惨めな気持ちというのはこんなにも心を蝕むものなのかと、ベッドの上で一人、金の長い髪を散らせてセリスは思った。
既に時刻は夜明けを迎え、ほのかに白んできた空が窓から覗いている。己の愚かさに、涙が出た。どこに向けようもない虚しさに、嗚咽した。
事の発端は、珍しく宿で安酒を振る舞われたことだった。悪酔いしてしまい、セリスは半ば酩酊したまま、旅の仲間であるモンク僧マッシュをベッドに押し倒した。人恋しさがあったことは、認める。したこともない夜の行いへの憧れも、あるにはあった。
男ばかりの軍隊にいて、耳だけはよく情報を拾っていた。だからこそ、相手が男であれば、こちらから肌を見せた時点で断るわけがないだろうとも思っていた。簡単に始められて、男が出せば終わりだろうとも。
同じく酔っていたマッシュは、しかし呆然とした表情でしばしセリスを見つめてから、その身体をそっと押し返した。
「やめとけよ、こんなのは」
マッシュは心底そう言って、薄いシーツをセリスの肩に巻きつけるようにかけた。
「自分を大事にしろ」
ぽんぽんと慰めるように肩を叩かれて、セリスもまた、呆然とした。断られるとは欠片も考えたことがなかった。普段からあれだけセリスのことを気遣ってくれていた姿は、本当に真から親切であって、そういう気はなかったのだと、そう思った。それと同時に、彼にそういう気があってほしかった自分自身がいることに、気がついてしまった。
「……抱いて、くれないの?」
だが、懇願したら、きっと。その優しさに引っかかりはしないだろうか。立ち去ろうとするその逞しく隆起した広い背中に、セリスは投げかけた。
ぴたりと止まって、マッシュは、小さくため息を吐いた。その仕草に、心を握りつぶされたように、苦しくなる。
「経験は?あるのか」
「そんなの……関係ないじゃない」
「答えたくなければ、それでいい。……ただ、初めてがこんななのは、俺はお勧めしないよ」
こんな、とは何を指すのか。酔っていることか、気まぐれにすることか、好き合ってもないことか。セリスは唇を噛んで、それでももう、縋り付くしかなかった。
「マッシュ、……」
シーツを脱ぎ捨て、マッシュの背中に抱きついた。まるで火のように熱いその身体に、わずかにうっとりとする。微動だにしない身体に恐れながら、その首筋に唇を寄せてみる。ぴくりと反応があったことに内心、嬉々としながら、そのまま前に滑り込んで両頬をとらえた。
「それは駄目だ」
セリスの口元を、マッシュの大きな掌が簡単に塞ぐ。マッシュは目を閉じたまま、頑なに口づけは拒んだ。これも、聞いたことがある。商売女と口づけなんてしないよ、と笑っていた兵士がいた。
「……セリス、もうやめとけ」
「そう、……そんなに嫌?」
好きではない女を抱くのは、さすがの男であっても苦痛なのかもしれない。顔を見ないようにすればいけた、ということも聞いたことがあった。自分で言葉にしながらも、胸に鋭利な刃でも刺さったかのような感覚がした。
「それともモンクの戒律?……神が許さない?」
「……そんなにしてみたいのか?」
挑発するように言った途端、マッシュが静かに応えた。何が契機かわからないが、傾いた。返事はしないまま、勝手にマッシュの太い指先に、己のそれを一本一本絡ませていく。あたたかく包まれるような安心感に、はあ、と息が漏れた。
「もっと……」
そのまま手を持ってきて、頬にすり寄せる。じんわりとあたたかくて気持ちが良く、その腕に抱きついた。
もっと、触れて。そう呟くと、観念したように、マッシュは深く息を吐いた。
だが、マッシュは結局、セリスを抱かなかった。身体中を愛撫されて、甘い声を漏らして、歓喜に打ち震えていたのはセリスだけで、マッシュはわずかにも声を漏らさず、笑いもせず、痛みの確認だけをしてセリスの反応を聞き、その大きな両手でもってセリスの身体のすべてに触れた。それだけだった。
荒い息をするセリスの身体を濡らした布でくまなく拭き取ると、マッシュはそのまま部屋から出ていってしまった。
あ然としたが、追いかける気力はなく、セリスはそのまま、眠ってしまった。
翌日も特にマッシュの態度に変わったことはなく、無邪気に笑いかけてくれたことにひどく安堵すると同時に、あれは夢ではなかったろうかとセリスは不安に思った。
マッシュの熱い身体に押しつぶされるように身体中愛撫されて、あんなにも、己が己でなくなりそうな、気がおかしくなりそうな時は他になかった。もっと溶けてしまいたいと、そう思ったあの瞬間は、夢で、二度とないのだろうかと。だが、不意にマッシュの太く節くれ立った男の指先を目に入れてしまって、どきりとした。
あの指先が。あんなにも優しく。
「?セリス、どうかしたか 」
「えっ、いえ……」
まるでなんでもないように体調を気遣われて、セリスは跳び上がりそうになった。そして、すべてがこの気遣いと変わらないのだと思い至って、途端にひどく落ち込んだ。優しさで、この男はどこまでできるのだろう。そういう仄暗い気持ちが芽生えていた。
だからこそ、今度は酒を飲んでいない状態で同じように、マッシュの前に立ってみた。 素面でこんな誘いをするなんて、普通であれば軽蔑する。だがマッシュはまたも、驚いたような顔を浮かばせた。
「……夢じゃないって、教えて」
「忘れた方がいい」
無機質に言い返されて、言葉に詰まる。心はこちらに微塵も向いていないのだと思った。
「……後悔してるから……?」
意を決して尋ねても、答えはなかった。拒否されないことだけを救いに、またマッシュの胸にしなだれかかる。そして、指先に指先を絡めた。
私に触れて、思い出させて。
気がつけば再びベッドの上にセリスは一人、寝転んでいた。
何度か宿泊の度に挑んではみたものの、マッシュは決して、セリスを抱かなかった。口づけも許さなかった。ただ身体中に優しく、ゆっくりと触れるだけ。
その最中は、格別な快楽に溺れる頭の端で、今夜こそはもしかしたら、と高鳴る気持ちがあったが、口づけを許されない時点で、今回もあり得ないのだろうなと突き落とされる。それの繰り返しだった。
こんなに惨めなことが、あるのだろうか。シーツは涙と、セリス一人の汗で濡れていた。
仲間が増えてからは、マッシュだけと時間を過ごすわけにもいかなくなり、無謀なねだりをすることは随分となくなっていた。惨めな気持ちに塗りつぶされていた心は、他の仲間との語らいで少し、持ち直すことができた。だが、時々マッシュの指先に目が行っている自分が恥ずかしかった。もうこんなこと、やめなければならないと、そうわかっているのにも関わらず、目が自然と追ってしまっているのだった。
カイエンやガウとけらけらと屈託なく笑うマッシュを遠くから見て、きっと、マッシュには酷いことをしたのだなと、今更ながら思った。マッシュの人となりからして、好きでもない女を、抱けないだろう。あんなものは、優しさに駄々をこねて、マッシュを良いように使おうとしたのと変わらない。そうわかっていたのに、やめなかった。
申し訳ないと謝りたい気持ちがあったが、今更どの面を下げてそんなことを言えばいい。
忘れた方がいい、というマッシュの言葉が、胸にまだ、突き刺さっていた。
仲間探しは続き、明日は星型の山脈の中心にあるとされる、秘宝が眠る洞窟に向かうことになっていた。リターナーに与した時からずっと、秘宝を探していたロックがそこにいるかもしれない。残るかつての仲間はロックのみだった。
深夜に喉が乾き、セリスが飛空艇のリビングルームにこそりと抜けでると、珍しくそこには人影があった。
「……あ、……」
その広く、逞しい背中。薄手の服では、隆起した筋肉を全く隠せていない。マッシュが珍しく、夜遅くにソファに身体を沈ませている。
二人きりになるのはもうマッシュは嫌だろうと、セリスが踵を返そうとしたとき、足音にマッシュが振り返ってしまい、目が合った。
「セリスか。……」
青い瞳が、物言いたげにこちらをじっと見ている。胸がはち切れそうで、言葉が一瞬、詰まった。
「……ごめんなさい、邪魔をして」
「俺一人の部屋じゃないんだ、邪魔なことは何も……」
「水だけ取ったらすぐ戻るから。……」
マッシュから極力遠くなる道を選んで、水瓶をひとつ掴んで、足早に部屋に戻ろうと、そう思っていた。
「!……あ、」
だが、いつの間にか背後に立っていたマッシュに気がついて、身体が硬直した。
「……すまない、怖がらせるつもりはなくて」
「あ、……ああ、マッシュも水?グラス、取るからちょっと待って……」
慌てて棚に伸ばした手を、掴まれて、そのまま棚のガラスに縫い付けられる。もう片手が腰を包み、後ろから押しつぶすように抱きすくめられた。突然のことに、動揺が隠せなくなる。
「ま、マッシュ、……」
心臓が、ありえないほどうるさくなる。泣きたくなるほど、マッシュの身体は変わらず熱い。
「……!」
密着している腰のあたりに、なにかの感触がする。固く、張っている。そうとわかるのに長くは要らなかった。今まではどうだったのだろうか、と思い返してみたが、マッシュの下半身とこんなにも接近したことがなく、わからない。
そうっと、後ろを、振り向いてみる。
「……セリス」
至近距離にマッシュの精悍な顔があり、名を呼ばれて、セリスは一気に顔が発火した。何が起きているか頭が追いついていなかったが、期待に、心が膨れ上がる。
マッシュの顔が、近づいてくる。何が契機なのか本当にわからないが、時間が永遠に進んでいないのではないかとさえ錯覚した。口づけの衝撃にこの胸が耐えられるだろうかと、ぎゅっと目を閉じて、それからどれだけ経ったのかはわからない。
「…………すまん」
言われて、目を開けると、既にマッシュは一歩下がったところに申し訳なさそうに立っていた。
セリスは水瓶を持ったまま、呆然と、マッシュを見上げる。
「忘れてくれ、ってのは……無理だよな」
「えっ」
「……部屋に戻るよ」
「待っ、………待って!」
セリスは慌ててマッシュの背中を抱き止めた。投げ捨てられて、ごとりと水瓶は重い音を立てて床に転がった。
「忘れられるわけ、ないじゃない……!」
絞り出すような声で、セリスは叫ぶ。
「……例え私だけしか覚えてなくたって……絶対、忘れなんてしない……」
例え嘘の時間でも、愛しいと思う男に身体中を愛された時間を。忘れるなんて、絶対にしないのに。
「マッシュ、ごめんなさい……私は、……あなたに、酷いことを」
「えっ?」
その心底驚いたようなマッシュの声に、思わずセリスは顔を上げる。
「ひどいこと?」
「だって……嫌、だったでしょう。だから……」
だから最後までしなかったんでしょう、と、セリスは俯いた。こんなふうに抱きつくのもよくないのだと、するすると手を落とす。
「……セリス」
「良いの、もう。……私が愚かだったの、本当に……」
「いや、そうじゃなくて……」
「あなたこそ忘れて」
「……忘れられるもんか、あんな……」
言葉が続かないのを不審に思って、見上げたマッシュの顔は、ひどく真っ赤だった。え、とたじろいだセリスを、逃さまいとするマッシュの逞しい両腕が捕らえた。
「……酔ってるってわかっていたのに、拒まなかった俺が悪いんだ」
「私、いつも酔ってたわけじゃないじゃない。どうしてそんなことを言うの……?」
「……勘違い、させた」
神妙な顔で言うマッシュに、セリスは呆れてため息を吐いてから、一息で言い返す。
「勘違い?してないわ、私はあなたが私のことを好きじゃないってわかってた、それに私はあなたの事が好きだからあんな、馬鹿みたいなことをしたの。勘違いしてるのはあなたよ」
矢継ぎ早に言われて、え、とマッシュは目を瞬かせて、身体を硬直させた。剥き出しの感情に見えて、セリスは、小狡いとわかっていて、駄目押しした。
「……あなたが好き、……マッシュ」
するりと抱き返して、胸に身体を預けた。
「ねえ、今日なら……もっと、してくれるの?」
マッシュから触れてくれたのなら、もしかしたら。セリスは再び湧き上がる期待に、身体を震わせた。恐る恐るマッシュを見上げると、今までにないほど、その青い瞳が揺れている。
「セリス、……俺は……」
「……マッシュ、……好き」
繰り返して、無防備になっていたマッシュの唇に、ちゅ、と己のそれを重ねてみる。見た目よりもよほどやわらかく、一瞬とはいえ心臓が口から飛び出てしまうかと思った。
愕然とした表情をされるのかと思ったが、びくりと身体が跳ねたと思ったら、どうしてか耳まで真っ赤になっている。この反応の違いはなんなのだろう。
「……駄目だった?」
尋ねてみた瞬間、あ、という形をしたままの口に、マッシュの唇が重ねられた。
「ん、……ふ……!」
違う、ねとりと熱い舌がセリスの口内に侵入してきた。混乱で頭が爆発しそうだ。おずおずと己の舌を絡めると、鼻から恥ずかしい声が漏れてしまう。
いつのまにか後頭部を押さえられて、逃げられない。近すぎて、マッシュの表情もわからない。窒息するかもしれないと頭によぎった時、唐突に唇を解放されて、途端、ほうけた。
「……セリス、……俺も好きだ……」
ほうけたまま抱きすくめられて、セリスは瞬く。
「え、……」
「……抱いても……いいか」
あまりにまっすぐに見つめられてそう言われてはとても答えられず、セリスは全霊で首をこくこくと振った。うん、とマッシュは短く応えて、セリスの膝裏に手を回し、抱きかかえる。そのまま難なく歩き出したマッシュの逞しい首に腕を絡めて、セリスは半分呆然としながら、呟く。
「わ、わたし……」
「うん?」
「爆発しそう……」
心配そうにセリスを見ていたマッシュは、それを聞いた途端にまるでいつものように、破顔した。
「爆発ゥ?そりゃあ景気がいいや」
「笑い事じゃなくて……!心臓も、頭も、もう本当に限界なの、だって……私のことなんて、なんとも思ってないって、……思ってたから」
「……それは俺もだよ。……ほら、」
ぐいと抱き寄せられて、マッシュの胸に耳を当ててみると、バクバクという鼓動がこちらにまで響いてくるかのようだ。驚いて見上げると、ひどく優しい表情で見つめられていた。思わず赤面してしまって、しかし今更、逃場などありもしない。
「な?」
「……うん」
快活に笑ってくれるマッシュにひどく安堵する自分がいて、セリスはまたマッシュに抱きついた。
「……離したくなくなるな」
「私も。……もっと強くこうしても良い……?」
答えるよりも、ぎゅうと抱き寄せられて、自分で聞いておきながら、セリスは恥ずかしくて何も言えなくなる。
マッシュの部屋に着くと、セリスを抱き上げたまま、マッシュはベッドに腰掛けた。
「……後悔しないか?今ならまだ引き返せる」
見下ろす瞳には、ほんの少しの迷いが見て取れた。セリスも不安になり、考えるよりも先に、その意味を思わず問うてしまう。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「それは……だって、明日は……」
「明日?探索に支障が出たりなんてしないわ。私を見くびってる?」
「そりゃそこまで無茶苦茶させたりしねえって、……いや、そうじゃないんだが……まあいいか……」
自分で言って赤面しつつ、マッシュは一つ咳払いしてからセリスを見つめ直した。その青い瞳には、セリスがいっぱいに映っている。
「綺麗だ。……本当なら、最初の時にそう言いたかった。……言えば良かったな」
「そんなこと……」
言われていたら、嬉しすぎて気絶していたかもしれない。今でさえ、こんなにも身悶えしそうなほどなのだから。
優しく髪を撫でられながら、自分に触れる熱っぽい指の一本一本を感じて、未知の感覚にセリスはぞくりと身体を震わせた。
男ばかりの噂を耳にしてきたせいで、実際、女の身体がどれほど負担を負うのかは、詳しくは知らない。だが、不安はなかった。
燃えるような熱にどちらと知れず身体を預けて、
そして二人は溶け合った。
夜明けの旅立ちに、二人はこっそり目を合わせて、照れたように笑った。それはようやく、二人の始まりの日だった。
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