修練を積もうが、人は結局、愛情の元に躊躇い、臆病者になる。
 今の気兼ねない関係が壊れるかもしれないと思うと足が竦むのは、当たり前のことなのかもしれない。その先の景色を見ることは、この恐れを乗り越えた者だけに許されるのだろう。
「さ、俺達も物資だけ置いてくるか。兄貴がいつ船に帰ってくるつもりなのかはさっぱりわかんねぇけど……」
 マッシュがそう苦笑混じりに言うと、セリスは笑って頷いた。


 虫の音が、辺りを包み始める。
 飛空艇内のラウンジのソファーに寝転んだまま、マッシュはちらと時計を見る。
「……もう、こんな時間か」
 どうやら兄は今日中には帰ってこないつもりらしい。そういう逢瀬の時に、まさか夜中に帰ってくるはずがないことくらいはわかる。
 兄が真剣な気持ちでティナと相対しているのだとは、よくわかっていた。一年前から、兄はどんな時も立場以上にはティナに近寄ることはなかった。それでも、彼女だけが苦難に直面しなければならない時、いつもその姿を傍らで見守っていた。ティナの揺るぎない強さを、一番近くで知っているのは他でもない、兄のはずだ。
「羨ましい、か……」
 確かに、兄のように恥ずかしげも無く言葉にできたら、女性は嬉しく思うのかもしれない。セリスもまた、単純な言葉を望んでいるのかもしれなかった。
 あの時、孤島で震える彼女の肩を抱き寄せて、必死にかけた言葉。それは嘘偽りない言葉だった、が、セリスが欲しい言葉とは違ったのかもしれない。あるいは、かけて欲しい人間ではなかったのか。
 帰らぬ兄を待ちながらあれこれと可能性を考えてみても、元よりその答えはセリスの中にあるもので、わかるはずもない。確かめるにはたったひとつ。己の口でセリスに問うて、聞く。それだけの話だ。ただそれを、できるか、どうか。
「……迷う時って、来るもんなんだなぁ、やっぱり」
 セリスが大事に持ってくれていた、小さなコインは今、この手の中にある。迷う必要などないことを、その鈍い輝きが教えてくれる。自分の気持ちも、セリスの気持ちも。答えはもう、決まっているのだから。
 マッシュはゆっくり上体を起こして、深呼吸する。
 ロックのことは、今もどう考えてよいかわからない。セリスはまだロックを想っているのかもしれないし、ロックもまた、どこかでセリスを探し続けているのかもしれない。だが、それを言い訳にして、ロックに顔向けできなくなる自分を疎んで、全てのことから目を背けてきただけのこと。
 今までいくら捨て去ろうとしても捨てられなかったこの想いが、こんなにも傍にいて、今更自然と捨てられるはずもない。たとえ受け入れられることがなくとも、どのみち想いを断ち切るためには彼女と相対する他はなかった。
「うん。……よしっ」
 拳をぎゅうと握りしめて、覚悟を決めた。セリスに会って、話をしようと。

「……夜中に悪い。セリス、いるか?」
 とんとん、とセリスの使う部屋の扉を、マッシュは控えめに叩いた。返事がするまでただ立ち尽くして待つしか無いが、その間、自分の動悸ばかりが鼓膜を震わせて、情けなくなる。
「……? あれ、セリス?」
 だが、待てど暮らせど返事がない。物音すらしてこない。これはもう寝てしまったのだろうか、と思った途端、マッシュは落胆とも安堵が混ざったため息をして、肩を落とした。
 これは、今では無い、ということか。無駄に緊張した自分がひどく滑稽で、マッシュは暗い廊下でひとり笑った。
 仕方なしに、自室へ戻ろうかとも思ったが、このままで眠れる気もしない。風にでも当たるか、とマッシュは頭をかきながら甲板へ向かった。

 夜の甲板上は、暗闇に満たされてひどく静かだった。大地からわずかに虫の音がか細く届くのみで、隣に人がいても気がつかないほど、暗い。
 兄はどうしているだろうか、とモブリズの方を見やるが、地下の明かりは漏れていないのでそれを窺う術はない。とはいえ、心配せずともうまくやっているに違いないのだが。
 ひやりとした夜風が辺りを吹き抜ける。見上げると、月がなかった。雲に隠れているわけでもない。今夜は、月が空には見えない。
 ああ、とマッシュは思う。こんなにも狂おしいのはこのせいかと。いつか城の図書室で読んだことがある童話には、月の無い夜、人は正気を失うのだと書かれていたのを思い出す。
 闇の中、欄干を手で探る。昼間に見ている景色とを重ね合わせれば、恐らくこの辺りにあるはずだと宙に手を伸ばしては、虚空を掴んで終わった。ここまでの暗闇だと、距離感も何もあったものではない。
 瞬間、誰かの息遣いに気がついた。だがまだ目が慣れておらず、よくわからない。

「……マッシュ?」
「え、……」
 待ち望んでいた声に、思わず身体が震える。半ば無我夢中で闇に向けて差し出した手は、宙をさ迷った。
「私はこっち」
 くすくす笑うその声に、迷子の手を掴まれる。ひんやりとして気持ちが良かった。
 やんわりと腕を引かれ、そのまま声のするすぐ隣まで導かれて、ようやくぼんやりとその手の輪郭だけが目に映る。甘い花のような香りがして、マッシュは思わず唇を引き結んだ。彼女の体温を、肌に感じる。ここまでの距離を、許されたのだと知った。
「見えてないのね?」
「ん、まだあんまり。……なんだか随分暗いな」
「新月ね。……月が見えないんだわ」
「ここら辺は家の明かりなんかもないから、こうなるとなんにも見えやしないな」
 声だけは平静を装っていたが、内心はひどく、困惑している。探していた宝物が、まさか自分から近づいてくると思うひとはいないだろう。
「それにしても……どうしたの? こんな夜中まで起きているなんて」
「あ、うん、まぁ……兄貴達のこと、気になっちまってさ」
 ああ、とセリスは軽やかに笑う。その声は少し嬉しそうだった。
「じゃあ同じだわ、実は私もそうなの」
 同じだから嬉しいのだろうか、と都合良く思えて、マッシュは低く笑った。
「でもきっと大丈夫さ。……兄貴は必ずティナを幸せにするよ」
「ええ、そうよね。……二人はきっと、心配要らないわね」
 きゅ、と掴まれたままの手に力が込められたのが、見えずとも鋭敏に感じ取れた。触れ合う場所からお互いのぬくもりを感じることに、どこか安堵がある。
 近づいてはならないと思っていて、そのくせいつの間にか、この隣にいるのを当たり前と思うようになっていた。今さらそんなことに気がついて、自分がいかに目を逸らそうとしてきたのかを痛感する。彼女の声や、香りや、息遣いが、こんなにも愛しいことを。
「……マッシュも、」
「うん?」
「マッシュも、……そういう人が出来たら、きっと幸せにしてあげてね」
「……セリス?」
 少し暗闇に慣れてきた瞳で、セリスを見つめる。表情まではまだ見えなかったが、声に漏れでる感情はひどく寂しげで、かける言葉が見つからない。
「わざわざ私が言うことでもないか、……貴方も心配は要らないわね。大丈夫ってこと、私が保証するわ」
 他人事のように呟かれて、マッシュは口を開けたはいいものの、何も言えない。この手を取りたいと思っているその人に、他の人間との未来を祝われるのはさすがに堪えるものがある。
 どう返せばと思案して、自分のことを言い訳したとて意味が無い。
「……あのさ。それじゃあ、セリスの幸せってのは、どんなものなんだ?」
「え?……私の?」
 突然の質問に、セリスはううんと唸りながら、首を傾げる。やや考えて、そのまま困ったように目を伏せた。
「どんな幸せ、か……。正直、あまり考えたことはないかしら……」
「でも、こうなりたいな、っていう将来の理想とか、夢とかはあるだろ?」
 そう言うと、セリスが少し身体を強張らせたのが、手から伝わってきた。
「それは、ええと…………その、……」
「……そんなに考えないと出てこないもんか?あんま難しく考えなくていいんだぞ」
「…………それなら、……さん、とか……」
「ん?」
「な、なんでもない! その、……お、穏やかに過ごしたいかなって……」
 やけに慌てた風に答えて、不意にセリスが手を握ってくる。その様子がなんだかひどく可愛らしく思えて、マッシュは思わず笑ってしまう。笑いを抑えようと肩が揺れたのに気付いたのか、セリスはちらりとこちらを見て、むっと口を尖らせた。
「ちょっと……冗談じゃなくて、本当の話よ」
「わかってるって、別に馬鹿にして笑ったんじゃないぞ。……でも、随分ささやかだな」
 魔法の力に加えて、セリスはそもそも軍人としての実力も、知識もあった。それだけの努力と才能の上に立っているのに、彼女が望むものはひどく平凡なものに思える。
 普通ではない枠にはめられた人生から飛び出して、ただの一人の人間として、まっさらな状態に身を置きたいと願った自分ともどこか重なる部分があるのかもしれない。
「そうかしら。私には過ぎた願いだとは思ってるけれど、……ただ、血の匂いがしない生活を、してみたいと思ったの」
 その声色が思ったよりも切実に聞こえて、マッシュははっとしてセリスを見つめる。わずかな光に、その憂いに満ちた青い瞳だけが鈍く輝いていた。
「……ほんの少しだったけど、あの島でシドと過ごした時間はとても、……素敵な時間だったの。それに、ダンカンさんご夫妻との時間も。……あんな日が続いて、あれが日常になったらどんなに良いだろうな、って……少し、思った」
 ああ、そうか、と思う。彼女がこの手に本当に掴みたいものは、重い剣なんかではなく、ただただ、穏やかで平和な、当たり前の日々なのだろうと。
「でも、もう良いのよ」
「……え?」
「もう十分なほど、叶ったわ。マッシュのおかげでね」
 ふ、とセリスは優しく笑む。
「私、もう幸せなんだと思う。欲しいものはみんな、すでに貰ってるのよ……貴方から」
 真実嬉しそうにそう語る彼女を見て、マッシュは言葉を失くした。
「……そんなこと、言うなよ」
 もう十分だなどと、絶対にそんなことはあり得ないだろう。どうしてそんなことを言えるのかと、胸の奥が焦げ付くように痛む。セリスがどれだけのことを犠牲にさせられてきたか、犠牲にしてきたかを、知っている。どれほどの後悔と罪悪感に苛まれてきたかを、それでも戦い続ける道を選び続けてきたことを、知っている。
「もう十分だなんて、言わないでくれ……」
 暗闇に、言葉が響いていく。セリスは呆けたように、それを聞いていた。
「セリスが良くても、俺が良くない。もっとおまえに与えてやりたいものがあるのに、おまえがそんなこと言っちまうなら、じゃあ俺はどうしたらいいんだよ?」
「……マッシュ? 何を、言って、……!」
 繋がっていたセリスの細い手を、そのままぐいと引いた。焦燥感に、居ても立ってもいられなかった。それはセリスにとっては思わぬ行動だったのか、呆然とした表情のまますんなりと、こちらに倒れてくる。
 ぼすりと胸に倒れたその細い身体を、傷つけないようにそっと、腕の中に閉じ込める。一瞬遅れて、その金の髪が、闇のなかに鮮やかに広がった。
 途端ひどく強張った小さな背中を、いつもしてきたように優しく撫でる。セリスは極小さな息を漏らすと、ゆっくりとその身を委ねてくれた。
「……嫌じゃないか?」
 静かに問うと、腕の中でセリスがわずかに首を振る。あったかい、という小さな呟きが、闇に溶けていった。その声が今にも泣きそうで、マッシュは思わずその身体をかき抱く腕に力を込めてやることしかできない。
「こんなもの、いくらだって与えてやるから、だから……」
 さらさらとした金糸が風に揺れ、腕や顔をくすぐる。その甘やかな匂いに惹かれるように、豊かな髪に顔を埋めた。
「セリスの傍に、いさせてくれ。……」
 その言葉に、セリスはびくりと身体を震わせた。
 傍にいてもいいのか、この手を伸ばしていいのか、抱きしめてもいいのか。それらをただ唯一、許す相手にしてくれないか。ささやかな彼女に反して、どこまでも強欲なこの感情が剥き出しに見えてしまいそうになる。
「……マッシュ……」
 切ない音色で呼ばれた名前に、思わず身体が跳ねそうになる。意を決してセリスの表情を窺うと、暗闇に一瞬、何かが光った。涙だ、と思った途端に、胸が鷲掴まれたように息が苦しくなる。
 早くこの腕から解放しなければと思ったが、それを見透かしたようにセリスはやんわりと首を振って、マッシュの背中にそっと手を回す。その指の一本一本が、まるで壊れ物を扱うように背の上をするりと滑っていくのをまざまざと感じて、思わず息を飲んだ。
「違うの、……変ね、なんだか苦しくて…………」
「セリス……」
「……どう答えたらいいのか、よく……わからない。だけど、……」
 きゅ、と抱き締め返されて、甘い声が囁く。
「私も……貴方の、傍にいたい」
 待ちわびていた言葉に、ただ胸が高鳴る。聞き間違えでは決してなかったと、わずかな間に何度も何度も噛みしめて、しかし唯一絶対のこの腕の中にあるぬくもりが、すべてを肯定してくれていた。
「俺で……いいか?」
 掠れる声で、そう問う。こく、とセリスの頭が動いた。
「貴方がいい。……マッシュと海を見たり、お茶を飲んだり、他愛ない話をしたり……したいの。ずっと、ずっと……」
 じんわりと胸にあたたかなものが広がっていく。セリスが紡いでくれた言葉を反芻しながら、マッシュは強くセリスを抱きしめた。
「ああ、ずっとだ。ずっと一緒にいよう。……これからも傍に、……いてくれ」
 溢れ出しそうな気持ちを抑えた低い声でマッシュはただ、そう祈った。この気持ちに名前があるというなら、それは唯一、愛に違いないのだろうと思う。
「……夢、みたい」
 猫のように頭を擦り付けて、確かめるように背を抱き返しながら、セリスがぽつりとそう漏らした。その声色と仕草とがひどくいじらしく思えて、そのやわらかな頬にそっと手のひらを添える。少し夜風に冷えた肌はひやりとしていた。今、彼女のここに触れられる唯一であることが、夢であってくれては困る。この黄金に輝く甘やかな果実は、今、この手の中を選んで落ちてきたのだと。
「俺を信じて」
 笑いかけると、釣られてセリスも笑んで、その途端にまた美しい輝きが目尻からこぼれる。仄かにあたたかなそれを親指で拭い、マッシュはセリスの細い腰を抱き寄せる腕に力を込めた。
「……目、閉じてくれるか?」
「え、」
 わずかにセリスは躊躇った風だったが、マッシュの言葉に従っておずおずと、碧の瞳をゆっくりと閉じていく。これから起きることを予期して震えるその頬からするりと手を滑らせ、顎を捕らえて、吸い寄せられるかのようにゆっくりと顔を近づけて。
 お互いの唇が、触れ合った。思った通りにやわらかなそれは、受け入れるように形を変えて、マッシュをぎこちなく迎えた。一瞬とも一時間とも感じられるような、不思議な時間感覚が、闇の中に流れていく。
 味わうように何度かその赤い花を啄んで、このまま唇から溶けて交われたら良いのにと、ふざけたことを思った。だが、背中を掴むセリスの手からゆるゆると力が抜けていくのがわかり、マッシュは慌ててセリスを抱き寄せた。
「お、っと、大丈夫か?」
 マッシュを仰ぎ見るその碧の瞳は、とろんとしてやけに艶やかで、すっかり目が慣れてきた状態でその様をじと見てしまっては、思わず胸に悪い気持ちが芽吹きそうになる。
「ん……なんだか、力が抜けちゃって……」
「そうか、悪い……慣れてないよな」
「……そ、それは、だって……」
 本心から心配でそう言ったのだが、途端、セリスは恥ずかしそうに顔を逸らした。
「これからゆっくり、俺に慣れてくれればいいさ」
 小さく胸の中で頷いたセリスに、堪らずその身体をまた強く抱きしめてしまう。その長い髪を手のひらで撫でながら、何故こんな気持ちを捨てられると思っていたのかわからなくなる。
「……セリス、……」
 己の声が、真っ直ぐに暗闇に飛んでいく。愛していると、そんな普遍的な言葉でしか伝えられないこの感情が、わずかでも彼女に届けばそれで、今は良い。
 この幸せが、どうかこの夜の闇に溶けてしまわないように祈りながら、マッシュは目を閉じた。

コメント

  1. 以前からのストーカー より:

    お疲れ様です!
    続編の更新、ありがとうございます

    会話とか修正されたんですね
    マッシュが涙を流したところが印象的だったのですが、修正したシーンも良かったので感動しちゃいました

    当然文庫化したら購入します!
    が、お忙しそうなんで気長に待ってます
    (こちらも仕事自体は変わらないんですが、共同作業している人が1人辞めちゃうことになって…残った女の子wが物覚えと勤怠が悪いので今後を考えるとウンザリですよ…ちなみに今日も体調不良とかで休みで、ってか、4連休かよ!!ですわ)

    昨日ぐらいから少しだけ涼しくなってきましたね
    風邪など引かないようご自愛ください

    • 毎度お読みいただきありがとうございます~
      そうですね、結構修正をしてしまいました~。よく元の文を覚えてらっしゃるなぁというありがたさもありつつも……
      残りあと少しではありますが、気長にお付き合いくだされば幸いです。文庫は年内に……予定です……

      どこも人手不足ですね~…大変だ。お休みは取れるときに先手打って取っておかないとですね……その根回しも大変かもですが……
      (※ちなみにですが、拍手コメントからなら私にしか見えない内容になりますので、もう無理!!てなったら愚痴でもなんでも投げていただければと…)

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