ゴミ箱

Sから始まる物語

 ――疑惑から始まる物語。

 ほぅ、と何気なく吐いた息は真っ白で、それに未だに慣れていないせいで少し驚いた。生まれてこの方、砂漠育ちの山育ちで、雪が降り積もるほどの寒い地域には縁がなかった。だがこうして雪景色ばかりを目にするのもあと少し。消えたティナの捜索に、今日にはナルシェを発つ。
 この白く寒々しい景色ともお別れだ。
(胸くそ悪ぃ思い出しかねぇしな)
 できれば早くここから旅立ちたい。
 冷えた指先が、じんと疼く。それを革手袋越しに見つめ、マッシュは奥歯を噛み締めた。

「帝国の犬め!! そこに直れ!!」
 普段は温厚なはずのカイエンの激昂に、驚いたのもある。帝国が絡むと平静ではいられない、その理由を思い出してひどくつらく思った。だがそれ以上に、責められていた女が今にも倒れそうな顔色をしていたから。
「帝国は悪だ。だがそこに住むもの全てが悪ではない」
「カイエン、頼む……ここは兄貴に免じて……」
「……くっ! マッシュ殿に感謝するのだな!」
 兄の言葉にそう続けて、刀を鞘に押し込めさせた。話し合いの場を血で汚したくなかったのもある。女は萎縮するでもなく、ただ難しい顔で冷ややかにどこかを見つめていた。

「おまえ、ずいぶんと度胸のある女だなぁ」
 戦場となる雪山に向かう道中、誉め言葉半分からかい半分で声をかけたのが不味かった。女は、セリスは、やはり先ほどと同様の厳しい表情と冷たい瞳でこちらを射抜いた。
「誰だ、貴方は」
「えっ? ああ、そういや名乗ってなかったっけ? 俺はマッシュ。フィガロの、」
「……知らんな」
 嘲け笑うかのように吐き捨て、セリスはマッシュを置いて歩き出す。
「いや、知らねえって……さっき屋敷で会っただろうが」
「ああ……」
 やや苛立った声に、セリスは一瞬だけ立ち止まった。
「あれで私を助けたつもりか。……恩着せがましい男だ」
「……は?」
 言われたことの意味をマッシュが理解する間に、彼女はざくざくと雪を踏みしめながら先を歩いていってしまった。
「……なんだとぉ?」
 まさか、いきなり恩着せがましいなどと言われるとは思いもしなかった。理解とともに遅れてやってきた怒りが、顔をしかめさせる。
「あんのヤロウ……!」
 いや、野郎ではなく女か。それにしても、腹が立つ。確かに、感謝されるためにあのとき庇ったわけではない。ないのだが。
(なんなんだよ、可愛げもなにも有ったもんじゃねえな!)
 帝国に不信を抱き、リターナーに来たというなら、取るべき態度というものがあるだろう。セリスという女への第一印象は、とにかく最悪と言う他なかった。

 結局山頂での戦いには勝利したものの、幻獣と共鳴したティナが魔力を暴走させ、辺り一面を衝撃波で吹き飛ばした。体軸を鍛えているマッシュは突然のことにも大してダメージはなかったが、リターナーの面々はそれぞれ意識を失うなりその場に倒れるなり、大小被害が出てしまっていた。
「おい、みんな無事か!?」
「マッシュ、俺は大丈夫だ」
「兄貴、良かった! ロックはどこだ?」
「……ああ俺も、生きてるぜ、心配いらない!」
 それぞれ点呼を取れば、雪の下から元気な返事がすぐに戻ってきたので、思わずほっと胸を撫で下ろす。が、すぐにロックの声にぎくりとした。
「セリス? セリスはどこだ?!」

 雪山で気を失ったセリスを担いで下山したことに対しても、とくに礼はなかった。それどころか、さらに悪印象が山ほど追加されるとは露ほども思わなかった。
「……それで? 私に恩を売ってどうするというんだ」
「はぁ? ……だから、俺は恩着せてるわけじゃなくて、」
「ああ……この軍には女が少ないからか……あんな兄王をお持ちのようだしな」
 罵るような言い捨て方をされ、セリスの言うところを理解した瞬間、マッシュは顔に朱を登らせていた。
「……おいっ、ふざけんな! 見損なうんじゃねえ!」
 兄を侮辱され、思わず口をついて出た怒号に彼女は驚いて、碧い瞳をこれでもかと見開いた。彼女が人間らしい様子を見せたのは初めてのことで、畳み掛けるようについつい口論はエスカレートしてしまう。
「話を聞いてりゃ根拠もねぇイヤミばっか言いやがって! ……兄貴のオンナグセが悪ぃのは事実だ、けどそんなこと考えるような人間なんかじゃねえ! おまえな、味方に対して失礼だと思わねぇのか!?」
「味方? ……思ってもみないことを口にするのはやめることだな。いつでも誰かが私の首を狙っているのを知らないはずはあるまい」
「それはおまえが全然リターナーに馴染もうとしないからだろ、自分の行動を先に考えてもみろよ!」
「私は私の目的があって貴方たちに協力しているだけだ、馴れ合うつもりはない」
「おまえの目的が何だか興味もねぇが、戦場でレディーファーストもなにもねぇんだ! おまえ一人に自分勝手な動きをされちゃ、守れるものも守れないだろうが!」
「……は、自分の力不足を私のせいにされても困るだけだが?」
「~~っ!? なんだと!?」
 女でなければ確実に一発は殴っていたと思う。
「おいおい、何を騒いでる?」
 ちょうど兄が通りがかっていなかったら、収拾がつかなくなっていただろう。

(くそっ、なんなんだあいつ? あれで将軍だった? ……普通じゃありえねぇだろ!)
 ドマに布陣していたレオ将軍を思い返せば、セリスの器量の小ささはよくわかる。帝国軍をあまりほめたくはないが、あれだけの道を知った男もいるなかで、セリスが率いる軍の程度は知れたものだろうと思われた。セリスはティナとは違い、魔導の力を後から手に入れた人造魔導師なのだというが、魔導の力を持っているということだけが、彼女のステータスを支えていたのかもしれない。
 腹が立つ。それ以上に、無性に空しかった。
 魔導という力しか、彼女には誇るものがないのだ。剣の腕もそれなりには立つが、カイエンほどではない。確かに一般兵以上の技術だが、達人の域には至っていないといったところか。
(もし、あいつが俺なら)
 リターナーの居心地は最悪だろう。だが、良くしようと自ら努力しなければそれは変わることはないのだ。
 あんな風な態度を取る時点で、セリスはリターナーに居場所を求めているわけではないように思えた。
 兄やカイエンの言う通り、間者なのかもしれない。だがロックはしかとその目で、彼女が拷問を受ける場面を見たという。
 何が真実かどうかは今考えてもわからないことだ。もう少しじっくりと、あのいけ好かない元帝国の女を見なければならないだろう。
 まだ、彼女がどういう生き方をしてきたか、誰も知らないのだから。
 もしかしたら、あんな風に性格がひん曲がってしまった理由があるのかもしれないし。

 いや、あまり擁護はできねえよな、とマッシュは吐き捨てるように呟いた。その小さな声は、真っ白な雪に吸い込まれて消えてしまった。

「……ん?」
 ふと、人の気配に気がついて、マッシュは振り返る。辺りには誰もいない。
 気のせいか、ともう一度踵を返そうとした瞬間だった。
(セリス?)
 地味な色の外套をひるがえし、目に映える金髪をたなびかせて。彼女は路地裏から一人、出てきた。
 視界の隅に映ったそれを追いかけたが、一寸遅れたようだ。
「……もういない、か」
 ナルシェの市街地はなけなしの暖房が入れられている上、雪もすぐに退かされる。足跡は残っていなかった。
 買い物の途中かと考えたが、こちらに店はない。そもそも土地勘があるはずもないし、まさか迷っていたのだろうか。
 だとしたら悪いことをしたな、と思いながら、なんとなく彼女が現れた方の道に足を向けてみる。
「……っ!?」
 角を曲がってすぐに、マッシュは足を止めた。

 行き止まりだった。
 そしてその壁に背中を預けるように、男がひとり、倒れていた。服装からしてリターナーの一員だった。
 慌てて駆け寄り、首筋の脈と瞳孔を確認する。そしてものの数秒で、彼がすでに息絶えていることを悟った。
 反射的に後ろを振り返ったが、もちろんセリスの姿があるわけもなく。
「どういう……ことなんだよ?」
 あの女は確かに、ここから出てきた。つまりはこの男を目視したはずなのだ。
 いや。
(まさか)
 寒くてたまらないのに、冷や汗が出た。
 この男は、セリスが、やったのか。
 マッシュは呆然と、血の気のない男を見つめていた。

 西へ旅立つ拠点にフィガロ城に戻ってきてから二日。潜航のためのメンテナンスをしている間、マッシュは兄の代わりに仕事をこなしていた。

「……池がどうしたって?」
「はい、ですから凍ってしまっているのです」
 兵士は畏まってそう復唱した。
 羽ペンを置いて、マッシュは眉を寄せる。異常なしが常套句のただの見回りで、こんな報告は聞いた試しがない。
 だいたい、ここをどこだと思っている。砂漠のど真ん中だ。
「こんなクソ暑いのに凍るわけ……」
 言いかけて、はたと気づく。城の中庭にある池は、冬の夜でも凍ったことはない。しかも今はまだ昼間、どう考えても自然には凍ったりはしないはずだ。そう、自然には決して。
「殿下?」
「……セリスはどこにいる?」
「はっ、セリス様ですか。さきほど東塔でお見かけいたしました」
「そうか。……少し休憩しよう、池はとりあえずはどうしようもないしな」
 兵に笑いかけ、マッシュは立ち上がった。

 もう十年留守にした我が家。あの日から色々あった。だが、一度たりと忘れたことのない大切な故郷だ。
 マッシュは迷うことなく、セリスを探しながら東塔を上った。
(いねえな……まさか最上階かよ)
 東塔は見張り台の役目もあるので、かなり階層がある。鍛えているといえど、彼女が最上階にいなかったとしたらとんだ骨折り損だ。
 そんなことを考えていると、頭上から光が差し込んできた。よし、もう少しだと意気込み、歩調を早める。

 そして不意に目に入った金色に、マッシュは目を見開いた。
 その後ろ姿に目を奪われて。言葉を失ってしまった。

「……確か、マッシュ、いやマシアス殿下、だったか?」
 どうやら名前くらいは覚えてもらえたらしく、マッシュはどうにか苦笑を返す。嫌みに対して喧嘩腰になってはならない。以前のように口論になってしまうのは最も良くない流れだろうから。
「どうやら私に苦情がおありのようだな」
「苦情っつーか……池を凍らせたのは、やっぱお前なのか?」
「お気に召しませんでしたか、殿下」
 ややおちょくった言い方にいちいち目くじらを立てていたら、話が進まない。そもそもこういう言い方しか彼女はできないのかもしれないし。マッシュは平常心を心がけて、言葉を選んだ。
「お気に召すもなにも、池に住んでる魚が死んじまうだろうよ」
「魚? ……それは、気がつかなかった。すまないな」
「まあ良いけどさ……」
 実際、献上された高級魚がうようよ泳いでいた池なので、なんら良くはないのだが。
 マッシュはかりかりと鼻をかく。
「てか、なんであんなことしたんだよ?」
「ああ……涼しくなるかと思って、つい凍らせてしまった」
(つい、ってなんだよ)
 冗談かとも思ったが、あまりに真顔でそう言うものだから、とりあえず胸の中で軽く突っ込んだ。嫌みったらしい女かと思えば、変にぬけているところもある、ようだ。
「……と、とにかく、魚はもう手遅れかもしれねえが一応元に戻したいんだ。それはできるのか?」
「無論だ」
 セリスはそのまま、先に階段に向かっていく。
「……あの」
「ん? なんだよ」
「……いや。なんでもない」
(なんだよ。変なやつ)
 反省している、のだろうか。謝ろうとしていた気がする。如何せん素直になるつもりはないらしいが。

(こいつ、本当にあの男を手にかけたんだろうか?)

「なぁ、おい。その……ナルシェでは悪かったな。ガキみたいな口喧嘩しちまって」
 いたたまれない気持ちになってしまい、気づけば思わず謝っていた。
 すると彼女はわずかに振り向いて、形容し難い表情をこちらに向けた。ばつの悪そうな、それでいて何かを甘受しているような瞳だった。

 そうしてセリスの背中を追う形で東塔を下り、中庭に出ると、マッシュは驚いて立ち止まってしまった。セリスも驚いたようで、同様に立ち止まっていた。
 理由は単純だ。思わず圧倒されたのだ。
 その見物人の多さに。
「綺麗ですねぇ! 私、初めて氷を見ました」
「あら、そう? でもそうね、私もこんな風な造形の氷は初めてだわ」
「ホントに綺麗ですね~、しかも涼しいし。また陛下が変な機械で作ったんでしょうか?」
 若いメイドたちがきゃいきゃいと楽しそうにしている真ん中に、池は堂々と鎮座していた。
「あら、マッシュ様」
「よう。ああ、別に畏まらないでいいぜ」
 頭を下げようとしたメイドたちを制し、マッシュは凍った池を見やる。
 どうやら表面だけ凍っているらしく、魚たちは水の中で泳いでいた。
「ん、魚は無事みたいだな」
「本当か?」
「ああ」
 セリスはどこかしらホッとしたように肩を落とした。どうやら少しは気にしていたようだ。
 しおらしい、とまではいかないが、ナルシェの時よりは態度が軟化しているように感じる。もしかしたら、ロックに何か言われたのかもしれない。
「マッシュ様たちもこの池を見にらしたんですか?」
「あー、まあ、そんなとこ」
「まぁ! お二方は仲がよろしくてらっしゃいますのね」
「うっ……そ、そうだな」
(良くねーよ!!)
 できればあまり関わりたくない相手なのに、誤解はされたくない。
 だがメイドの女特有の好奇心旺盛な目に負けて、曖昧に返した。
 セリスは押し黙っていた。
「……あ、そうだ。兄貴が人手を求めてたから、行ってきたらどうだ?」
「まあ、陛下が? わかりました」
 池を堪能したのか、メイドたちはいそいそとその場を去っていく。その間にも、きゃいきゃいとお喋りをしているところは流石に女である。
(そうそう。若い女ってのはああいうもんだろ)
 別に酒場でタニマを見せて働けとは言わないが、女であれば体や心を着飾ることも礼儀としては必要だろうに。
「……終わったぞ」
「え? なにが」
「池。元に戻しておいた」
「そ、そうか」
 とにかく、この女に可愛げを要求するのは難しいようだ。
「ま、魚は生きてるし、見目も涼やかで綺麗だったしな。その……」
「では失礼する」
 セリスは無表情で、くるりと踵を返して迷いなく去っていった。
「嫌がらせかと思ってたけど、違うんだよな? ……ってあれ?」
 もう視界にはいなかった。
 実は本当に嫌がらせだったのかも、と考えて、マッシュは首を傾げた。

 そして執務室に帰ろうと振り返ると、ちょうど庭に兄がやってきた。
「よう、マッシュ」
「兄貴。メンテナンスは終わったのか?」
「いや、少し休憩がてら話題の凍った池を見に来たんだが……」
 兄は池のほとりに立ち、肩を竦める。
「普通の池だな」
 つまらなさそうに言う兄に、マッシュは苦笑した。
「今さっき戻しちまった。悪い」
「犯人はセリスか?」
「ああ。でもまあ……悪気はなかったみたいだ。多分」
「そうか」
 兄はおもむろに腕を組む。視線は魚に向けられているが、考えていることはそれとは無関係なことだろう。
「なあ、兄貴。ナルシェのあの事件……何か分かったことは?」
「うん? ああ……検死の結果では、凍死だそうだ」
「凍死……」
「男は多量のアルコールも摂取していたようだ。まぁ彼は現地人であったそうで、ナルシェの民はよく酒を飲むからな。これは関係ないかもしれん」
 男に外傷はなかった。酔って外で寝てしまったのかもしれない。だが、確かセリスの操る魔法の属性は氷だったはず。
「おまえはセリスがやったと思っているのか?」
 兄は池を見つめたまま、なんら憚ることなく問うた。
 しばらく考えてから、マッシュは首を振った。
「……いや。わからない」
 その答えに、兄は優しく目を細める。
「そうか。……どのみち俺は彼女を疑わねばならない立場だ。だから、おまえとロックは彼女を信じてやってくれ」
 こくりと頷いたのは、彼女を信じているからではなく、兄を信じているから。
 セリスは間者なのだろうか。つまりはまだ帝国に心を与しているのだろうか。
 本心では、ほんの一欠片でも疑っていた。だが、兄が信じろと言うならば。
 マッシュは元気に泳ぐ魚を目で追った。セリスは仲間だと、心のなかで何度か念じながら。

(……またかよ)
 マッシュは雨に濡れた髪を撫で付けて、顔をしかめた。
 ゾゾは一年を通して絶え間無く雨が降る。暗い空は、まるで夜のようだ。
「おい、礼くらいしたらどうだ?」
 そう言ったのはロックだったが、モンスターの攻撃を避けた際に危うくアパートメントのベランダから落ちそうになったセリスを、間一髪で助けたのはマッシュだった。
 そこに理由なんてなくて、ちょうど近かっただけだ。助けられる命なら、見境なく助けたいだけ。
「頼んでいない」
 セリスは顔をこちらに向けることもなく、雨の中で呟いた。
 それには流石のロックも声を荒らげる。
「セリスおまえ、ゾゾに来てからなんか態度悪いぞ。わかってんのか?」
「身に覚えがないな」
「あのなぁ、マッシュが助けなかったら死んでたかもしれないんだぞ?」
「今さら惜しむ命でもない」
 全く聞く耳を持たないその様子に、更に言葉を続けようとしていたロックの肩を叩き、マッシュはため息混じりに首を振った。
「もういいって。恩着せがましいのはお嫌なんだとよ」
 わざとセリスにも聞こえる声で言ったのだが、反応はなかった。
(なんだ? ナルシェん時みたいな態度だな)
 そう考えて、いや、と首を傾げる。なにか、違う気もするのだ。
 ナルシェでのは八つ当たりのような感じだった。ゾゾに来てからは、それとは少し違う。
 八つ当たりと言うよりは、なげやりな感じがするような。
 ナルシェとゾゾが悪いのか、或いはむしろフィガロやコーリンゲンでは偶然切れ味が鈍っていただけのことなのだろうか。
「とにかく、行こうぜ。ティナが待ってる」
 ああ、と返事したのは兄とロックで、案の定セリスは何も言わない。が、今さらそれを気にしたりする暇はなかった。

 そうしてようやくアパートメントの外階段を上りきり、最上階の扉にたどり着いた。
 すると、今まで先頭を歩いていたセリスが突然止まった。何かに気がついた風だった。
「どうしたんだい?」
 兄の問いかけに答えるわけもなく、セリスは扉をじっと見ている。
 ティナとは帝国であまり関わっていなかったと言っていたから、一番には入りづらいのかもしれない。
「……開けるぞ」
 仕方なしに、マッシュは扉に手をかけた。

 そこには幻獣のような姿のティナがいて、彼女を助けてくれと言ったのは幻獣ラムウだった。
 ラムウの話によると、帝国で行われている魔導実験には幻獣から搾取した力が使われているらしい。
 帝国から仲間たちを救ってくれ、そしてティナを助けてやってほしい、とラムウは自らを魔石に変えた。
 セリスはラムウの話をずっと遠巻きに聞いていたが、魔導実験の話は初耳だったらしく、目を見開いていた。

「とりあえず、この町から出よう」
 兄の言葉に全員頷き、順次アパートメントを下りていった。
 苦しそうなティナをそこに置いていくのは気が咎めたが、暴走してしまう彼女をどうすることもできない。

「……セリスは、魔導実験のこと何も知らなかったのか?」
 どうせ無視されると思って前を行く背中に問うたが、意外にも彼女は足を止めた。
「実験は眠らされて行ったから……知らなかった。だが噂には聞いたことがある」
「……そうか」
 セリスはわずかに頷いて、また階段を下りる。
「幻獣……」
「ん?」
「……いや」
「なんだよ。言えよ」
 ちら、と彼女は瞳を寄越した。嘲るような目付きだった。
「言ったところで理解できない」
「そんなん、まだわかんないだろ」
 憮然として返すと、セリスは僅かに肩を落とした。
「……貴方ならそう言うだろうと……思っていたが」
「え?」
 聞き返す声を無視し、セリスは無表情で先を行く。
(そう言うと思ってた?)
 彼女の言葉からにじんでいたのは蔑みというよりは認定の感情であり、数度瞬いてからマッシュは肩を竦めた。
「あいつなりに褒めたのか?」
 それにしてもわからない奴だ。コロコロと態度が変わる。むしろ人格が変わる域かもしれない。
 そうだ、確かに。
 コーリンゲン近郊でも彼女を庇った。その時は普通に「すまない」と返されたではないか。
 当然のことだから気にしていなかったが、セリスが謝ったなんてとんでもない珍事だった。
(なんだろう)
 気持ちが悪い。得体の知れないなにかが自分たちをまとっているような。そんな感覚。
 その奥に答えがありそうなのに。
「マッシュ!早く下りてこい」
「……あ、すまん兄貴。今行く!」
 既に下にいる兄たちに手っ取り早く追い付くために、アパートメントの二階から飛び下りると、兄は目を剥いていた。
「……おまえ、本当に丈夫になったよなぁ」
「まあな」
「さて。では全員集まったところで、だ。……次の目的地の話を始めようか」
「ああ。帝国、だな」
「私が行きます」
 一同の視線がセリスに集まる。
「帝国の内部には詳しいから。私が適任だろうと思う」
「帝国には用がある。俺も行くぜ」
 ロックも名乗りを上げ、にこりとセリスに笑いかける。セリスはわずかに顔を険しくさせた。
「今さらナルシェに帰るなんて嫌だからな。俺も行こう。……兄貴はどうする?」
「うむ。私は帝国の機械や技術に興味があってね。ぜひ目に入れたいと思っていた」
 帝国の魔導研究所。そこに捕われたラムウの仲間たちを助け出す。敵国の首都であるベクタに赴くのだ、それなりの危険がある。
 だが、結局は誰一人として抜けるものはいなかった。

 そうして帝国に渡るための手段を探しに貴族の町ジドールへと向かうなか、セリスは少し不機嫌だった。
「どうかしたのか?」
「……何故」
 真面目な声で尋ねてみると、彼女は鋭く返した。
「何故ついてきた?」
「は?」
「帝国には私だけで十分だ」
 マッシュは首を傾げる。
 そんなことで怒っていたのかと。
 ふ、とセリスは皮肉めいて笑った。
「信用ならないから、か」
 その問いに、一瞬マッシュは怯んだ。
 信用しているつもりだった。だが、実際はナルシェからずっと疑っていたわけで。
 それを見透かされたような気がした。
「……いや、そんなことは」
「魔石を持って逃げると思っているのだろう。或いは、まんまと国に帰るだけと」
「だから別にそういうわけじゃ」
「……貴方は見ていたのだろう?」
「見ていた?」
 セリスの言葉の意味がわからず、思わず眉を寄せた。
「見たって、なにを……」
「ナルシェ」
 どきりとして、マッシュは息を止めてセリスを見つめる。
 だが、セリスはその視線を避けるように歩調を早めた。
(どういう意味だ?)
 まさか彼女が自分から言ってくるとは考えてもみなかった。何の意図を持ってそれを告げたのか。
 ナルシェでのあの一件は、もちろん全員が知っている。だが、そこにセリスがいたことを知っているのは自身の他には兄とロックだけ。
 兄は立場上は疑っている。ロックは信じたいと言っていた。
(そして俺も、信じようとしてたけど……どうすれば……良い?)
 遠ざかるゾゾの空は、相変わらず暗いままだった。

「マリアに変装ぉ? せ、セリスがか?」
 絢爛豪華なオペラ座で、マッシュは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。高い天井に、それはとてもよく響いた。
「ああ、そうだ! 名案だろ?」
 ロックは得意気に親指を押し出して瞬く。
「マリアに化けたセリスが、代わりにセッツァーにさらわれる。で、内部から飛空艇をいただくって戦法さ!」
「うーん……で、当のセリスは了承したのか?」
「それが、まだなんだよな……」
 途端に肩を落としたロックに、マッシュは何も言えない。
 あの堅物無愛想女が、オペラ。もはや想像の域を越えすぎていて、何がなんやら。
「……兄貴ならうまく言いくるめられるんじゃないか?」
「馬鹿言え。こういうのは素直に伝えるのが大切なんだ。おまえらのどっちかが切り出せ」
 兄は思いっきり嫌な顔をして、ぴらぴらと手を払った。
「素直に、ねぇ……誰が言っても結果は同じな気もするけど?」
「さぁ、それはまだわからないぞ。おっ……やあ、そこの美しい貴婦人、私とお茶でもいかがかな?」
 小躍りで女性に声をかけに行く兄の背中を見て、マッシュはため息をついた。
「兄貴……勘弁してくれ」
「おいマッシュ。エドガーは放っておいて、早く決めようぜ」
「決めるってなにをだ?」
「セリスの説得をどっちがするか、だろ?」
 げ、と思わず呟き、慌ててロックに首を振ってみせる。
「考えるまでもなくロックの役目だろ!?」
「なに言ってんだよ。ここは公平にジャンケンで決めるぞ」
「話を聞けよ!」
「おっと、出さなきゃ負けだぜ」
 そうまで言われては、勝負しなければ男が廃る。
 ジャンケン、と男二人が威勢良く声を合わせる姿は、周りの貴族連中には果たしてどれほど異様に映ったのか。
「よし!! ロック、おまえの負け……」
 どうにか回避できた、と嬉々とした声を上げたマッシュに、ちっち、とロックは指を振ってにやりと笑んだ。
「勘違いするなよマッシュ。男なら勝負は三回だろ?」
「は、初めて聞いたぞそんなルールはっ」
「文句は言いっこなしだ。それ、二回戦いくぞ~!」
「くそっ、とにかく次も勝てばいいんだよな。よしっ」
「ふ、そう簡単に行くかな? ……ジャンケン…………お、ほらな。俺の勝ちだ。ようし、次で泣いても笑っても最後だぜ」
 ジャンケン、と言う掛け声の後、悲鳴を上げたのがマッシュなのは言うまでもない。

(ちくしょー……ロックのやつ!!)
 苛つきというより仕様がなさで、マッシュは腕を組んでその場をぐるぐると回っていた。
(なんて言えばいいんだよ? あんな無愛想なやつに、着飾ってオペラをやってくれってか? 冗談だろ!!)
 その頃、当のセリスはというと、意外なことにホールの隅の方でダンチョーの世間話に付き合っていた。
 その表情は相変わらず愛想がないが、心なしか、ほんのわずかだけ、上機嫌に見える。
(……まさか、オペラが好きとか? いや、それはさすがに……)
「おい、マッシュ。セリスに話はつけたのかよ?」
 そうこう悩んでいると、ちゃっかりオペラ座の見学をしていたロックが帰ってきて、呑気に笑いかけてきた。
「あのなぁ、簡単に言うなよ……」
「はは、ま、がんばれよ。なんなら他の方法を考えてくれたって良いんだぜ?」
「つーか、俺よりロックが言った方が、普通に考えて良いだろ」
「そうか?」
「あいつを連れてきたのはおまえじゃんか」
 ロックは困ったふうにバンダナの辺りの額をかいた。
「……まぁ。でもなぁ、あいつ、何考えてるかよくわかんねぇし……」
 ロックの言わんとすることは、よくわかった。まさしくその通りなのだ。
 嫌みっぽかったり、変に抜けていたり。何が彼女の態度をあそこまで変化させるのかがわからない。
「……ロックはナルシェでの事件をどう考えてるんだ?」
「違う、と思ってるけど、な」
 腰に手をあて、ロックは苦々しく笑う。
「正直、あいつがわからない。……リターナーに来る意志は確かにあったのに、どうして周りに敵意を向けたりする?」
 うん、とマッシュは相槌を打った。だが。

「……あれは、敵意……とは少し違うんじゃねえかな」
「え?」
「なんつーか、あいつも仕方なしにそうしてるような気がするんだよ。……わかんねえけど」
 ロックは不思議そうに数回、瞬いた。しかし、一番不可思議に感じていたのは自ら言ったはずのマッシュ本人だった。
(でも、確かにそうかもな……)
 自分で言ったことに、後から頷きつつ、マッシュは口を歪ませる。
「……で、やっぱり俺が言わなきゃ駄目なのか?」
 にっ、とロックは愉快そうに口角を上げて返した。
「そりゃ勝負の結果だからな! よろしく、殿下」
「お、おい」
 そうしてロックに物理的に背中を押され、及び腰のままでセリスの目の前に引き出される。
 ダンチョーと談話していた彼女は不意にこちらに気づいて、視線を投げて寄越した。
「……どうかしたのか?」
 その碧眼には疑惑の色が濃かった。
 マッシュはどうにか笑って、自らの首をさすりながら話を切り出す。
「あー、ええっと……セリスは、お、オペラは好きか?」
 え、とセリスは小さく声を漏らしたが、ほとんど動揺は見せなかった。
「別に……嫌いではないが」
「そうか!あ、これはロックの案なんだけどさ、セリスはマリアに似てるんだろ? だから、セリスが変装して代わりにオペラをやって、セッツァーにさらわれる! ……って、どうだ?」
「……は? なに?」
 低い声で聞き返され、助け船を期待して思わず背後を振り返る。と、そこにいたはずのロックの姿は無かった。
(あ、あの野郎……)
「あー、つまりだ。セリスがマリアになりきって、飛空艇に潜入するんだよ!」
 セリスはポカンとした顔をして、こちらを見上げていた。その間に、先に声を上げたのは横にいたダンチョーだった。
「素晴らしい作戦だ!! マリアはさらわれず、舞台を休む必要もない!! 完璧じゃないか!!」
 ダンチョーは案外、のりやすい性格のようだ。それに便乗させていただくことにしよう。
「だろ? これ以上はない名案だと思うんだよなぁ~」
「セリスさんは本当にマリアに似ているし、これは奇跡だ!! 運命だ!!」
「確かにタイミング良かったよなぁ~、またとないぜ、こんな機会は!」
 そうしてセリスをちらりと窺い見た時。
 マッシュは度肝を抜かれた。
「え……」
 思わず声が漏れるほど、驚いてしまった。
(こ、こいつ)
「あ、えー、セリス? だ、大丈夫か?」
「……うるさい、構うな」
 ばっ、とセリスは下を向く。
 だが、もう遅い。もう見てしまった。
(嘘だろ、顔真っ赤にしてやがる!!)
「セリスさん、ぜひお願いできませんか!? 我がオペラ座のためにも……!」
「そ、そうだぜ、飛空艇を手に入れるだけじゃねえ。オペラ座のためでもあるんだ!」
 ダンチョーとの最後のダメ押しは、どうやら決まったようである。
 セリスは極々小さく、ひどく屈辱的に、頷いた。

「まさかまさか、だよなー……」
 待合室で、男三人は誰ともなく呟いた。
 あのセリスが、オペラ。了承するとは欠片も思っていなかった。
「なぁ、あいつ、どんな感じでオッケーしてくれたんだ?」
 ロックが興味津々に問うが、マッシュはシラッとした表情で彼を見下ろした。
「裏切り者には教えてやるもんか」
「逃げたのは悪かったよ。でも結局説得に成功したわけだし? いいじゃんか」
「ダメだめ! 俺の努力を無にしたくねぇからな」
(……てか、どう言えばいいかわかんねぇし……)
 腕を組んで怒った雰囲気を装いつつ、マッシュは壁に向かって情けなく眉を寄せた。
(やっぱあれは照れたんだよな?)
 意外にも。
 あの女にも可愛いげがあったらしい。
 顔を真っ赤にして困ったふうに俯いていたのを思い返して、マッシュは笑いを堪えるように口を歪ませる。
「まぁ何にせよ、まずはセリスが一流のオペラ女優になりきることが重要だな。果たして練習にどれほどかかるか……楽しみだね」
「さぁなぁ、あいつ、こういうこと苦手そうだし……」
「おや、私が楽しみにしているのは彼女の美しく着飾った姿だよ」
「美しいぃ? 本ッ当にエドガーおまえさ、女なら何でもいいんだな~」
「何を言うか。セリスは一般的に言って綺麗な女性だよ。なあ、おまえもそう思うだろ、マッシュ?」
 兄とロックの会話をすっかり聞き流していたので、突然名前を呼ばれてマッシュはぱちくりと瞬いた。
「……え? あ、ああ」
 適当に肯定した途端、ロックが驚いたように目を見開いたので、逆にこちらが驚いてしまった。
「な、なんだよロック?」
「いや、まさかおまえまで……ま、まぁ、おまえも男だもんな……しかもフィガロの」
「……最後のはどーいう意味かな? ロックくん」
 兄はにこりと微笑んでロックに詰め寄る。目はまったく笑っていない。ロックは乾いた笑い声を上げて、黙ってしまった。
 傍観していたマッシュは、ただひとり首を傾げた。

(ふーん……稽古場、かなり広いんだなぁ)
 作戦を提案したロックは、何の為にかジドールの貴族連中の邸宅の下見をしたいそうで、数日間に及ぶセリスの女優化練習には顔を出さなかった。
 兄はオペラ座の女性団員全員と日替わりでお茶をしに出かけ、それなりに楽しく過ごしていた。
 マッシュはというと、セリスのあの赤面が頭から離れず、毎日稽古を覗こうか迷った挙げ句に、リハーサルのリハーサルを見に来ていた。リハのリハとはいえ、やることは本番とほぼ同じだ。セリスがきちんとやっているのかどうかはわかるだろう。
 稽古場は劇場を一回り小さくさせたような部屋で、照明や音響なども一応は揃っている。ただ観客席がないため、団員に言ってカーテン裏に通してもらった。
「セリスさん、真面目で誠実な方ですね。台本も熱心に覚えてくれてますよ」
 そうニコニコして言われたが、マッシュはただ適当に相槌を打つしかない。
 しばらくすると、台本片手でステージ上にセリスが現れた。どうやら位置取りの確認をしているらしい。
(頑張ってんだな)
 真っ直ぐに、そう思った。オペラが好きだったのかもしれない。
(あの突き放すような態度さえどうにかすりゃあいいのによ)
 そうすれば、それなりの女に見えなくもないのに。
「本当にマリアにそっくりだなぁ。何回か間違えちゃったんですよ、僕。いやぁ、綺麗な方ですよね」
「綺麗?」
「え? あ、やだなぁ。誤解しないでくださいよ。僕は純粋にそう言っただけですからね」
 マッシュの返しがやけに低い声だったせいで、劇団員は手を振ってそう言った。
 困ってしまって、マッシュはかりかりと鼻をかく。
「いや……あんま考えたことがなかっただけだ。そっちこそ誤解すんなよな」
「考えたことがない? ……ああ、モンクの方ですもんね。そりゃそうか……すみません、下世話なことを」
「別に構わねえよ」
 カーテン裏から練習を見つめながら、マッシュは黙考する。
(……ナルシェのあの一件)
 セリスがやっていないとすれば、何故あの場にいたのか。何故あの男は死んだのか。
(普通に考えりゃ、セリスはリターナーから疎まれてる。だから喧嘩になって殺した、とか)
 これだと、正当防衛になり得る話だ。あのくそ真面目で嫌みな性格からすると、自身に欠点はないという理由でセリスは申し開きもなにもしないのではないか。
(だが、もしもセリスが間者だったとしたら……あの男に何かがバレて、だから殺したってことになる)
 死体に外傷はなかった。酒に酔い、外で眠りこけて凍死したのだと見せかけるためだろうか。
(いや。そもそも、だ。セリスが間者なら利点はなんだろう? なにもねぇよな)
 セリスはずっと共に旅をしてきた。帝国に情報を流す隙はもちろんない。
 今はこうして帝国に行くことになったが、元々そのような予定はなかったし。
(うーん……わからん)
 マッシュは乱雑に髪をかいた。一人で考えたって、最高の答えが見つかるはずもない。
 兄とロックに後で話を聞こう。
「それにしても残念ですよ」
「……うん? なにがだ?」
 唐突に口を開いた団員を振り向く。彼は本当に残念そうに眉を寄せていた。
「セリスさん、絶対に良いオペラ女優になれると思うんだけどなぁ」
「はは、まさか」
「世辞じゃないですよ。あれだけ声量があって容姿端麗な女性はそんなにいません」
 ふーん、と大した興味もなさげに返すと、スタッフは苦笑した。
「やっぱり、モンク僧の方にはあまり興味は出ない話ですかね」
「……さぁな。うーん……俺、もう行くよ。兄貴を探しに行かなきゃ」
「え、今から歌の練習に入るとこですけど」
「本番に取って置くさ。じゃ、世話になったな」
 そうして稽古場から去る前に僅かにセリスを一瞥したが、彼女の真剣な表情は初めて見るもので、それはどこかしら楽しげでもあった。
(あいつには魔法以外にも誇れるものがあるんじゃねえのか?)
 ナルシェやゾゾでのセリスとは別人のようだ。
 生まれた場所が帝国でさえなかったら、彼女はあんな風に毎日を過ごせたのだろうか。
 セリスを擁護しすぎている自分に気づきながらも、マッシュはうっすらと笑った。

 翌日のリハーサルに顔を出したのは兄とロックだった。マッシュはというと、なんとなく足が進まず、結局見に行かなかった。
 そうして気を紛らわせるかのように筋トレをしていたところに、兄は心底愉快気で、ロックはなぜか釈然としない表情で、宿として借りている劇団員の寮室に戻ってきた。
「リハーサル、どうだった?」
「ああ、とても素晴らしい出来映えだったよ」
 備え付けのソファーに座り、兄はにこにこしながら指を組む。
「本番と同じようにやっていたそうだが、あれなら二回観ても飽きないね」
「へぇ、そうか。……で、ロックはどうしたんだ?」
「え? ……いや、別に」
「はは、こいつは驚いてるのさ。セリスが予想外に綺麗だったから」
「ばっ、違えよ! そんなんじゃ……」
「そうかい? なら、そうムキになる必要はないんじゃないか?」
 ロックはぐうの音も出ないようで、忌々しげに兄を睨み付けた後にベッドに倒れ込んでから、うんともすんとも言わなくなった。
「……からかい過ぎたかな」
「男にはホントに容赦ないよなぁ、兄貴……」
「その分を美しきレディたちに回しているからね」
 飄々として肩を竦め、兄はくっくと笑う。
「それはそうと、おまえも観に来れば良かったのに」
「……そうだなぁ」
 マッシュは前髪を軽く撫で付けながら、苦笑を返した。それを兄がじっと見つめるものだから、なんとなく落ち着かない。
「なんだよ?」
「いいや、別に。……ま、本番までセリスの晴れ姿を取っておくのも悪くないかな、と思ってな」
「馬子にも衣装ってか?」
 わざとらしい話の逸らし方には気づいていただろうが、兄は薄く笑っただけで何も言いはしなかった。
 しかしながら不自然な沈黙に、思わずかりかりと頬をかく。
「……なんかさぁ」
「うん?」
「あいつ……楽しそうだよな」
「だな」
 セリスが最も多弁になるのは、戦いの最中だと思う。指示や詠唱をひどく手慣れた風に行うその姿は、如何とも形容し難いものがある。
 戦いの時のみが、彼女が彼女たる時間であるかのようだったから。
 だが、ここ何日か、彼女は剣を振るうこともなく、もちろん魔法を使うこともなかった。
 セリスから戦いを取ったら何も残らないのではないかと思っていた身としては、それは驚くべき新事実といっても良い。
「普段から、ああしてりゃ良いのに」
 劇団員と話す際、出自がわからないようにとセリスは言葉遣いを改めていた。語尾に「ね」と「わ」をつけて話しているのを聞いた時には、聞き間違えたのかとすら思った。
「……そうしたら少しは可愛げがあるのに、ってか?」
「そうそう。せっかくそれなりの見た目なんだから……って、いや、今のは劇団の裏方のやつが言ってたことだからな?」
 ふ、と兄はわずかに笑って頷く。
 何か含むところのある仕草ではあったが、言い返してもどうせ口では勝てないのはわかりきっている。
(んだよ。言いたいことあるなら、はっきり言えよな)
「その言葉、そっくりそのままおまえに返すよ」
 口にはしないで黙っていたのにも関わらず、兄がくすりと鼻で笑ってそう言ったので、マッシュは思わず口を歪めた。

 そして、ついにセッツァーが予告をした日がやってきた。
 朝からオペラ座はばたついていて、様子を見に控え室に出向こうとすると、すれ違う団員全員に邪魔だと押しやられてしまった。が、生憎、そう易々とふらつくような体幹の鍛え方はしていない。
「あ! セリスさ……いや、マリアの知り合いの方ですね」
 人混みの中でそう声をかけてきたのは、以前カーテン裏に案内してくれた団員だった。どうやら人より頭一つ分大きなこの体が役に立ったようだ。
 おう、と陽気に返し、マッシュは彼に駆け寄る。
「もうマリアになってんのか?」
「ええ、そりゃあもう着々と! 昨日のリハーサルでも最高に綺麗だったんですから。観に来られてましたか?」
「いや。昨日は観てねえから楽しみだな」
「そうですか。ではどうぞ、こちらです」
 がやがやと盛り上がっている楽屋裏を通り抜け、セリスの控え室の扉の前まで案内された。
 その前に立ち、わずかに中からの音を窺うが、周りがうるさくてわからなかった。
「どうかしました? あ、大丈夫ですよ。着替えはもう済んでますから」
「え、あ、いや……そうか」
(……何を躊躇してんだろうな、俺は)
 脳裏にセリスの冷たい目付きと声を思い浮かべながら、マッシュは扉を開けた。

「よう、セリス? 緊張とかしてんじゃねえかと見に来たぜ」
 緊張をほぐしてやろうとして、ついつい声がやけに陽気になり過ぎた。
「……マッシュか?」
 座って台本を読んでいた彼女は、不似合いなほどか細く名を呼んで顔を上げた。
「おう、兄貴たちはー……」
 言葉を続けたかったが、その意志に反して口は動きを止めていた。
 最初に目を捕らえたのは、ふっくらとして形の良い唇の輝きだった。真っ赤なルージュがここまで映えるのは、恐らく肌が雪のように白いからだろう。それは化粧ではなく地の肌色だったな、などと考えて見たのは初めてだ。
 こちらを不思議そうに射抜く気の強そうな碧の瞳は、目を逸らせなくする何かを秘めていた。
「エドガーたちが、何だ?」
 不審げに問われるのと同時に動いた唇に、ハッとさせられた。
「ん、ああ……その、兄貴たちは作戦の練り上げをしてるぜ。セリスがさらわれなくても飛空艇に入り込めないか、とかな」
「そうか」
「言っとくけど、別におまえが信用ならないからとかじゃねえぞ。むしろその逆だからな?」
「……?」
 セリスは極わずかに首を傾げる。
「おまえがまんまとさらわれて、それでお仕舞いじゃあ駄目だろ」
「それはそうだな。だが、私がまんまと手込めにされるとでも?」
 ふ、とセリスはこちらを見上げたまま不敵に笑む。その拍子に首もとのシンプルなネックレスが揺れて、金属音が響いた。
「……いや。でもセッツァーとかいうやつがどれだけの男かはわからねえからな。用心するに超したことはないだろ」
「とはいえ、貴方以上の男ではないとは思うが……」
「はは、確かにな」
 マッシュが笑うと、彼女もわずかながら微笑んだ。その笑い方は、決して不自然ではなかった。
 そして不意に、セリスは壁掛け時計に視線をやる。
「……そろそろ会場が開く時間だ」
「あ、そうだった。緊張は大丈夫か?」
「問題ない」
「そうか。台本は完璧か?」
「心配ない」
 そうか、と返すと、もう問うべきことが見つからない。突っ立ったまま、マッシュは手持ちぶさたに首をほぐす。
「……あの」
 ひどく躊躇した声だった。セリスは俯いて、台本の表紙を見つめていた。
「ん?」
「……笑わ、ないんだな」
「? なにをだ?」
「いや……何でもない」
「……そうか」
 もう少し気の利いた返し方もあったろうが、こんなにもしおらしい態度を取られてはどうにも調子が狂う。
(実はこっちが素だったりして……いや、そりゃないか)

「マリアさーん!! 髪型のセットしますから、こちらに来てくださーい!」
「はい。……すまないな、行ってくる」
「おう」
 そうして彼女が立ち上がった際に、ようやくセリスがドレスを着ていたことに気がついた。普段は男装に近い服装だから、やけに変な感じがする。セリス自身も、ひどく歩きにくそうにしていた。
「大丈夫かよ?」
「も、問題はない」
 彼女の目線がいつもより高いのは、恐らくハイヒールを履いているからだろう。
「おいおい、裾はふんわり持ってやらないと靴で……」
「! あっ」
 ぐりっ、と嫌な音がした。
「おいっ!?」
 マッシュはほぼ反射で、セリスの背後に回っていた。倒れてきた背中を抱き止め、思わずため息がもれた。
「……す、すまない」
「言わんこっちゃねえなぁ、おまえ……危なっかしいやつ」
「まだ慣れていないだけだ!」
「今日が本番なのにかよ……」
 う、うるさい、とセリスは頬に朱を上らせて、腕を振りほどく。
「心配は無用だ、きちんとさらわれてみせる!」
(うん、意気込みとしてはなんか変だけど)
「セリス」
「……なんだ?」
「信じてるぜ」
 マッシュは、屈託なく笑ってみせた。
 一瞬の間だけ逡巡し、セリスは小さく頷く。そして、彼女は奥に向かって行った。

 結局、セッツァーから飛空艇を奪い取るという作戦は不発で終わったのだが、その剛胆さに感服したと言って、セッツァーは気前よく飛空艇を貸してくれた。

 帝国に向かうにつれ、セリスの顔は険しくなっていった。それは単に、前途の難を危惧しているからだと、マッシュは思っていた。

「よう、そんなに気を詰めてちゃこの先が思いやられるぜ?」
 気さくに彼女の肩を叩いた手は、直後に忌々しげにはたき落とされた。
「……うるさい。私に構うな!」
「でもおまえ、一人だと考えは悪い方向にばっかりなっちまうぞ」
「それは申し訳ない、貴方のように呆れるほど楽天的な考えが出来なくてな!」
 セリスはそう吐き捨てて、強い足取りで部屋に閉じこもってしまった。

(んだよ、また……)
 また、ナルシェやゾゾの時のようだった。こうなってしまっては、まともな会話にはならない。彼女が一方的に嫌みで会話を終わらせてしまうからだ。
 マッシュは苛立ちながら、乱暴に前髪をかいた。
(……また、わけがわからなかった)
 以前に感じていたのは不快だった。だが、今一番に思うことは、困惑、かもしれない。

 飛空艇で近郊につけ、徒歩で帝国首都ベクタに入った後は、現地に潜入していたリターナーやセリスの案内によって、無事に魔導研究所へ侵入することはできた。
「こっちだ」
 研究所内は似た風景ばかりが続き、方向感覚がおかしくなってしまうのではないかというほどだった。
 そんななか、ここを初めて訪れたわけではないセリスは、迷いなく奥を目指していく。
(昔、本で読んだ……迷宮の案内人みたいだな)
 そう考えて、マッシュはひとり首を振った。
「どうかしたのか、マッシュ?」
「いや、大丈夫。なんでもねえ」
 兄の囁くような問いに、慌てて笑い返して。
(……そんなわけ、ねえよな)
 確か子どもの頃読んだその本では、案内人は、主人公を迷宮へと誘った、いわば犯人であった。
 今そのようなことを思い出すなどひどく不謹慎だ。
「セリス、あとどれくらいでつくかわかるか?」
「……もう少しだ」
 彼女は厳しい表情で短く答えた。
 その額は、汗で鈍く光っている。そのせいで金の髪が額にはりついてしまっていた。
(そうだよな。一番怖ぇのはセリスだよな……)
 セリスは研究者や上層部に顔が知れている。見つかれば反逆の罪で死刑は免れないだろう。
(だからまた、ピリピリしてたのか?)
 足音を立てないよう、慎重に彼女の後を追いながら、マッシュは考える。
 ゾゾで彼女は、独りで行かせてほしいと言った。捕らえられることは危惧していなかったということだろうか。セッツァーなんかに手込めにはされない、と不敵に笑った彼女が脳裏に浮かぶ。
(……じゃあ、あいつは何に恐れてる?)
「……この、先だ」
 苦しそうに、セリスは告げた。

「これは……」
 誰ともなく呟き、その光景に絶句する。
 異形の生物たちが一様にカプセルの中に浮かんでいた。苦しみの声なのか、低い音が耳鳴りのように響いている。
 と、突然セリスは頭を抑えて、屈んだ。
「おい、どうした? 立てるか?」
「……う、るさい」
 慌ててロックが差し出した手を見ようともせず、セリスは苦痛に耐えるように呻く。
「頭が痛むのか? しっかりしろよ、大丈夫か?」
 わけがわからず、マッシュはとりあえず彼女の背中を撫でてやった。
「……やめろ……っ!」
 その声は、悲鳴のようでもあった。
 思わず手を止めてしまったが、しかしセリスはこちらに向かって言っているのではなかった。
 セリスはその場にへたりと座り、嫌だ嫌だと駄々をこねるかのように頭を振る。
「うるさい!! やめて!!」
「彼女を落ち着かせろ。ここまで来て捕まるわけにはいかない……!」
 辺りを警戒して見回す兄に強く頷き返し、マッシュは彼女の傍らに膝をつく。
「おい、落ち着けって! そんなにでかい声を出すんじゃねえよ」
 その強ばって丸められた背中を、子どもをあやすように撫でながらマッシュは懇願して囁いた。
 だが、言葉は彼女にまるで届きはしなかった。
「黙れだまれっ!やめろ……っ!!」
「誰も何も言ってねえから、な? いいか、まずゆっくり深呼吸して……」
 喚いているのは彼女の方だ。それなのに、彼女は何故か頻りに黙れと叫ぶ。
(なんなんだよ? こいつに何が起きてるって言うんだ?)
 あまりにも唐突な錯乱状態に、マッシュはやや焦りながらも彼女をなだめた。

 その瞬間、目が眩むほどに部屋が明るくなった。
「なんだ!?」
「……っ!幻獣たちが、光り出した!?」
 目映く光りながら、幻獣たちは以前ラムウがそうしたように、淡く光る石、魔石となった。そしてけたたましい破壊音とともにカプセルを破り、こちらの手元へと飛来する。
「魔石……」
 各々にそれを手にし、セリス以外の三人はただ呆然としていた。
 突然いろいろなことが重なり、何が起きたのかをひとつとして理解できなかった。
「……何!? ち、違う!! 私は…………黙れ! うるさい!!」
 そんななか、セリスは依然としてなにかに取り憑かれたかのようで、その叫ぶ声に正気に返された。
「セリス、とにかく落ち着……」

「わかりますよ、その気持ち。騒がしいにもほどがあります、この幻獣たちの叫び声はねェ」
 くす、と嘲笑を含んだ声だった。
「……!!」
 いつからそこにいたのか、華奢な男が背後に立っていた。
 マッシュは反射的に、セリスを背に庇うように構える。ロックも同様に、彼女の前に立った。
「ケフカか……!!」
「これはこれはお久しぶりですねェ、フィガロ王?」
 わざと恭しく、ケフカは腰を折る。同時に奥の部屋から数体の魔導アーマーが姿を表し、こちらを取り囲んだ。
 ち、と兄が忌々しげに舌打ちする。
「ああ、そうだな。おまえにだけは会いたくなかったよ」
「それはヒドイことを仰る」
 兄は吐き捨てるように返す。それにケフカは肩を竦めてみせた。
 そして、にやりと笑った。
「……セリス将軍? もう芝居は結構ですよ」
 芝居、という単語にセリスを含めた全員が動きを止めた。
「? な、にを……言って」
「幻獣の咆哮など、今さら苦しがる必要はありませんよ。油断させるには悪くないアイデアでしたがね」
「油断…………?」
 額を押さえたまま、セリスは弾かれたように頭をもたげる。

「ふ……ふざけるな!! 私は……」
「おやおや、ですから芝居は既に幕が下りましたよ。迫真の演技、なかなか素晴らしいものでした」
 ケフカは愉快そうに彼女に微笑みかけた。
(セリスが芝居していた? なぜ?)
 固まる体と、止めどなく回る思考。
(違う、今のはケフカの嘘だ!! 理由なんて考えるな! とにかく今はこの状況を切り抜ける方法を)
「……裏切って、いたのか?」
 ロックの声、だった。
 死神に肩を叩かれたかのように、マッシュは鼓動を跳ね上がらせてロックを振り向く。同時に視界に入ったセリスの表情が、強く瞳に焼きついた。
「マッシュ!! 目を逸らすな!!」
「………――っ!!」
 兄の叫びに、咄嗟にケフカに視線を向けたが、すでに遅かった。

「馬鹿どもが。皆殺しだ」

 その声だけが、激しい閃光と音のなかでいつまでも響いていた。

 真っ先に意識を取り戻したのはマッシュで、反射的に体を跳ね起こしたは良いものの、らしくもなく激痛に呻き声を上げてしまった。
「……ってぇ……」
「ようやく目が覚めたか」
 優しそうな目をした、初老の男性。彼は何かを整備する手をわずかに休め、こちらを見た。
「……? 誰だ? ここは……」
「わしはシド。ここは魔導研究所の地下じゃ。ケフカに頼んで人体実験用にあんたらを回収させてもらった」
「じ、人体実験っ!?」
 シドは口髭を揺らし、笑った。
「何もせんよ。口から出任せじゃ、あんたらの命を救うための」
「救うったって……」
「理由がない、か?」
 そうして微笑んだシドに、警戒をする必要性をはなさそうに思えて、マッシュは肩から力を抜いた。
「いや。理由なんてどうだっていい……礼を言うよ」
 周りを見渡すと、兄とロックが同様に床に倒れている。二人とも息はしているから、心底安堵したが。
(……セリス、は?)
「……もし理由が必要というのなら、あるぞ」
「え?」
 シドは工具を置いた。
「セリス将軍。彼女がそう望んだ……と、わしが思ったからじゃ」
「セリスは……どこに?」
「わからん。……ケフカと王城に行った。その最中で、わしに頼んできたのじゃ。あんたらを救ってほしいと」
 セリスが、そう頼んだと。
「それは、セリスは裏切りなんてしてなかった、ってことだよな?」
 やや間を置いてから、シドは極小さく首を振った。
「おそらく、な。わしには真実はわからん……」
 シドはまた機械に向かい合って、黙った。
 その背中を見つめながら、マッシュは膝を立てて座りなおす。
(でもセリスが俺たちを救ったのは事実だ)
 そう考えて、どきりとした。事実だけを考えるならば、ナルシェでの出来事はどうなる。
(……違う。俺たちはまだ、あいつに聞いてないじゃねえか。見て見ぬ振りをしてきたのは俺たちだ……)
 いつか折を見て話そうと思っていた。だが、その前にこんな形で別れることになろうとは。
 このまま二度と、会うことはないのだろうか。
 ガチッという金属のはまる音が一際大きく鳴った。それと同時に兄が目を覚ました。
「……ぅ……?」
「兄貴!」
「マッシュ……ここは」
 寝転がったまま頭を押さえる兄に自分のわかる限りのことを説明し終えると、ようやく混乱が収まってきたのがわかった。
「とにかく飛空艇に帰らなきゃな……」
「ああ。一刻もはやくティナのところへ行かねばならん」
 未だ目を覚まさないロックを担ぎ上げ、マッシュはシドに声をかける。
「シドさん、だっけか? 色々世話になった。ありがとな」
「あんたら、どこに行く気じゃ?」
「我々には行くべきところがある。そのために研究所から脱出します」
 うむ、とシドはすべてを理解した頷きを返した。
「今、研究所内の警戒は最高レベルにされておる。普通には出られんぞ。……これに乗っていけ」
 カンカンと工具で「これ」を指し示し、シドは不敵に微笑んだ。
「……あの娘はわしに任せろ。さあ、ケフカに知られんうちに行け」

 行きより人数の減った飛空艇は、真っ直ぐにゾゾを目指していた。
 近づくにつれ雨が降り出し、飛空艇内には絶え間なく雨音が響いていた。

「…………お父、さん?」
 研究所から持ち去ってきた魔石によって、ティナは覚醒した。幻獣のような姿を抑え、今まで通りの姿形を維持できるようにもなった。
「この魔石が、ティナの……父親なのか?」
 こくん、と頷き、ティナは大事そうに魔石を両手で掴んだ。
「……幻獣マディン。それが私の父……」
「だからティナは生まれつき魔法が使えたというわけか……」
「こりゃ驚いたな」
 壁に寄りかかったまま、セッツァーが煙草を燻らせながら肩をすくめてみせる。
 それに目をやることもなく、ティナは不意に魔石に耳をつけた。
「どうした?」
「……お父さんが、なにか言いたいみたい。…………え? 娘……って、誰のこと?」
 はっとして、マッシュは声をあげた。
「娘? ……セリスか?」
 ティナはちらりとこちらを見てから、また魔石に耳を傾けた。そして、確かに頷いた。
「ええ……聞き終わるまで少し待って」
 建物には外からの雨音だけが響いていた。

 どれほど待ったか、ティナが魔石を耳から離したのを見て、マッシュは何故か焦りつつ問うた。
「マディンは、なんて?」
 ティナはそれでも、ずいぶん長く沈黙していた。表情から察するに、どう言えばいいか迷っていたのかもしれない。
「……謝りたい、って」
 その言葉に、兄が眉を寄せた。
「謝る? 何故……」
「勘違いしてしまった、って。セリスがラムウたちを魔石にして連れてきたから、てっきりセリスは完全に敵になったんだと……裏切られたのだと思った、って」
「……? 意味がわかんねえな。完全な敵だとか裏切るだとか……どういう意味なんだ?」
 ティナは小さな肩をより小さくさせて、わずかに頷く。
「そもそも……幻獣たちは魔導士に干渉できるの。頭の中に向かって言葉を送れるのよ」
「ああ……ラムウが俺たちにしたみたいに?」
「それは、少し違う。魔導士……帝国でつくられた魔導士たちに対しては、あんなに明瞭な言葉じゃないの。もっと動物みたいな悲鳴……それがひっきりなしに頭の中に直接響く」
 それは魔力による干渉だから、魔力を持たない者には理解ができない。魔導注入による精神障害は、ここにその一端があった。
 聞こえ方は注入された魔導の量に比例しており、魔導士たちは多かれ少なかれこの声に悩まされている。
「……マディンは、セリスが私と同じ年頃の娘だったから……他の仲間にも頼んで、彼女にはそれをしなかったらしいの」
 それは彼女の精神を救った。だが、結果として彼女を血の道へと誘った。
 精神障害のない、高魔力注入の成功例。セリスは出世街道を駆け上った。
「セリスはよく、研究所で博士と話していたそうよ。帝国の実態にセリスは薄々勘づき始めていて、その迷いも手に取るようにわかったって」
 マディンは、セリスがやがて救いをもたらしてくれると考えた。ある日から彼女の姿を見なくなって、彼女が帝国から脱出したのだと思った。
「次にセリスを見るのは、彼女が助けを呼ぶのに成功した時だと思っていたから……まさか、新たな幻獣を携えてくるとは考えもしなかった、って。……だから、彼女を激しく責め立ててしまった、って……」
 ティナは申し訳なさそうに、上目遣いでこちらを見つめる。
(そう、だったのか)
 ようやく。ようやくだ。多くのことに合点がいったのだ。
「思えばセリスは幻獣の声に慣れていないから……余計混乱したんでしょうね……ごめんなさい」
「ティナが謝る必要はないさ。マディン殿にもそう言ってくれ。我々が迂闊にも、セリスを研究所に連れていったのが過ちだったのだから……」
 兄の言った、迂闊という言葉がわずかに引っ掛かり、マッシュは表情を曇らせる。
 確かに、研究所に連れていかなければ彼女は今も共にいたのかもしれない。だが実際はそうはならなかった。
(セリスが、何も……何も、俺たちに言わなかったから)
 魔導研究所に近づくにつれ、汗ばむ彼女に気づいていたのに。
 唇を真っ青にしながら、それでもなお進む足を止めない彼女を見ていたのに。
 彼女は何も教えてはくれなかった。つらいとも、苦しいとも、何一つ言わず。
(いや。……俺たちだって、一度もあいつに尋ねたりしなかった)
 セリスは女である前に、戦士であった。過剰な気遣いは愚弄になると、敢えて無視していたのもあるが。
 仲間、なのに。
 信じようと決めた、仲間だったのに。一声さえかけないのは、おかしくはないか。
 自分が不可解な行動をしていたような気がして、思わず唇を歪ませる。
 だが、ティナが力強い眼差しを浮かべているのに気づいて、すぐにマッシュは自らの頬に微笑みをたたえた。
「みんな、本当にありがとう。私はもう大丈夫。だから……帝国を止めましょう。二度と悲劇が起きないように……」

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