そんなことはないと、はっきり言い切れたらどんなに良かっただろう。打ちのめされたような彼の顔が、瞼に焼き付いて消えない。彼にだけは、決してそんな顔をしてほしくなかった。
今となってはすべてが手遅れで、だからこそ虚しかった。
「本当に、いいの? ……彼、行ってしまうわ」
轟々と音を立てて、飛空艇は空を駆ける。その音に負けてしまいそうなほど小さな声でティナはそう言った。おどおどと緑の髪を揺らして、ティナはセリスの顔を見上げている。その不思議な色の瞳には、ただ無表情の女が映っていた。
「どうして私に聞くのよ。関係ないでしょう、マッシュがどうしたって」
「でも、……好きだったのでしょ」
「そんなこと……ないわ」
そう言いたかったのは、今ではなかった。そうではないと、あの時どうして否定しなかったのだろう。身体の奥から湧き出す後悔に、今更だと、セリスは目を背けることしかできない。
「勘違いしないで、ティナ。私たちはただの仲間だったのよ。そんな特別な仲じゃないの」
自ら事実を並べながら、ただただ、苦しさが募った。ただの仲間で、特別ではない。これまで何度言い聞かせてきただろう。呪いのように何度だってそう封じ込めてきた。それなのに今更、それに傷付くなんて愚かだ。
「……ならどうしてロックと一緒に行かなかったの?」
「それは関係ないわ」
「ねぇセリス、正直になって。本当はそうじゃないでしょ?」
「からかわないでよティナ」
す、とセリスは視線を外す。これ以上聞きたくなかった。ティナは真っ直ぐで、眩しすぎる。それはまるで、彼と同じようにこの身を焼く。
「まだ間に合うわ。フィガロまであと少しあるもの。ね、セリス?」
ティナの泣きそうな声すら無視して、セリスは飛空艇の自室の扉を開けた。
「もう手遅れよ」
なんて馬鹿げたことを聞いてしまったのだろう、と思う。
今でもロックを想っているのか、と。例えそうだとしても、責めるつもりも、ましてや伸ばした手を引くつもりもなかった。だが、あの時、セリスは答えに詰まった。
あの迷った表情が忘れられなかった。揺れる瞳でこちらを見上げるその表情は、簡単に触れていいものだとは、決して見えなかった。そうか、とだけ、物言わぬ彼女の代わりに言って、マッシュは続けようとしていた言葉をその場に捨てた。そんな道は元々、ありはしなかった。誰もこれ以上、傷付けることはない。
「……いいのか?」
「うん? 何が?」
フィガロまでもう少しというところて、兄に唐突に尋ねられる。どうせ見透かされているとわかっていて、マッシュは敢えてとぼけたが、兄も敢えて、ぼやかすことをしなかった。
「セリスのことだ」
じ、とこちらを見つめる目は、何もかもをわかった上で、それでも言葉にすることを求めていた。
「……だから、セリスがどうかした?」
もう一度とぼけてみせると、兄は眉だけを動かして答える。
「どうもこうも。てっきり俺の義妹になるんだと思ってたんだが……違うのか?」
マッシュは自嘲気味に笑った。
「ハハ。兄貴にしては、随分な勘違いじゃないか? 俺とセリスはそういうのじゃない」
つい尖った風になったマッシュの言葉に、兄は冗談めいて肩を竦める。
「ふーん……なら俺の妻に来てもらうってのでもありだな」
「それを決めるのはセリスだろ?」
「そうだな。だがレディという生き物は、たまには強引に連れ出してもらいたいものなのさ」
「……俺にそうしろって?」
兄の言葉に、マッシュは目を逸らす。そうできたらどれだけこの胸は救われただろう。そしてその代わりに、どれほど彼女の心を殺すだろう。
「いや、俺がするかもな? そうしてあげた方が彼女の為になる」
むっとして、マッシュは兄を見た。そして、待ち構えたようなその表情に、してやられたと思った。
「何を怒ってるんだよ、お前はもう降りたんだろ? 俺がそうしたところで止める権利はないぜ」
「……別に、俺は」
兄はくっくと喉を鳴らして笑った。
「冗談だよ! しかし珍しいな、おまえが前向きじゃないなんて」
「笑い事じゃないって……」
「いいや、笑えるね」
兄は途端に真剣な表情を浮かべて、指先を振ってみせる。気圧されて、マッシュは唇を噛んだ。
「彼女の気持ちを考えてみたか?」
「そりゃ当たり前だ、だから俺は、……」
「それじゃ、どうしてセリスはロックと共に飛空艇を降りなかったんだ?」
「……それは、……」
「引く手数多の彼女だが、もう心に決めたことがあるということじゃないのか?」
「……そうかもな、……それじゃあ、……」
例えば。ロックと共には行けないと、覚悟をしていたのかもしれない。セリスは誰かのためには平気で自分を擲つことができる人間だった。
「……一人で行く気なのかもしれない」
「そうかもな。言われてみると、それがセリスらしい選択かもしれん」
一人でも戦うと、彼女は立った。それでも時々、隠しきれないやわらかな所が彼女にはあった。そのやわらかな部分に触れて、寄り添って、二人でいくつもの夜を越えてきた。それは仲間という枠から出ることではなかったが、彼女を特別に思うには十分な時間だった。だからこそ、もう二度と一人にはさせたくないと願った。
「……セリス、どうして」
そんな選択をしてほしくなかったからこそ、今、己はここで立ち尽くしているのに。何故だ。マッシュは、いつの間にか握っていた手に気がついて、緩める。
「どうしてもこうしても……おまえのためだろ、と俺は思ってるんだが?」
「俺?」
「これ以上言わせるなよ。……自信を持て。おまえは俺の自慢の弟さ」
思いの外優しく肩を叩かれて、マッシュは逡巡した後、こくりと頷いた。
ついに飛空艇は砂漠に着いてしまった。自室の窓から遠くに見えてくるフィガロ城をただ見つめて、セリスは迷った。エドガーも降りるのだし、最後の見送りの挨拶をしに行かなくては。しかし、それがマッシュとの最後の別れになると思うと、足が竦んでしまう。いっそのこと、知らないうちに全てが終わってくれたらと願った。
刻一刻と、着陸に進む機体。それは振動で手に取るようにわかる。それなら手を貸せと船の主に言われたが、それも既に断った。
「……マッシュ、……」
再会してからずっと一緒にいてくれた、半身のような人だった。傍で支えるように、この身も心も強くしてくれた。
彼の笑顔が好きだった。不安でどきどきとするロックとは違って、ただそこにいてくれるだけでほっとするような安心が、マッシュにはあった。彼の無邪気な笑顔は、見ているこちらが思わず笑ってしまうくらいに幸せで、あたたかだった。隣にいるだけで身体中が焼かれてしまいそうなほど、眩しかった。傍にいることを許されるならば、その光をずっと見つめていたかった。
ぽろぽろと、涙がこぼれていた。ひどく熱いようなそれは、目尻を流れ落ちる。
「……なにやってるのかしらね、私……」
彼を愛している。のに、言えなかった。今更何故そんなことを聞くのかと戸惑って、しかしマッシュにとってはそれは、大切な問いかけなのだろうと悟った。そのことが彼を傷つけていたなどと、知らなかった。二度とあんな表情をしてほしくない。それなら、もう何を口にしたところで。
手を差し伸べようとしてくれていた優しい彼に、傷つけるだけで何も返せなかった、弱い自分に。ただ涙がこぼれる。
全ては手遅れだ、と思ったが、最初から何もなかったのだ。それならばこの空しさも、仕方のないことに思えた。こぼれていく涙も、直に冷えて乾く。この想いも飲み込んで、消えるまでただ待てばいい。
ずん、と飛空艇全体が低く唸った。完全に着陸をした音だった。セリスはその場から動けない。これ以上、つらい記憶を上塗りしたくなかった。出来る限り、笑顔の思い出だけを抱いて終わりにしたい。
「……さようなら」
これで二度と。そう思って目を閉じた。
途端、突然に部屋のドアがノックされてセリスは思わず体をびくつかせた。
「……誰?」
「私だよ」
彼にしては控えめな声色だった。
「最後だから少し話したいのだが、いいかな?」
よく似た、だが待っていたものではない声に、安堵と失望とがない交ぜになった気持ちでセリスは応えた。
「……いいわよ。少し待って」
荒く目元を拭き、セリスはドアを開けてエドガーを部屋に招き入れた。
「すまないね。ちょっと君に言っておきたいことがあって」
明らかにセリスの目元が赤いのに気づいているに違いないのに、エドガーはいたって平常通りに穏やかに笑う。
「……そうね。見送りに行けなくてごめんなさい、最後にどんな話かしら」
「じゃ、まずは悪い話から」
ちっち、とわざとらしくエドガーは指先を振ってみせた。
「我が不貞の弟は、もう船を降りたよ」
もう飛空艇にいない。そう言われて、セリスは目を見開いた。何も告げずに、去っていったということだった。
「そう」
それだけ答えて、セリスは口を閉じた。何かを言えば、また涙が湧き出してくるような気がした。そもそも何か言う権利など、セリスにはなかった。あの時のマッシュの傷ついた表情は忘れられない。当たり前のことを聞かされただけで、なにも悪い話ではない、とセリスは己を押し込めた。
「それで、他にも話が?」
「うん。もう一つの話はね、私からのお願いなんだが」
「あぁ、妻にはなれないわよ」
わざと茶化して言ったのはエドガーにはもちろん伝わっていたが、彼は困った風に苦笑いしていた。
「それは残念だね」
「……あのねぇ」
「ま、冗談だよ。私の妻になれないという君にこその頼みなんだ」
エドガーはまるでセリスの顔色などお構いなしに、にこにこと笑っている。とはいえ、セリスには冗談に乗ってあげられるような気持ちの余裕はない。
「もったいぶらないで、早く言ってくれない?」
泣き顔で何をこんな台詞を言わなければならないのだろう、と困惑しつつも、すっかりエドガーの雰囲気に乗せられている気もする。何か企んでいるのでは、と思い至った時に、ふ、とエドガーはひどく困った表情を浮かべた。その表情はある意味では自然で、人間味があった。困った時のマッシュのそれによく似ているのだ、と思って、咄嗟に目を逸らす。だが遅かった。
「……弟を頼むよ」
「何を……」
セリスは思わず、口角を上げた。恐らくひどい笑みだったろう。
「何を言ってるのよ、……全て知っているくせに。私がどうして彼の傍にいられると思うの?」
「君は、あいつが唯一望む人だからだ」
エドガーの落ち着いた声は、閉じた心の隙間にするすると入り込もうとする。セリスは頭を振って、それを振り払った。
「……違う。貴方もティナも、とんだ勘違いだわ。私はマッシュとは一緒に行かないし、マッシュだってその方が良い」
言いながら、胸元を何度も突き刺すような痛みが走る。思いを口に出して言うだけで途端に実感が伴って、こんなにも苦しい。
「……君が苦しむ訳は、わかっているつもりだ」
エドガーは静かに言葉を紡ぐ。
「弟を苦しめたくないと思ってくれている。そんなにも奴のことを想ってくれているのは、それは私も嬉しい。ただ、それなら君が取るべき行動は、ここで黙って篭もっていることではない」
踏み暴かれたくない事実だと知ったうえで、エドガーはそこに触れてくる。事実を背負う覚悟が出来ているからこその、その言葉は重く響いた。
「……弟はまだ、すぐそこで私が船を降りるのを待っているはずだ。せめて顔を見せてやってくれないか。笑ってくれとまでは言わないから」
そっと、エドガーの手のひらが肩に触れる。その重みを感じながら、セリスは掛けられた言葉のすべてを頭の中で反芻していた。それをして、彼のためになるだろうか。笑えもしないで前に出て、それで手を振って、彼は最後に何を思うだろう。
「……弱気になる必要はないさ。あれは強靱な奴だ、少しくらい傷付いたところで大したことはない」
いつの間にか落ちていた視線に気がついたのか、エドガーはするりと肩から手のひらを流し、セリスの指先に触れた。そのまま手を軽く持ち上げて、自らの口元にやる。
「私が共に行くよ、大丈夫。……さぁ、麗しいレディ。どうかこちらへ」
セリスはぎゅっと強く目を瞑ってから、ゆっくりと瞼を上げた。
フィガロ近郊に飛空艇が着陸し、仲間たちと最後の挨拶を終えた時、マッシュは人知れず、ため息を吐いた。
やはり彼女は現れなかった。当然のことと思ってはいたから、そこまでの苦しみは覚えない。このまま国に帰って、それで。どこかで独り過ごす彼女を忘れられるのだろうか。考えるまでも無いことだった。
緩慢に荷物を持ち上げると、とと、とティナが傍に近寄ってきて、困り眉で小首を傾げた。
「エドガー、マッシュ、二人とも元気でね」
「ああ。ありがとな、ティナもモブリズのみんなによろしく。いつでも遊びに来てくれよ」
「そうだな、君ならいつでも歓迎だ。毎週末でも来てくれ」
「ふふ、それはちょっと遠いけど。うん……」
ティナは何かを言いたそうに一度、俯いた。それは言わずともマッシュには当然、伝わる。
「ティナ、……大丈夫だ」
マッシュはただ、そう言って頷いてみせた。不安げに、それでもティナはこくりと頷く。
「おっと。マッシュ、すまない。少し忘れ物をしてしまった。ここで待ってろ」
「いでっ」
突然バンッと背中を叩かれて、意見をする間もなく兄が一度飛空艇に戻っていった。忘れ物もなにも、そこまでの荷物は船には持ち込んでいないのだが。不思議がりながら、マッシュは挨拶に出てきてくれている仲間達の中から、船首のセッツァーに声を掛けた。なんだかんだ全員をきちんと送迎してくれるのだから、最初から最後まで気前の良い奴だった。
「セッツァー、少し良いか?」
「なんだ。湿気たツラして……」
傷跡を歪めて、セッツァーは眉を寄せる。うん、とマッシュは答えた。
「全員送り終えたら最後、またフィガロに来てくれないか?」
「……それは構わんが。忘れ物の確認なら早めにしといた方がいいんじゃないか?」
「忘れ物?」
つ、とセッツァーの視線が飛空艇に向けられる。みんなして忘れ物を気にしすぎじゃないのか、と思ったところで、兄が飛空艇から姿を見せた。
「……お。兄貴、忘れ物は……」
見つかったのかい、と声を掛けようとして、マッシュは言葉を失った。兄が手を引いているその人は、どうしたってこの場に現れることはないと思っていた。
セリス、と二度と口にはしないと思っていたその名を、つい漏らしてしまう。遠くからでも泣き腫らした目元がよく見えた。だがセリスはこちらを見ない。
「ほうら。ちゃんと確認しとけよ」
背中を平手でセッツァーに叩かれて、しかしマッシュの身体は微動だにしない。動くことができなかった。兄が何を言って彼女をここに連れ出したかは定かでないが、とにかく。
「……セリス!!」
思わず叫び、気付けば駆け出していた。びくりと目に見えて怯えた様子の彼女を、しかし兄が押し留める。
「あ、……」
兄に隠れるように一歩下がり、セリスは俯いた。その手を躊躇いなく掴み、多少強引でも構わないと、引っ張り寄せる。
「行くな!」
「きゃっ、」
それだけ言って、マッシュは必死に、セリスを腕にかき抱いて、閉じ込めた。仕方がなかった。一人で行かせるわけには決していかない。
「……行かないでくれ」
頑なにその場から動こうとしないその身体を、なんとか己に引き寄せようと、強く、強く、抱きしめる。
「俺が悪かった。……一人でなんて行くな」
「え、…………」
セリスは驚いているのか、言葉が出ないらしかった。兄と何を話してきたのかなんて、この際もうどうだっていい。この腕の中に、今、セリスがいる。それが少し早まっただけのことだ。
セリス、と小さく呼ぶと、揺れる青の瞳が、マッシュを見つめた。その目は、何かを恐れているように見えた。
「……セリスが何をどう思ってたって、構わない。ただ、一人では行かせない。行かせたくないんだ。だからセリスがそんなこと考えるくらいなら、俺がここで止める。……ごめん」
それもまた、彼女を苦しめることだろう。それでも、一人にさせるよりよっぽどましだと思った。
「……どうして、」
「えっ?」
「どうして、謝るの……わたしが、」
私が、と言いながら、セリスは縋るようにマッシュに身体を預けてくる。
「私が、ちゃんと貴方に、言わなかったから……あなたを苦しめたのに……」
「? 何を……」
委ねられた重みにわずかに安堵しつつも、彼女の口から続く言葉が、もしかしたら聞きたくない事実なのかもしれないと、マッシュは思わず唇を噛んだ。それはあの時の本当の答えではないかと。
「……いいや、俺がこうやって、セリスの手を引けば良かったんだ。苦しめたのは俺の方だ」
迷う彼女に、何も言葉を掛けてやれなかった。それをマッシュはただ、詫びた。だが、セリスは額をマッシュに擦り付けるようにして、それを否定する。
「……違う、私が……」
愛してるって、言わなかったから。途切れ途切れに、けれどはっきりと、それはマッシュの耳に届いていた。
誰を?
咄嗟に頭に浮かんでくるその疑問を、しかしマッシュは飲み込んだ。今更聞いてどうなる、と。誰であろうと構わないという覚悟なら、もう出来ているのだから。
背中にしがみつくように回された腕からは、拒絶の意志は感じられない。それだけがいま、真実であれば、それでいいと思った。マッシュはじっと黙って、セリスの髪に顔を埋めた。
エドガーに背中を押されて、せめて最後の挨拶だけでも、と思ったのも束の間。逃げ出す暇もない速さでマッシュに捕まって、そのままひどく必死な声色で、行くなと懇願されて。セリスはようやく、またしても彼を傷付ける選択を自分が取ろうとしていたことを知った。
情けなさで言葉にならず、ただ震える身体すらも、マッシュが難なく抱きしめ続けてくれた。その熱に浮かされるように、思わずしがみついてしまう己の反応が、もう全てだった。どれだけの嘘で心を固めても、熱に溶かされるように簡単に暴かれてしまう。
手遅れだと、足元に捨てた言葉を、もう一度拾って。伝えなくてはならない。そうしなければ、彼と一緒にいる資格など自分にはない。セリスは必死に、言葉を紡ぎ直した。
「……私が、……愛してるって、ちゃんと、言わなかったから」
ぎく、とマッシュの身体が固まったのがわかった。それから一層強く抱き寄せられて、それが彼の返事であったらよいのに、と思って、それに応えるように、その大きな背中を抱く。
言葉にして、伝える。あの時、たったそれだけのことができなかった。そして今、これだけ近くにいて、今更何を恐れることがあるのだろう。セリスはもう一度、唇を開く。
「……貴方だけ。……貴方だけを、ずっと、愛してるって、」
「えっ」
がばりと頭をもたげて、マッシュは綺麗な青の目をぱちぱちと瞬かせる。
「俺?」
「……えっ? う、うん」
「そ、……そっかぁ~……そうかぁ……」
つい気圧されてセリスも瞬いて応えると、マッシュはぽかんとした表情を浮かべた後、脱力したように肩を落として、セリスの背中を確かめるように撫でた。そうして綻ぶようにようやく笑った彼の顔を見て、ああ、これが唯一の正解だったのかと、セリスは納得した。
「……やれやれ。で? 話の決着はついたのか?」
いつからそこで見ていたのか、セッツァーがすぐ傍でそうぼやいて、セリスは弾かれたようにそちらを見た。
「あ、え、えっと」
「ああ。忘れ物は無しだ、全部持っていく」
忘れ物? と思ったのとほぼ同時に、足元をさらわれて、突然の浮遊感に慌ててマッシュにしがみつく。抱き上げられたと理解できてから、セリスは身体を硬直させた。
「えっ、……ま、マッシュ?」
呆然とその表情を見上げると、ふわりと優しく微笑まれる。
「大丈夫、落としたりしない。……俺と一緒に、来てくれるよな?」
細められた青い瞳は、真っ直ぐにセリスだけを見つめている。差し出された手を、離さなくていいというのなら。ただただ胸が苦しくて、セリスは思わずマッシュの首に抱きついた。
「さあて。じゃあ、最後にフィガロに寄るって話も要らなくなったようだな。……ほら、次が待ってるんだ、用が済んだら早く行きな」
パンパン、と手を叩き、セッツァーが肩を竦める。そしてセリスの頭を無遠慮にくしゃりと撫でると、口角だけを上げて笑いかけてくれた。それは祝いに見えて、セリスは小さく頷きを返す。
「待たせてすまん。……ありがとな、セッツァー」
「待ったのは俺じゃない。……二度と忘れていくんじゃねえぞ」 セッツァーは容赦なくマッシュの背中を叩き、そのまま船の奥に立ち去っていった。
「さて。それじゃあフィガロに帰るか、マッシュ。……それに、セリスも」
一部始終を黙って見ているだけだったエドガーが、ようやくにこにことして声を掛けてきた。エドガーはセリスを、或いは自身の弟を見て、嬉しそうに笑っている。見送りだけ、笑わなくても構わない、だなんて、とんだ大嘘になった。だが、たった一つ頼まれた、彼の兄としてのお願いだけは、きっと叶えてあげようと、セリスは思った。
「……マッシュ、」
「うん? どうした?」
己を抱き上げるその人を、つと見上げる。眩しさで心が焼かれるように痛い。それでも、こうして傍にいて良いと許されて、彼が笑っていてくれるということが、こんなにも嬉しい。
「自分で、……隣を歩いていくわ。だから降ろしてくれて大丈夫」
マッシュは数度瞬いてから、どうしようもなさそうなほど嬉しそうに、笑った。これから、こんな表情だけを彼がしていけますように。そう願って、セリスもまた、笑った。
この日のことは、かつての仲間達がフィガロに訪れる度に思い出されて、それに二人が困った風に笑うというのがお馴染みの光景というのは、誰もがよく知るお話しである。
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