今でも鮮明に思い出す一瞬がある。荒廃した世界では珍しいと、何気なく差し出した小さな花を見て、ありがとう、とゆっくり微笑んだ彼女の、その表情に。ころりと自分の何かが落ちた音がした、その一瞬を。
破壊神として君臨しようとした元帝国魔導士ケフカを討ち果たしてから、世界は急速に復興を遂げていた。
マッシュの祖国フィガロでは、ようやく機械製品の生産が復活し、各地の復興のため国王である兄エドガーを筆頭としてあらゆる事業に尽力していた。マッシュもまた、王室を去った身でありながらも、兄に代わって国のために働ける唯一の立場として、しばらくは城に残り、兄の片腕としてあらゆる政務に奔走していた。鍛えた身体の体力に助けられ、ほぼ休みもないまま時間ばかりが過ぎていくような、慌ただしい、けれども何より民たちの為になる、充実した毎日だった。
そして、かつての打倒ケフカの旅の仲間で、フィガロに身を寄せて復興に尽力してくれている者はもう一人いる。元帝国将軍のセリスだった。彼女にはもう身寄りがないこともあったが、幼い頃から高等な学びを受けており、これからの国政に有用な力を持っていた。そのため、僅かな期間でも構わないからと、兄とマッシュでフィガロに誘ったところ、謙遜しながらも快諾してくれたという経緯だった。
かつての身分や出身は公にはしないまま、ばあやの親戚筋ということで城仕えをしてもらっており、マッシュとは二日に一度は顔を合わせるほど、よく仕事を共にしている。期待した通り、セリスは渡された仕事をうまく捌いており、最初こそわからない事を尋ねるのを躊躇していたが、少しずつ確認や質問を重ねるようになり、さらに仕事の質が上がってきているようだった。
「あっ、マッシュ? お疲れ様」
夕方頃、西塔の廊下で彼女の声が聞こえてきた。思わず慌ててそちらを振り向くと、セリスがこちらに駆け寄ってきていた。きらきらと西日に照らされる金の髪が、目に染みるように美しかった。仕事中は常に、その長い髪をティナのように後ろでひと纏めにしていて、今ではこちらの方が見慣れているまである。
「おう。セリスこそお疲れさん、仕事終わりか?」
マッシュが手を上げて応えると、セリスはそれに嬉しそうに笑ったが、こちらの周囲に衛兵や事務官がいるのを目に止めると、途端に駆け寄る足を止め、姿勢を正して頭を下げてみせた。
「失礼いたしました、殿下……」
動作は品が良く、だからこそばあやの親戚と言っても疑われていないのだろうなと思う反面、彼女の幼い頃の日常が垣間見えて、どこか物悲しい気持ちにもなる。
「ああ、……先に行っていてくれ。俺は彼女と話があるから」
事務官たちを先に向かわせて、なんとか二人の場を作り出すと、ようやくセリスは頭を上げて、マッシュを再び見つめてくれた。
「ごめんなさい、つい話しかけてしまって……」
「いや、今日は会えてなかったしな。声を聞けて嬉しいよ」
マッシュが素直にそう言うと、セリスは困ったような表情をして、小さく頷いた。
「……それなら、私もそう。なら良かった」
その意地らしい仕草に、マッシュは返す言葉がなくなる。お互い多忙なので、二人きりの時間など久しく取れていないが、もしかしたら、セリスもまた、それを寂しいと思ってくれているのかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられる思いだった。
「……ええと。私は、あとはこれを届けたら今日はお終いにしようかと思って」
「ああ、大臣のところ宛のやつだな。それなら丁度いい、今から行くところだったんだ。ついでに持っていくぜ」
貸しな、と手を出すと、おずおずと伸びてくる白い腕がやたらと愛おしいなと思いつつ、マッシュはしっかりと書類を受け取った。
「……ありがとう、助かります、殿下」
少しふざけてそう言って、セリスはくすくすと笑う。
「とんでもありません、お嬢さん」
マッシュもふざけてそう返すと、セリスは声を上げて笑った。鈴のように笑う彼女を見ていると、安心した。頼めばやってくれるからと、頼れる者も少ないだろうに山のように仕事をさせてしまっている自覚はあって、軍人時代の、努めて冷静に、有能にあろうとする彼女を無理やり引き出してしまってはいないだろうかと、不安になる時があった。だが、少なくとも、自分とはこうして屈託なく話し、笑ってくれるのだから、と。
「他に困ってることはないか? 俺にできることならなんでも言ってくれよ」
「いつも確認してくれるけれど……大丈夫よ。みんな良くしてくれているから」
セリスの表情からして、それは嘘ではないとは思うのだった。が、やはり心配はある。
フィガロの女性が日常的に着ている質素なワンピースを着ても、セリスの美しさは欠片も失われることはない。言い寄る者も多くいると聞いていた。優しくしてもらっているからといって、安心できるものでもない、というのは、勝手が過ぎるか。 彼女が安らいで過ごせるならば、それに勝るものはない。 「そうか……でも、例えば、たまには休みを取って街とか行って過ごすのもいいんじゃないか? 城んなかだと息が詰まるだろ」
「そんなことはないけれど……」
慌てて両手を振って否定しつつ、セリスはふと、窓辺に目をやった。その先に何があるだろうかと無意識に追いかけてみる。
小さな一輪挿しの花瓶だった。だが、花瓶だけであり、花はない。花など育てている暇があるなら、農家たちは皆、野菜や穀物を育てているからだ。
「……森に花を採りにいけたら良いかな、とは、少し思うかしら。……花があったら、もう少し、皆の気持ちも和らぐのかもしれないと思って」
不意に、いつか、彼女に小さな花を手渡した時の情景が、目の裏に浮かんだ。そうか、セリスは花が好きだったのか、とようやく腑に落ちた。好きなものを見た時、あの表情をするのだ。マッシュの心を撃ち落とした、あの表情を。
「ああ、……フィガロじゃあ花は高級品だからな。言われてみると、久しく生花は見てないな」
「でしょう? 花の香りも、きっと気分転換に良いと思うの」
「名案だな。……休みのことは当然言っておくけど、城中に花を飾ったらってのも、兄貴にも相談しておくよ」
「ありがとう。近場で摘んでこれるなら費用も要らないとは思うから……よろしく頼むわ」
「ああ。あと、もし……都合が合えばだけど、」
言いかけて躊躇したマッシュの顔を、きょとんとして見上げるセリスの年相応な振る舞いにどきりとしつつ、ひとつ咳払いして、マッシュは言葉を繋ぐ。
「俺も一緒に行っていいかな。久しく山にも行けてねえから……ちょっと息抜きにさ」
「えっ、本当? ……」
セリスは途端に目を見開いて、自身の胸に手を当てた。
「嬉しい、だって、……その。それならたくさん花を摘んでこれるし……」
「おう。任せてくれ」
景気よく返すと、セリスは嬉しそうに肩を揺らす。そんなにも行きたかったのか、と思うと、かわいらしいやら、申し訳ないやら、複雑になる。
「そうだな……休暇が難しければいっそ、仕事ってことで時間をもらえばいいかもな。まあ、日取りがわかったら連絡するよ」
「私はなんでも気にしないわ。ありがとう」
じゃあ、と別れようとして、あっ、とセリスが慌てたような声を上げて、思わず立ち止まったのと、セリスがマッシュの袖を取ったのはほとんど同時だった。
「ん? どうした?」
「あ、ええと、……私もこっちに用事があって。途中まで一緒に……」
「ああ、なんだ。それならもちろんお送りしますよ、お嬢さん」
「そこはエドガーはレディって言うんじゃない?」
「確かにそうだな。……失礼、レディ」
袖を掴んでいたセリスの白い手をゆるりと取って握り、わざとらしく微笑むと、途端、セリスが顔を背けた。見れば、彼女の指先からじっとり赤くなっている。
「……そういうの、誰彼構わずやるのは、駄目よ」
「ハハ、それじゃ本当に兄貴だろ」
ふざけすぎたか、と思って、握っていた彼女の手を、返すように差し出す。もうっ、と声だけ少し拗ねて、するりと手は逃げていった。
「さ、ふざけてないで、日が沈む前に行くか」
改めてそう言って、マッシュが一歩進んでみせると、セリスは大人しく付いてくる。歩いているうちにぽつぽつと何気ないことを話し、会話は自然と今日の仕事のことやあれやこれやに広がり、別れは一層、惜しくなった。
それじゃあまた、と去っていく彼女の姿を見送りながら、指先から耳先まで赤くなった瞬間の彼女の後ろ姿を思い返しては、マッシュはひとり、長いため息をついた。
じいやに書類を手渡して、マッシュはそのまま国王の私室に向かった。兄は暗くなっても関係なく、働いている。
「兄貴、邪魔するぜ」
「おう、マッシュか。お疲れ様」
「兄貴こそ。まだ長いのか?」
「いや、……この山を片付けたら終わりにするよ」
書類に目を通し、サインを入れ、御璽を押印し、という動作を繰り返している兄の机の傍に立ち、マッシュは呆れた。
「うーん。コルツ山だな」
「そうか? あれはそんなに高い山だったか」
「頂上は雲の上だな。……まあ、終わるまで待ってるよ」
「なんだ? 話なら先に聞くぞ」
ぴたりと筆を止めて、兄がこちらを見上げた。後ろに撫でつけた金の髪も、その目の色も、何もかも、マッシュとよく似通っている。違うのは、その話し方と、雰囲気と、服装くらいなのかもしれないが、それだけでこんなにも異なる人間になるというのも、不思議に思える。
「それじゃあ……セリスのことなんだが」
「おお。ついに進展でも?」
「兄貴……真面目な話をしてるんだが」
「俺も真面目に聞いているんだが……まあ、続けてくれ」
「……彼女、ずっと働き詰めだったからさ。そろそろ休みを取らしてやりたいんだ。代わりの手配を頼みたい」
「ああ、いいぞ。おまえにしてはいい気配りだな」
「それから、これはセリスの提案なんだが……」
マッシュは、花を飾りたいというセリスの案について兄に伝えた。花は買わずとも、摘んでくればいいということも。
ふむ、と兄は顎をさすり、しばらく思案して、こくこくと頷いた。
「いい案じゃないか? なんでも試してくれたらいい。城の中は殺風景になりがちだしな」
「それで、もう一つ頼みがあるんだけど。俺もそれに同行してもいいかい?」
え、と兄は目を見開く。すべてを言わずとも悟られてしまう関係性が少し憎かったが、わざわざ口にする必要がないのは良いことかもしれない。
「わかったわかった。楽しんでこい」
半分は仕事のつもりなのだが、反論せず、マッシュは兄に礼を言った。
代理の手配と諸々の調整がうまくつき、三日後のよく晴れた日に、マッシュは久しぶりに旅装に身を包んだ。そこまで遠出するわけではないが、やはり貴族の服は窮屈だなと思わざるを得ない。
兄が手配してくれたのか、サンドイッチを詰め込んだバスケットをばあやから持たされて、城門前でセリスを待った。ピクニックではないのだが、と思っていると、ブーツの軽い音が響いてきた。
「ごめんなさい、待たせた?」
セリスもまた、久しぶりに見る旅装だった。髪は下ろして、腰のベルトには鞘をつけている。見慣れたその姿に、しかし言いようのない高揚感もある。二人で旅をしたのは、ついこの間だったかのような。
「いんや、大丈夫だ。忘れ物はないか?」
「ええ、大丈夫……あら、そのバスケットは?」
「ばあやが昼飯にってさ。まあ、良いところがあったら落ち着いて食おう」
まあ、とセリスは目を輝かせている。なんだかピクニックみたいね、とはにかむその表情は、言いようもない可愛さだ。城門の兵士たちの視線もまた、彼女に向けられていることに気がつく。
「……まあ時間もないし、行くか」
ぽんぽんと気さくに肩を叩くと、セリスはこくこくと頷いた。
チョコボに騎乗してしばらく北上し、マッシュとセリスは花を求めて手近な森を目指した。世界崩壊の折、気候もめちゃくちゃになってしまったので、もはやどういう花が咲いているのかは皆目検討はつかない。
「まあ、着いてからのお楽しみってことで、それはそれで楽しいよな」
「ええ。私、実は帝国で少し植物についてはシドに学んだことがあって……ほんの少しだけど種類には詳しいの」
「そうだったのか。植物が好きなのか?」
「そうね、……似合わないから、あまり言ったことはないんだけど」
「そんなことない。良い趣味だよ」
褒めると、セリスは困った顔をすることが多かった。仕方なしに、マッシュは話を逸らす。
「俺も食える草と食えない草には詳しいぜ」
「山ごもりの知恵かしら?」
「そうだな。だから万が一、遭難したときにもなんとかなるぜ」
「じゃあ、山にはマッシュと来れば安心ね」
「おう。いつでも……誘ってくれ」
自分以外とはできれば行かないでくれとはさすがに言えず、マッシュはそのまま、押し黙った。
「……ああ、見て。青と白の……綺麗な花畑があそこにある」
「ん? ああ……本当だ。なんだろうな?」
「行ってみましょう」
チョコボの手綱を握り、見えた花畑に向かう。近づくと、一面咲き誇る小さな花々に、思わず感嘆した。
「……素敵」
「だな。……いきなり当たりだ。これはなんて花だろう」
「そうね、……ネモフィラに似ているかも」
「へえ……そうなのか……小さいけど、一生懸命で、…圧倒されるパワーがあるなぁ」
風に揺れる白と青の花弁が、あたりを明るくさせているようにも見える。あれだけ破壊されようと、こんなにも世界は、力強い。
「この辺りから、歩いて花を探していきましょうか」
チョコボを近くの木に停めて、改めて花畑に向かう。風にそよぐ花たちに寄り添って、セリスがその場にしゃがみ込んだ。
「香りは……そんなにではないかも。持って帰って飾るには惜しいかもしれないわね」
「そうか。でもみんなにも見てほしいんだけどなあ……土ごと少し掘って持ち帰って、中庭に埋めるってのはどうだ?」
「そうね……この後、種ができるかもしれないし、丸ごと持ち帰るのが確実かもしれないわ」
セリスは小さなスコップを取り出すと、どこか手慣れた手つきで、葉や根を傷つけないよう、ざくりと花を採取し、保存用のケースに入れた。
「窮屈だけど、少し我慢してね」
小さな花に話しかけるセリスに、マッシュは言いようもなく、むず痒くなる。戦いになればあんなにも冷静で苛烈になる彼女に、こんな一面があろうとは、きっと誰も知らなかった。
「こんなに咲き誇ってる状態は、ここに来ないと見られないかもしれないな」
「そうね……城に植えてもらっても、砂漠の真ん中では根付かないかもしれないし」
「ま、場所は覚えたし、また見に来たらいいさ」
呑気にそう言うと、セリスはくすくすと笑って頷いた。
「ところで……もう少し奥も探索してみたいけど、ここは景色がとてもいいから、せっかくだし……」
セリスは悪戯っぽく、マッシュの持つバスケットを指さしてからちらりと見上げる。
「早過ぎるかしら?」
「いんや。俺は大賛成」
マッシュは自身の腹を擦りながら、にっかり笑ってそれに応えた。途端、花咲く彼女の笑顔に、マッシュはまたしても言葉を失う。
ごめんなさいね、と言いながら花畑のど真ん中に身体を預けて、子どものように笑うセリスのその隣に、マッシュも腰を下ろした。そして、二重の意味で、ここでしか見られない良い景色だな、と思う。
「……ずっと砂漠にいたから、本当に新鮮! こんなに緑の香りがするなんて」
「そうか。もっと早くこうして来れたら良かったな、だいぶ肩が凝ったろ。いつもありがとうな……ああ、別に、砂漠が嫌だとか思ってるわけじゃないのはわかってるから」
先んじてそう言って、マッシュはてきぱきとバスケットを開けて大判のハンカチを広げ、サンドイッチをセリスの前に並べた。
「おっ、ファラフェルサンドだな」
香辛料を多めに使った豆の揚げ物を、パン生地に挟んだもので、フィガロではポピュラーに持ち歩いて食べる料理だが、帝国などで食べられているサンドイッチとは見た目が少し異なる。セリスにはあまり馴染みがないかもしれないとちらと窺ったが、どうやら初めて見るわけでもなさそうだった。
「食べたことはあるかい? 俺は結構好きなんだが……」
「ええ、よくお昼にいただいてるわ」
「苦手とかでは……」
サンドを差し出しつつ、つい念入りに問うと、セリスは吹き出すように笑って、受け取った。
「心配しすぎよ。大丈夫、ちゃんと美味しいと思ってるから」
旅の中で色々な物を食べている姿も見ているので、食べられないことはないのだろうが、食生活に馴染めていない可能性は考えたことがなかった。ついフィガロという自身の祖国にいる安心感に浸ってしまっている自分を、マッシュは恥じた。だが、実際セリスが無理を言っている風ではなさそうではあったので、気を取り直して、マッシュは先にサンドにかぶり付く。城にいると兄の食事に併せて毒見を待つばっかりに加え、こうした庶民的な料理は出ないので、兄には悪いが、やはり制限のない食事は嬉しい。サクサクとした揚げ衣は香ばしく、スパイスがぴりりと刺激的に鼻を抜ける。パンに絡んだソースもまた、旨味があってたまらない。
「うーん、うまい!」
ひとつ、ふたつと食べていると、セリスがもぐもぐと頬を膨らませながらこちらを見ていた。
「うん?」
「……マッシュが一番嬉しそうだわ、今日」
「えっ?」
「働き詰めなのはお互いそうだったし……いい息抜きになっているのなら良かった」
心底安堵したようにセリスが微笑むので、マッシュはつい、咳き込んだふりをして目を逸らした。
「俺は、その……」
「そういえば、マッシュとこんな風に食事をするのもなんだか久しぶりね」
セリスは両手で大事そうにサンドを頬張りながら、そう言う。
「だなあ……城の中が窮屈なのは、やっぱり俺なのかもしれねぇ。皆、良くしてくれてるのに……申し訳ないけどよ」
「そんなことはないわ……きっと皆もわかってると思う、マッシュが外に出て行きたいのを我慢して働いてくれているのは……」
「……そうかな。俺は幸せ者だな」
帰る場所があり、受け入れてくれる人達がいて、そしてそれを大切な人が、傍で知っていてくれている。
「……マッシュは、フィガロが落ち着いたらまた修行に?」
「え? ああ……そうだなぁ。跡継ぎ問題の火種にならないうちに、城とは距離を置かないととは思ってる」
「そう。……」
もく、もく、とセリスの口の動きが緩慢になっていく。なにかひどく考えているように見えて、つい、マッシュはその横顔を覗き込んだ。
「……セリス?」
問うと、セリスはちらりとこちらを僅かに見て、こくりと一度飲み込んだ。
「……なんでもない。私はどうしようかなと思って……」
「そりゃあ、ずっとフィガロにいてくれたら、俺は…、嬉しいけど」
「そんなの……貴方のいないフィガロ城で働き続けたって、……」
え、とマッシュは思わず固まる。セリスもその反応を見て、目を丸くして固まっていた。
「あ、……違うの、別に不満とかがあるわけじゃ……」
誤解を恐れて言葉を重ねるセリスに、そこではないだろうとマッシュは心底思った。ということは、自身の解釈は誤解ではないということになる。
「……もしかして、その。俺がいるからフィガロ城にいてくれてるってことか?」
え、と今度はセリスが真っ赤になって、硬直した。冷静な彼女が、行くか戻るかの判断に迷う姿は貴重だろう。その狼狽え様に、マッシュもなんとなく赤面してしまう。そんなにもか、と。
「えっと、その……」
「俺は、国の為にセリスを呼んだ気持ちは勿論あるけど……本当は、」
一番は、好きなひとに傍にいてほしいからと、利己的なものがあったことは否めなかった。僅かな期間でももう少し、共にいられたら、と。
「……本当は、こういう時間が、もっと欲しくてさ」
何気なく差し出した花に、無邪気に笑うセリスを、もっと見てみたかった。なんの気負いもなく、ただこの景色と場を楽しんでは笑うセリスを、一番近くで見つめることを許されたなら。
マッシュはひと息吐いてから、セリスの青い目を見つめ直した。
「だから、……俺は、この先どうなろうと、セリスと一緒にいたいと思ってる。……もし同じ気持ちでいてくれているなら、嬉しいと思う」
セリスは身体を強張らせたまま、マッシュをじっと見つめている。揺れるその瞳が、すべてを物語っている気がした。彼女がこんなにも、感情を顕にすることはそうそうありはしない。気が急いて、セリスの腕を取ろうと伸ばした手は、しかし彼女の言葉に止められる。
「……ありがとう、その……でも、マッシュは……ずっとフィガロ城にはいられない、のよね」
「ああ、そうだな。それでも……」
「……私、私ね、」
努めて明るい声色で、セリスは遠くに視線を向けた。
「フィガロ城が好き。皆優しくて、私を必要としてくれる。……出自は嘘をついているけれど……でも、出来るだけ皆の力になりたいと思ってる」
大切なの、と今にも泣き出しそうな表情で、セリスが呟く。
「貴方も、皆も、どっちも。……どうしたらいいの? 私には、……決められない……」
「セリス……」
マッシュは、自身の考えの浅さに、己を呪った。セリスがフィガロを好きではなくて、嫌嫌ここにいてくれているとしたら、きっと、いつかはここを去ってしまうのだろうと、そればかり考えていた。だが、彼女は既に、フィガロを愛してくれている。偽りの出自に苦悩するくらいに。
よかれと思って考えてきたことすべて、裏目に出て彼女を悩ませただけなのではないかと。ようやく、マッシュはそのことに、思い至った。膝を抱いて縮こまろうとする彼女を、思わず引き止めるように抱き寄せる。庇うように、覆うように抱きしめた。
「ごめん。……俺が……考え足らずで……」
「あ、……ごめんなさい、そんな……すぐの話じゃないのに、……急に喚いてしまって」
腕の中で慌てて明るい声色で返そうとしてくるセリスを、もう一度強く、抱き寄せる。
「セリスは悪くない、ただ俺が悪かった。……もう少し、こうしていてもいいか……?」
「あ、えっと……」
こくこく、と小刻みに振られた首に安堵して、マッシュはセリスの真後ろに身体をずらして、がちりとその全身を抱き留めた。ふわりとその美しい髪から香るのは、セリスが気に入っている花の香油だろう。
「ま、マッシュ……」
「……俺は、祖国の為に力を尽くせて、好きなひとが傍にいてくれて、その人は俺のことを大切だと言ってくれる。……俺ばっかりが幸せなんだ。申し訳ないくらいに」
えっ、とセリスの耳が途端に真っ赤になり、身体がまたもや硬直する。何度うぶな反応をしてくれるのだろうか。たまらなく愛おしく、抱き寄せる腕には力ばかり入ってしまう。こうして彼女を堂々と抱いたのは初めてのことだったが、あまりの高ぶりに、胸が弾けそうになった。
「……俺の勝手で、無理にフィガロに連れてきてしまったと、ずっと思っていた」
「そんな……私だって……」
セリスの細く白い指先が、マッシュの手のひらをするすると撫でる。
「あの時は……呼んでくれて嬉しかった。なにより……またマッシュの傍にいてもいいのかもしれないと思って……そんな自分勝手な理由でここに来ただけだった」
「随分嬉しいことを言ってくれるなぁ」
近寄ってきたセリスの手のひらを、噛みつくように握り、捕まえる。二度と離したくない。セリスは珍しく、少し手汗をかいているようだった。緊張しているらしい。よしよし、とあやすように身体を撫でてやりつつ、その首元に鼻先を近づけた。こんなにも間近にあって、このかぐわしい香りに誘われない者など、いるだろうか。
「俺も同じだ。ただセリスと近くにいられたらと……」
「……マッシュ、……あっ」
唇が首筋に触れた、そのわずかな衝撃に耐えられなかったようで、セリスがびくりと身体を震わせた。
「今はもう少し、……こうやって触れたりしたい気持ちもあるけどな」
「え、えっと……」
途端にぎゅうと縮こまったセリスを、マッシュはただ抱き寄せるに留めた。そこまで節操なしではない。
「……二十年前のフィガロは、兄貴と俺と、後継者問題で色々と騒ぎがあってな。人が死ぬようなことも何度かあった。……あんなことは二度とあってはならないと、俺は思う。だから、俺はやっぱり王位が見えるところに居られない。王室を出たとは言え、血は嘘をつけない……いくらでも俺を利用しようとする勢力は出てくるだろう」
今はまだフィガロは、とにかく復興に邁進していさえすれば、経済的にも豊かになっていける。だがこれから平和になり、落ち着いて来た頃には、これからの生活をどう守り紡いでいくべきなのか、政治的な話が盛んになっていくだろう。その時、かつて王位継承権を持っていた男は、国の舵を好きに切りたい者たちにどう映るか。
「俺は兄貴を支えたい。だが傍にいてはそれが叶わない時が、やがて来ると思うんだ。だから、どういう形であれ、城からは去ることになると思ってる」
「……ええ、……言いたいことは痛いほど、わかる」
「セリスは今の生活を結構、好きになってくれていたんだな。俺も、兄貴の傍にいられて、セリスの傍にいられる今は、本当に幸せさ。できればずっとこうしていたい」
城の仕事をして、皆と笑い合って、そして時々はこうして二人きりで過ごせれば、どんなにいいか。だがそれが叶うとは到底、マッシュには思えなかった。最悪の場合、愛している人間をまた、すべて失うことになりはしないかと。恐れてもいた。政治的な作為は恐ろしく、物理的な守りを一切すり抜けていく。軍隊を差し向けられるくらいなら、きっと兄もセリスのことも守り切れる。だが、人心掌握による裏切りや、毒は、防げないのだ。
「俺のせいで兄貴やセリスに危険が及ぶのは避けたい。……けどそれと同じくらい、セリスの願いも叶えてやりたい」
セリスはフィガロでようやく、心を落ち着ける場所を得られたと思ってくれた。それを奪ってまで、自身と共に遠くへ行こうなどと、決して言えない。
とはいえ、セリスと離れて過ごし、時々会うだけなど、堪えられるとは思えない。そんな風に離れているしかないのなら、この美しいひとは、新しい誰かと幸せになるべきだ。だがそれを許せる己をマッシュは持ち得ていなかった。
「……もう少し、時間をくれないか。兄貴にも相談してみるから」
「ありがとう。……あの、マッシュ、」
「おう?」
セリスが無理に身を拗らせて、こちらを見つめてくる。真っ赤な顔は予想通りだが、潤んだ瞳は反則技の威力があった。
「……いつもありがとう。……だ、いすきよ」
マッシュは思わず、噎せた。
「あの……ちゃんと言ってなかったから……え? 違った……?」
「違わない! 俺も大好きだ、いや、愛してる」
勢いのまま返事して、マッシュは遮二無二、胸板に押し付けるようにセリスを抱き寄せた。遠くからチョコボたちが祝うように鳴いている声が聞こえたような気がした。あるいは、あらゆる音や、風景や、吹いていく風が、自分たちを祝福しているように感じた。
見つけたいくつかの花々を手折り、濡らした綿で切り傷を包むことで、なんとか城まで持ち帰ることができた。中でもヤマユリと、モッコウバラはいかにも美しく、花瓶に挿せば目に映えるに違いなかった。
一羽のチョコボに荷物を括り付け、もう一羽に二人で跨り、帰路についた。腕に閉じ込めるように前に乗せたセリスとの距離は、行きの時とは同じではない。同じである必要もなかった。
「殿下、セリス様。おかえりなさいませ。これはこれは……花畑をお持ち帰りなさったのですね!」
すっかり日が暮れてしまって、薄暗闇のなかチョコボ舎に辿り着くと、係の兵が歓声をあげた。
「おーいみんな! 殿下とセリス様のお土産だ。お運びしてくれ!」
あっという間にメイドから兵からが十数人集まると、きゃいきゃいと騒ぎながら荷解きをしてくれて、花を抱えて立ち去っていく。
「皆、喜んでくれたな」
「ええ! 良かった……」
花も生物なので、とにかくいち早く扱ってくれるのはありがたい。マッシュはそれを見送りつつ、先に鞍から降り立って、残るセリスに両腕を差し出した。が、既にセリスは華麗にひらりと降り立っていて、きょとんとしてマッシュを見上げて、はっとした。
「あ、……ごめんなさい、つい……」
「いや……流石の身のこなし」
ひとり浮かれて恥ずかしく、マッシュは腕をするりと下ろしながら、ひっそり唇を噛む。チョコボを預けて、騎乗用の装備を解いていると、数人の護衛を引き連れて、ばあやがゆったりと現れた。
「マッシュ。セリスさん、おかえりなさい」
「ああ、ばあや。ただいま、城に変わりはなかったかい?」
「ええ、何も心配は要りませんよ。貴方達が持ち帰ってくれた花たちをどう飾ろうかとメイドたちが大騒ぎになっているくらいです」
「そんなに喜んでくれると、さすがに嬉しいな。まあセリスのアイデアだし、花もセリスの目利きだけど」
「まあ、そうなのですか? 随分切り方も上手でらして……素晴らしいですわ」
「……い、いえ、そんな。……」
慌てて両手を振って困っているようだったが、とはいえこれはセリスの勲章に違いない。助けを求めるように視線を向けられて、マッシュはにっかりと笑った。
「だよな。他の植物にも詳しくてさ。俺も誇らしいよ」
「ま、マッシュ……」
意地悪されたような顔を浮かべたセリスの肩を思わず抱き寄せて宥めると、あら、とばあやが声を上げた。
「マッシュも随分美しい花を持って帰って来ましたわねぇ……」
セリスは赤面して俯いて答えられないでいるので、マッシュは肩をすくめるだけの返事をした。
「さて、長旅でお疲れでしょう、すぐ湯浴みの用意と着替え……それからお食事を用意させますわ。さ、セリス様はこちらに……」
突然に様をつけて呼ばれ、ぎょっとした様子のセリスに、ばあやがくすくすと笑いかける。
「あら……殿下の良き方でございますもの。ぜひ、今宵くらいは素敵な晩餐に……ああ! 陛下か殿下のレディを着飾ってさしあげるのがわたくしの長らくの夢でしたの……ちょうど生花もございますし、とびきりおめかしさせてくださいな」
「張り切ってるなぁばあや……まあ付き合ってやってくれ」
セリスの背中を労るように押しだして苦笑していると、ばあやの鋭い視線がマッシュを射抜く。
「他人事のような顔をしていますけれど……貴方も釣り合うように着替えてもらいますからね、マッシュ」
「ぅえっ?!」
「レディに恥をかかせないでくださいませね。さ!」
セリスが四人ものメイドに囲まれて引きずられていくのを後目に、マッシュもまた、二人のメイドに引っ張られて行くほかは無かった。
「いやぁ……俺には今更こんな服は……動いたら破れちまいそうだよ」
立襟をぎちりと締められて、マッシュは身体を硬直させる。身支度を進めるメイドは淡々と手を動かし続けていた。
「飛んだり跳ねたりなさらなければ大丈夫ですよ。さ、ジャケットを羽織っていただいて……」
白地に金の糸で見事な鳥の刺繍がされたジャケットは、立派な生地も相まってなかなか重みがある。こんなサイズのものが一体なぜ用意されているのだか。
「あら。素敵ですわ、殿下!」
「こんな白い服、汚れるだろすぐ……」
「ですから、外を走り回ったりなさらなければ大丈夫ですよ」
「大体、なんでこんなことに……」
「そんなの、殿下が一番ご存知でございましょう? 陛下も大層お喜びなさってましたよ」
「兄貴の差し金かぁ……」
はあ、とため息をついて諦める他ないと悟る。その様を見て、メイドたちはくすくすと笑った。
「セリス様とは随分想い合ってらっしゃるのに、肝心のところが進まないんですもの。ずっと皆、やきもきしておりましたよ」
「み、皆……?」
「皆です」
断言されて、返す言葉もない。
「誠実でご立派なのに美しい方ですし……殿下がお心を奪われるのも納得のお方ですよねぇ」
心を奪われる、と言われるとひどくドラマチックな聞こえがするが、しかしあの瞬間を思い出すと案外過言ではないのかもしれない。
「お似合いですよ、本当に……いつももう少し身綺麗にしてくだされば、特に……」
「ついでに小言はやめてくれ……」
髪を後ろに撫でつけて、前髪が落ちないようしっかりと固める。髭もすっかり剃られて、随分兄と似た風貌になってしまった。
「……うーん。笑われたら困るなぁ」
「セリス様はそんな方ではございませんよ、さ! いってらっしゃいませ。殿下」
メイドたちに深々と頭を下げられて、マッシュも世話の礼をしてから、セリスの元に向かった。
食事の場には、兄とじいやとばあやが既に着席していた。三人とも普段着より身なりが良い。まったく何の騒ぎなのかと呆れつつ、ニヤニヤと笑う兄の前に座った。テーブルの中心には大きな花瓶が置いてあり、先程マッシュたちが持ち帰った花が豪勢に飾られていた。
「まあ、たまには良いだろう? 美しい花を愛でる会ということで」
「セリスが呆れて帰っちまわないか俺は不安しかないんだが……」
「あからさますぎたのは悪いとは思っているが……ま、タイミングだしな。そこはお前の魅力で留めておけ」
くっく、と兄は喉を鳴らして笑う。明らかに楽しんでいるが、突っ込むと墓穴を掘ることになるのは明白なので、マッシュは押し黙った。
「……お待たせしてすみません」
照れつつと凛とした声が、衣擦れとともに近づいてくる。どきりとしてゆっくり振り向くと、そこには女神もかくやのセリスの姿があった。
胸元の開いた薄水色の美しいドレスに、首元を飾る金細工の花。結い上げた髪に散りばめられた生き生きとした花々、紅く色づいた唇。恥じらって赤面するその様は、言いようがないほどだ。マッシュはほとんど無意識で立ち上がると、その傍らに寄り添って手を取った。
「あ、……」
「綺麗だ。……こんなに美しい人は見たことないな……」
これが自身の想い人かと思うと、一周してひどく感動した。攫ってしまいたくなる、そんな気持ちもわからなくないかもしれない。
「……マッシュも、今日は一段と素敵ね」
「お、ありがとうな。釣り合うようにって言われたんだが……こりゃどう考えても無理だぜ」
誰がセリスの横に並んだとて、女神とそれに付き添う従者にしか見えないだろう。だが、マッシュを見上げるセリスの瞳は、どうやらそうでもないようだった。どうやら直視できないらしく、何度か瞬きに併せてマッシュを見ているようだ。
「貴方がいつもそういう風にしてたら、私、気が気じゃなくなるかもしれない」
「それは俺のセリフなんだけどな……?」
セリスは自分の美醜そのものには興味は薄いようだったので、仕方がないとは思いつつ。マッシュは彼女の手を優しく引いた。
「さあ、……食事にしましょうか、私のお嬢さん」
「……恥ずかしくて何も言えないわ、それ……」
照れて真っ赤になった彼女をそうそう見せて回りたい気はしないのだが、兄たちに挨拶は欠かせない。
「やあ、セリス。なんて美しさだろうな……隠されていた花を見つけてしまったかのような高揚感があるよ。きっと今頃女神も嫉妬しているはずだね」
「……セリス様、大変お似合いですわ。お花もやはり、生花は違いますわねぇ……たくさん持ち帰ってきていただきありがとうございます」
ペラペラと賛辞する兄はとりあえず無視し、ばあやに一礼する。じいやもまた、ぶっきらぼうに似合っていると言ってくれた。
セリスを隣の席に案内し、椅子を引いて座らせる。おどおどしてはいるが、姿勢はシャンとしていて、たたただ美しい。緊張している肩を軽く叩いてから、マッシュも再び席についた。
「突然こんな食事会にしてしまって……驚かれたでしょう、申し訳ございませんわ」
「いえ……このような素敵なお召し物……ありがとうございます。フィガロのドレスは初めて着ました、とても軽くて美しいものですね」
「砂漠は暑いですからね、どうしても通気性が大事になるのです。……これからはもっと着慣れていただけるかと思いますよ。ねえ、殿下?」
「え? お、俺?」
「きちんと晩餐会やパーティに顔を出していただければ、殿下の良き方へこうしたドレスはいくらでも準備いたしますもの」
「い、いやあ……でも、その場に俺がいたら困るだろ?」
「何を言う。女性連れでの参加なら誰の邪魔にもならず、かつ相手にある程度の信頼を持たれつつ話を進めることができる。良い事ずくさ」
「……なんというか、複雑な気持ちだな」
ちら、とセリスを窺う。一目みて、どれほどの人間を魅力するのかわかったものでない。あまり見せたくはない気持ちと、しかしこの美しく気高い人を見てほしい、そういう気持ちがせめぎ合う。パーティなんかに出たい気は一切なかったが、セリスが喜ぶのなら一考かもしれない。
「あとで二人で考えとくよ」
マッシュは濁して、テーブルのパンに手を伸ばした。
初めての食事会ではないものの、ドレス姿に緊張しているセリスは少し食が遅かった。マナー自体は卒がなく、マッシュよりも丁寧なくらいだ。昼間にサンドイッチにかぶり付いていたのも可愛らしかったのだが、こうしたキリリとした姿もまた、なんだか胸を擽るものがある。
「マッシュ。レディをそんなに見つめるものじゃない」
呆れたふうな兄の声に、ハッとなる。
「……そんなに見てたか?」
「男はもっと余裕で構えていたほうがいい、が……まあお前のそういう姿は珍しいからな、面白い。ベタ惚れじゃないか」
「べ、……まあ、そうだな」
今更否定したところで、と思って頷くと、セリスが言いようもない表情をして固まっているのが視界の隅に入る。こういう反応をするところも堪らなく面白いのだが、言うと頬を膨らませて怒ると思うので、マッシュは咳払いするに留めた。
「あの、神官長様。私、これからもいただいた仕事は一生懸命務めるつもりです。引き続き、よろしくお願いいたします」
「ありがとうございます、セリス様。こちらこそ、殿下のこと……よろしくお頼みしましたよ」 「は、はい。必ずお守りいたします……」
「あら。こんな大きな子にそんなことを言ってくださるのはセリス様だけですわ」
ほほ、とばあやは愉快そうに笑う。
「エドガー、貴方も早くそういう方を見つけなさいね」
「おいおい。俺に飛び火させるのはやめてくれよ、セリス」
兄は華麗に微笑んで躱そうとするが、ばあやに捕まってクドクドと説教されはじめては、もう助からない。
「セリス。無視して俺達は食べよう」
「裏切り者め……あとで覚えておけよ」
冗談を言う兄には安心するが、しかし。もしかしたら、とマッシュはふと視線を落とす。
十数年前の国内での権力争いは、帝国の干渉も相俟ってそれは激しかった。その中で命を落とした人々のなかには、親しかった者達もいたのだ。下らない争いに巻き込まれて亡くなってしまった彼らを、いや、あの人を。兄はまだ想っているのもしれない。
「マッシュ。どうかした?」
「ああ、いや。花がいい匂いだなって……」
こちらを窺うセリスににこりと笑ってみせて、マッシュは食器を動かした。
食後、何故かセリスを連れて自室に通されてしまい、ぱたんとドアを閉める直前、メイドに小さくエールを送られてしまったところで、すべてを察した。
「……ほんっとうにすまない。俺が言えたことじゃないが、デリカシーのない連中で……」
「気にしないで。それだけマッシュのことを皆、大切に思っているんだわ。……それに、」
セリスは数度マッシュを見上げてから、おずおずと身体を寄せてくる。
「……また時間が取れて、私も嬉しい」
「それは……勿論。俺もだ」
陶器のような頬に指先で触れて、その細い腰を抱き寄せる。よくコルセットで締められているのだろう、その美しい曲線はつい撫でたくなる。セリスは両腕を背中にゆるゆると回してきて、きゅうと抱きついてきた。
「……マッシュ、たまにこういう格好すると……やっぱりその、かっこいいのね」
「えっ? それは……セリスの方だろ。本当によく似合ってるし……綺麗だ。ずっと見ていたいくらい」
じわじわと赤く染まりつつあるうなじを撫でつけると、びくりと彼女の身体が震えた。本当にずっと見ていたい程に、セリスのドレス姿は美しかった。全体的に控えめな装飾ではあるが、繊細な花柄のレースがよく似合う。
「さっき、ばあやがたまにパーティなんかに出ればって話だったけど、どうだ? 俺はそういう場自体があまり好きじゃないけどよ……またこういうセリスが見られるのは、いいなって思う」
「ありがとう、でも……綺麗にした貴方がこんなにかっこいいだなんて、皆にばれてしまうのはちょっと嫌かもしれない」
セリスは顔を上げて、マッシュの頬に片手を添えた。うっとりするように見られても、何も出てこないのだが。
「一応言っておくけど……俺はフィガロの淑女好みじゃないぜ。そういう心配は全然、というか悲しいくらい要らないんだ。……むしろセリスは、髪も綺麗だし、目も海みたいな青で……肌もこんな、白磁みたいだろ。俺は心配だなあ……」
「……心を動かされたりしないわ、貴方以外には」
たまらず、マッシュはセリスを強く抱き寄せていた。この腕の中にこのまま、閉じ込めていたいほどに愛おしい。
「はあ〜……参ったな、本当に」
「す、すこし苦しいかも……」
「ああ、すまない。つい……」
セリスは普通の女性より背が高く、今日どうやらヒールも高いらしい。マッシュからすればひどく丁度いい高さに彼女はあった。額に軽く口付けて、身体を離してベッドの縁に座るよう、促す。
借りてきた猫のように窮屈そうにしているセリスの横にマッシュも腰を下ろして、セリスの髪に編み込まれた生花を取ってやりつつ、その金髪を撫でた。
「花はこういう使い方もありなんだな。これならメイドたちや姫さん方も喜ぶだろうよ」
「そうね、庭に植えてもし根付いたら、そうやって使ってもらえると嬉しい」
取れた生花をセリスに手渡していくと、まるでブーケを手にしているかのようになってきた。なんて花が似合うひとなのだろうと、マッシュは感慨深かった。
「……あの、ところで……なんだけど」
「おう?」
「その……」
セリスの耳から肩からうなじから、じわじわと赤く染まっていく。
「今夜は、その……」
「おう」
えっと、とセリスは口をぱくぱくさせて、しかし言葉にするのを躊躇している。あまり意地悪しても意味はないので、マッシュは後ろから覆いかぶさるように、彼女を抱きしめた。
「……今夜は、朝までどこにも行かないだろ?」
はく、と息を止めたセリスのうなじに口付けると、まだ慣れないのかびくりと身体が跳ねた。
「マッシュ、……その、私、よく知らなくて」
「大丈夫。痛いことはしない……顔を見せてくれ」
顎を捕えて、ゆっくり顔を近づける。真っ赤な顔に、意志の強そうな青い瞳。その瞳に映っているのは、マッシュ一人だけ。
「セリス、……好きだ。……口付けても?」
まじまじとその顔を見つめながら問うと、セリスは唇を引き結んで頷いた。
「俺しかいないんだ、緊張しなくていいさ」
まず額に、そしてまぶたに。次に頬に。順にそっと口付けて、そして、その赤い唇に。触れるだけのキスだった。なんとなく、兄たちにはここまでは済んでいるだろうという体で扱われていた気もするが、抱きしめる以外は今、こうして初めて彼女にすることだった。
「……大丈夫そうか?」
こくこくと必死に頷くセリスに、胸が締め付けられる。本当に、経験がないのだろう。怖いのもあるだろうに、身を任せてくれている。
「とりあえずはこれ、苦しそうだしな。取っちまうぞ」
腹部のコルセットを締めるサテンのリボンを引っ張り、マッシュははるか昔に受けた教育を思い出していた。まずはレディのドレスを脱がして差し上げるところから、と、やたらとドレスの構造に詳しく躾けられたのが、まさか役に立つとは。顕わになっていく白い身体に何度か見惚れながら、マッシュもまた、窮屈な服を脱ぎ捨てた。
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