ゴミ箱

ひとときを望まば

 それはある夕方のこと。
 セッツァーの部屋に、セリスが訪ねてきた。その事自体はさして珍しくはなく、用件も、目的地への進路はどうするのかといったようなことで、すぐに話し終えてしまった。即帰るというのも無粋かと思ったのか、セリスはきょろと部屋を見回した。
「あ、ねえセッツァー、あれ……美味しそうなお菓子ね?」
「ああ、そこのやつか?」
 セリスの言う通り、セッツァーの部屋には古今東西の菓子折りが、床の上にぞんざいに山積みにされていた。
「全部もらいもんだからな。好きに持っていって構わんぞ」
 仕事柄、良くも悪くも貴族やらとのパイプが太いために、黙っているだけでこうしたちょっとした機嫌取りの品々が送りつけられてくるのだった。それはセッツァー一人では到底食べきれはしない量で、もはや色とりどりの菓子折りはセッツァーの部屋のインテリアのようにさえなっていた。
 ところが、セリスはその山ではなく、ベッドサイドの方に分けて置かれたトリュフチョコの箱を指さして聞いていたのだが、セッツァーは手元のカードを見つめていたため、セリスがなにを指して言っているのかを勘違いしたまま、話は進んでいた。
「そうなの? じゃあ遠慮なく、いただきます……ん、なんか不思議な味かも……」
「不味かったら捨ててくれ。甘ったるい菓子なんぞ、元々好きでもないしな」
「あら、そうなの? もったいないこと言うのね……それじゃあ、こっちからもいくつか貰うわ。ごちそうさま」
 そうしてセリスが出ていってからしばらくして、セッツァーは小腹が空いてふと頭を上げた。窓辺の床に山積みの菓子の箱は、相変わらず山積みのままだ。
 先ほどセリスがその場で食べていた菓子はなんだろうか気になって立ち上がった時に、ようやくセッツァーはベッドサイドのちょっとした変化に気付いた。
「……? まさか、あいつ……」


「マッシュ? 入るわね」
 おう、とドア越しに元気な返事がして、セリスはつい頬が緩む。
「よう、どうした?」
 大きくドアを開いて現れた、いつもの穏やかで優しいマッシュの顔を見上げて、セリスはなんとなく、いつも以上に胸が騒いでいる気がした。なんだろうと違和感は覚えたが、それを見せぬように、セリスはカラフルな菓子の箱をいくつか彼に差し出す。
「セッツァーからお菓子もらってきたの。一緒にどう?」
 部屋でつまみ食いしたのとは別に、ナッツを使ったものをいくつか持ってきたのだ。マッシュの好物について、以前頑張って聞き出しておいたのが功を奏した。
 マッシュはにかりと笑い、その箱を受けとった。
「お、それは嬉しいな。……そうだ、ちょうどうまい紅茶があるんだ! 淹れるから、ちょっと待っててくれ」
 そうしてマッシュの部屋に招かれて、この状況自体は初めてということでもないというのに、セリスは何故だか無性にドキドキとしていた。部屋に満ちるマッシュの匂いが、いけないのだろうか。セリスは落ち着かない気持ちのまま、ひとまずベッドに腰かけた。
(なにかしら……さっきから体が……)
 やはりどこかしら、身体がおかしいような気がする。むず痒いような、苦しいような。いつもはここまで動悸が激しくはならない。

「お待たせ。はいよ、セリスの分な」
「あ、ええ、ありがとう」
 カップを受けとる瞬間、わずかに手が触れあう。たったそれだけの刺激だった。
「っ……?!」
「セリス?」
「あ、な、なんでもないわ……ちょっとカップが熱くて……」
「まさか火傷したのか?」
 すぐにカップを机に置き、マッシュは立ったまま手のひらをセリスに向かって伸ばしてくる。思わずセリスは仰け反るように逃げた。
「ち、ちがうの、平気……」
「本当か? セリスの大丈夫とか平気とか、あんまり信用なんねえからな……ちゃんと見せてみろ」
 マッシュがセリスの手首を掴んだ。それは強引なものでは決してなかったが、今のセリスにその衝撃は凄まじかった。
「ゃ……っ!」
 思わず上がってしまった声に、セリスはあいていた片手を素早く口に当てた。
「すまん、……まさか痛むのか?」
「ち、ちが……」
 心配そうにこちらを見つめるマッシュに、セリスはただ懸命に、首を振る。
 痛みではない。むしろ、その全く逆なのが問題なのだった。
(私、どうしちゃったの?)
 気づくと、ひどく体が熱い。熱を体から逃そうと、自然と息も上がってきていた。
 マッシュはひどく心配した様子で、腰を折ってセリスを覗きこむ。
「セリス?」
 びくりとセリスは思わず身体を震わせる。もはやマッシュの低い声だけですら、このおかしな身体への刺激になりうるようだった。
「だ、……ダメ、」
「どうしたんだよ本当に、……顔が赤いし……熱でもあるんじゃないか?」
「もうしゃべらないでっ……!」
 切羽つまって、セリスは大声でマッシュを牽制した。マッシュはその拒絶感に驚いたのか、目を見開いてにわかに呆然とする。
「あ……ご、ごめんなさい。違うの、私……わたし、なんだか体が……」
 言い切る前に、マッシュの手のひらが額にぴたりとつけられた。思わず、セリスは息を止めた。
「んー……やっぱ熱、あるんじゃねえか? って、ごめん、触っちまったな」
 慌てて遠のこうとしたマッシュの大きな手のひらを、セリスはほとんど無意識に掴んでいた。
「だめ、離さないで……お願い」
「え?」
「私、なんだかわからないけど……体が、熱くて」
「ああ、熱っぽいな。まさか風邪ひいたのか? ……ああ、でも大丈夫、あんまり心配しなくてもいいぜ、休めばすぐ……」
 病人相手と思ったようで、マッシュは優しく笑う。だが、セリスはそれどころではない。
「違うの!! 私、わたし、……その、火照ってる、みたい……」
 は、と言うマッシュの素っ頓狂な声に、セリスは羞恥で顔を真っ赤にさせた。なんてことを口走ったのだろうかと。
 マッシュは数度、ぱちぱちと瞬く。
「え、と、……それは……つまり……火傷とかじゃなく?」
「だから、違うって……っ、……」
「お、おう……いや、でもなんで……?」
 諸々を理解したのか、途端にかぁっと顔を赤くさせるマッシュを直視できず、セリスはとにかく掴んだままの彼の手を強く握りしめた。
「わからないの!! でもさっきから……マッシュの声だけで、もう……」
 下腹部に、ぎゅうぎゅうと収縮している痛みを感じる。マッシュの声だけで、身体が準備をしようとしている。もはや何故こんなことになっているのか、なにも意味がわからなかった。
 どうしようもない衝動を、セリスは目を強く閉じてなんとか堪える。
「ごめんなさい……っ、でも、……」
 セリスはそのまま、マッシュの厚い胸板に抱きついた。それがまたひどい刺激となって、セリスはただぎゅうと目を瞑る以外に何もできない。意を決して、ただ懇願する他は。
「……お願い、……」
「お、おう……なんだ?」
「……わたしを、抱いて」
「せ、セリス」
 ぎくりとマッシュが硬直したのがわかった。だが切実な懇願に根負けしたのか、あるいはマッシュがひどく優しい性格だからなのか、結局はセリスを抱き返してくれた。
 その優しい刺激に、思わずセリスは吐息を漏らしてしまう。息と共に流れ出た声は、まるでどこかの娼婦のようですらあって、恥ずかしさで顔を上げられなくなる。いつまででもこうしてマッシュの胸の中にいられたら、と思う気持ちと、もっと、はやく、身体中に触れてほしいという激情とが、セリスの頭の中をぐるぐると駆け回っていた。
「その、……いいのか?」
 耳元で迷いがちに囁かれ、セリスはその吐息に思わず身体を震わせてしまう。そして、こくりと頷いて、荒くなる息づかいでもって答えた。
「……こんなこと、マッシュじゃなかったら、頼まない」
「えっ……」
 心底驚いたような声に、セリスの胸はずきりと痛んだ。やはり、今まで何も、マッシュは気づいてはいなかったのだと気がついて、自分勝手に苦しくなった。
 さすがにここまで激しいことは無かったが、マッシュ相手にこんな衝動に駆られることは、セリスにとっては決して初めてではなかった。
 今だけでいいから。強く抱きすくめて、愛していると囁いて、己のなにもかもを奪い去ってほしいと。
 セリスは、厚い胸板に頭を押し付けながら、うなされるように何度もマッシュを呼んだ。
(今だけでいいから、私を愛して)
 その言葉を、口にしたつもりはなかった。だが火照った頭はもうわけがわからなくなりつつある。
「セリス、……」
 突如として決意を含んだ呼び声に、セリスは反射的に体を震わせた。
「……本当に、いいんだな?」
 背徳的な声色に、背筋がぞくぞくとした。返事ができず、セリスはただマッシュの背中に回した腕に力を入れる。男の背中だ、と思った。広く、硬い筋肉で覆われている。
 この精悍な男が、己を抱くのだ。そう考えると、行き場がないほどに身体中が歓喜した。


 セリスが部屋を尋ねてきた時から、何故だか彼女からいつも以上に妖艷な香りが漂っていたのを、マッシュは薄々と感じてはいた。
 とはいえ、セリスは大切な仲間で、妹のようにマッシュには懐いていたから、異性として見ることはできない。いや、しないようにしていた。
 酒を飲んでいたり、熱っぽくなっていると、反して女性は艶やかに見えるものだ。火傷でなくば、もしや体調が悪いせいではないのかとセリスを心配した矢先、彼女の告白が、唐突にマッシュの耳に飛び込んできたのだった。
 だが、突然のこととはいえ、その言葉が真剣な気持ちで放たれたものだとも、よくわかった。
 何を考えるでもなく腕が勝手に動き、マッシュは半ば呆然と彼女を胸に抱いてしまった。
 感情の熱に浮かされる彼女はひどくつらそうで、そして真っ直ぐだった。柄にもなく、ああ、セリスは本当にこの自分ことを好いてくれているのだ、と思わず自覚せずにはいられないほどに。
 言うまでもなく、セリスはオペラ女優に見紛われるほどに端整な顔立ちをしていた。伸ばした金の髪は細くたなびき、意志の強い青い目に射られれば、言葉など飛んでしまう。男なんてきっと引く手あまたであろう彼女が、こんなにも、マッシュに対して一途に感情を向けている。
 高嶺の花、とはよく言ったもので、およそ手の届かないところに咲く花だと、もはや花として見ることすら諦めていたというのに。マッシュ、マッシュ、と切ない声で名を連呼されて、それは過ちだったのかもしれないと、マッシュは思った。
「……本当に、いいんだな?」
 それはマッシュ自身の決意のための言葉でもあったが、それよりも、最後の確認をするためのものだった。
 気持ちはどうであれ、彼女を汚すのだ。行為そのものは、美しいだけではない。特に受け入れる側は、それなりの苦痛もある。
 案外年若いセリスがどこまでわかって懇願しているのかも全くといってわからなかったため、確認の言葉は不可欠だった。だがわからない状態で意志を聞くのもそれは間違っているのかもしれない。
 セリスの返事はなかったが、その代わりに、彼女の細い両腕がぎゅうとマッシュを抱いた。
(ああ、クソ。……駄目だ、こいつ本当に)
 目眩がする。マッシュは息を呑んだ。
(妹みたいに慕ってくれているのに? ……何もかも、ぶち壊すのか。……いや違う、俺は……)
 これ以上はないほど、ひとつになれたら。セリスの唯一の、半身になれるのならば。肉体の境を越えて、心に辿り着けるならば。
 そう思った途端、マッシュの肚は決まった。
 セリスを抱いた状態のままで床に膝立ちし、その絹のような髪をするりと撫でる。たったそれだけで息を止めた彼女の赤く染まった耳に、軽く口付けた。突然のことに、セリスはびくりと体を震わせてから硬直する。反応のかわいさに、マッシュの胸中は正直、言葉にならない。
 そのまま下に、彼女の白い首筋にも口付けると、セリスは高い声で小さく悲鳴を上げた。それは嬌声だったのかもしれないが、余裕の無さからか、マッシュにはほとんど悲鳴に聞こえた。
「あ、……い、やだ……」
 呟くなり、セリスはマッシュの首元に顔を埋めてしまう。背中に回されたセリスの腕が、ガクガクと震えている。自分自身の反応を実感するのが嫌なのだろうとは思うが、ここに来てその言葉は、セリスの経験値のなさを感じさせた。
「セリス」
 優しく呼び、マッシュは彼女の頭を撫でた。何も心配はないのだと、ゆっくり、何度も。
「……こういうことは、初めてか?」
 問いに、セリスは額をこすり付けるように頷いた。
「そっか……」
 幼いころから軍属であったセリスのことだから、まあそうだろうとは予想はしていたので、さほど驚くことはない。ぽんぽんとセリスの頭を撫でて、少し強く抱き寄せる。
「俺もそんなに経験豊富じゃねえけど……我慢はできるからさ。無理やりにはなんもしないよ」
 だから、顔を上げてくれ。な、とマッシュがあやすように言うと、徐々に、真っ赤になった顔が見えてくる。
 普段のきりりとした冷静な表情とは違い、セリスは口で荒く息をしながら悩ましげに眉を寄せていた。涙すらうっすらとたたえたその姿の、扇情的なこと。
(なんなんだ……いつもよりもずっと破壊力が高いぞ?)
 マッシュは、彼女の顔にかかった金の髪を耳にかけてやって、そのままその手をセリスの後頭部に差し入れる。
「目、閉じてな」
 叩かれる寸前のようにぎゅっと瞼を閉じた彼女の、その額に、まず唇を落とす。次いで、瞼、頬と少しずつ、緊張を解くように、触れるだけのキスをしていく。
 そうして強く瞑られたセリスの瞼が緩んだのを確認してから、マッシュは顔を傾けて、彼女の赤い唇と自身のそれとを重ねた。瞬間、彼女は敏感にも、身体を跳ね上がらせる。
 セリスの唇は、熱を帯びているようだった。やはり少し、体調が悪いのかもしれない。一瞬のうちにあれこれ考えた末、口を割って深く口付けることはやめた。その代わりに、唇を味わうように、ゆっくり何度も軽いキスをする。段々慣れてきたのか、セリスの震えは少しマシになってきているようだった。
 それにしたって、挨拶程度の触れ合いですらこの反応とは、この先彼女はどうなるのだろう。いや、想像してはいけないような気もする。痛がられるよりかはマシだろうが、こうした感覚に慣れていないのは問題かもしれない。唇を離すと、セリスの青い目がこちらを見上げていた。まるで幻でも見ているかのように、その瞳は潤んでいる。
 対照的に、彼女の濡れた唇は赤く熟れていて、マッシュの胸中には如何ともしがたい衝動が芽生えてくる。マッシュは人知れず長く息を吐いてから、セリスの首周りの髪を背中へ流し、露わになったそのその白い首にもう一度、顔を埋める。口付けてから、軽く吸い上げてみる。と、セリスは途端に身悶えて、マッシュを抱く腕に力を込めた。
「! ……やっ、……ぅ……」
 たったそれだけで涙をこぼして喘ぐセリスを横目で眺めながら、マッシュはセリスの腹部に向かって手をすべらせた。
 濃紺の上着のその下、真っ白な腹に手のひらをあてると、驚くほど冷たい。いや、あるいは己の手が熱いのか。硬直したセリスをまずは慣れさせようと、しばらく手のひらを動かさず、じっと、マッシュは待った。次第にゆるゆると緊張が解けていくのを悟ってから、ゆっくりと、衣服を捲っていく。大きく露わになったその腰回りは、まばゆいほどに白い。
 武人として筋肉がついてはいるが、とはいえ女性らしい肉感もバランス良く残されている。その様は、まるで絵画のごとき神々しさを纏っていた。その腰回りをあたためるように撫でると、その手つきにセリスは泣きながら身をよじった。
「あっ、……いや……っ、マッシュ、」
 嫌がる彼女は、なにかを恐れている風だった。初めてのことへの戸惑いなのか、あるいは持て余す劣情に支配されることへの恐怖なのか。
「大丈夫、怖くしねえから」
 身体を晒すことにも、きっと抵抗はあるだろう。マッシュは衣服を脱がさぬまま、手のひらだけをその隙間へと滑らせる。
「俺にしがみついてな」
 言うなり、彼女のやわい耳たぶをはむと同時に、衣服の下から豊かな胸に触れた。
 もちりと手のひらに吸い付くその感触に、思わずマッシュは冷や汗をかく。普段から、それなりの大きさなのはわかってはいた。それに、今さら女性の胸部などに興奮するような精神などとっくに捨て切ったと思っていた。
 それなのに、心臓がまるで少年のようにバクバクと高鳴っているのだ。
(やばいな、本当に自制できんのか?)
 箍が外れそうな瞬間、セリスが一際強くマッシュを抱き締めた。堪えるように、一心に。細かく震えるその体は、無理やりに熱を抑えこんでいるように見える。
 耐性の乏しいセリスですら、身体を駆け回る劣情にひどく耐えているというのに、マッシュはまったく修行不足の自分が嫌になった。
「……ごめんな、もうちょっとゆっくりやるから」
 低く囁くと、セリスは上気した顔をもたげて、なぜだか恨めしそうにこちらを見つめた。
「そ、じゃなくて……」
「ん?」
 そわそわと目線を泳がせ、セリスは唇を動かす。
「……もっと」
「もっと?」


 熱い。熱くて仕方がない。セリスは荒い息でもって、ただマッシュの逞しい身体にしがみついていた。
 経験は少ないと自称してはいたが、マッシュの行為はセリスの熱を確実に増幅させていた。もはや、何をされても変な声が漏れてしまう。
(いやだ、こんな声、聞きたくない、聞かれたくない)
 その頑なな態度を緊張と捉えたのか、マッシュはセリスの頭をあやすように撫でた。そして額、瞼、頬、と順番に優しくキスされては、思わず勘違いしそうになってしまうのは仕方ないことだろう。それらはまるで、愛し合う恋人に向けるような、慈しむような口付けだったから。
 口付けはすべて、甘い、優しい刺激だった。熱っぽいとまでは言えない。一方で、耳元や首筋に触れられる度、くすぐったさ以上に、熱の波のようなものが身体中の感覚をさらっていく。ついそれに身を委ねてしまえば、吐息と涙が止まらなくなった。
「俺にしがみついてな」
 耳たぶを食まれたのとほぼ同時に、一瞬、腹部がひやりと外気に晒されたと思うと、彼の大きな手のひらが腹部をまさぐる。予測できない動きをし、ついには胸にまで到達したその手に、セリスは混乱したまま身悶えた。
 マッシュの腕の中で、彼の熱にあてられて。今この瞬間、彼の意識は全てが自分に向けられている。その事実に、胸の奥が爆発してしまうのではないかとさえ思った。セリスは無意識的に、マッシュを抱く力を強くさせる。
(体が疼く……もっと、もっと……)
 もっと近づきたい。身体中をマッシュと重ねていたい。触れていたい。だが、熱っぽい身体はろくに言うことを聞かなくなりつつあった。力を入れようとすると、空回りしてガクガクと震えてしまうのだ。その震えを恐れと勘違いしたのか、マッシュは困った声で再びセリスをあやす。
「……ごめんな、もうちょっとゆっくりやるから」
「……そ、じゃなくて……」
「ん?」
 マッシュを恐れているわけでも、行為に嫌悪を抱いているわけでもない。
「……もっと……」
 ただ、こんなに優しくなくても構わなかった。見せかけだけでも愛してほしいと願いはしたが、勘違いしそうになるのは尚更ひどく苦しい。
「もっと?」
「もっと、激しく、……して」
「? ……えっ?」
「優しくなくて、いい。……労らなくても、いいから……、して」
(だって、わたしたちは……恋人じゃ、ない)
 どうせ二度はないのだから。何が何だかわからないままにこういう行為に縺れ込んだこの時を、忘れられないように、刻み込んでほしかった。
 しあわせの形は、見えなくなるとすぐにぼやけてしまう。だが痛みは違う。いつまでも鮮明に消えない。
「いや、けどよ……初めて、なんだろ? 無茶はよくねえよ」
 セリスの背中を抱き、マッシュはありがちそうな言葉を投げてくる。その通り、確かに行為は初めてだ。だが、これが最後でもある。今しないで、いつ無茶をするというのかと、セリスは、強く首を横に振った。
「……うーん、そうか……」
 マッシュは困った表情を浮かべて、わずかの間、逡巡した。彼もそこまで引き出しがあるわけではないのだろうか。困らせたいわけではなかったのだが、とセリスは恥ずかしいやら申し訳ないやら、言い難い感情に襲われる。
「えーっと……じゃあ、……おまえが嫌がっても、やめないぞ」
 抽象的だが、それが良いかもしれない、とセリスはこくりと頷いた。そもそも、彼にされて嫌なことなど思い付かない。嫌われること以外ならば、何をされても良かった。だが、それは己の考えが浅かったのだとセリスは思い知った。
「……え?」
 突然、ぼよんとベッドに突き倒され、セリスは仰向けに転がっていた。天井を眺めたのはほんの僅かで、そこにマッシュが容赦なく乗り掛かり、肩を押さえつけられる。
 不意討ちに驚いていたのもあって、セリスは身動きが取れなかった。そうして、目を閉じろ、などという挨拶もないまま、窒息しそうな位に長い口付けが始まった。
 息をしたくてマッシュの厚い胸板を押しても、一向に唇を離してくれない。嫌がる素振りを見せても、宣言通り、マッシュはなんら引かなかった。
「……っ、ん、んっ、……!」
 いつも口で呼吸をしているわけではないのに、唇を塞がれた途端にどう呼吸したらいいかわからなくなる。
 本当に死ぬ、と思った瞬間、唇が離れた。酸素を深く吸い込もうとして開かれたセリスの唇は、待ち構えていたかのように再びマッシュに閉じられる。
「っ!? ……ん、……ふ……!」
 口腔に、彼の舌、だろうか。生ぬるく動くそれが押し入ってきて、セリスは身体を飛び跳ねさせた。自分のものではない何かが、勝手に口の中を動き回る。ぞわぞわとした感触が、絶えず背中を走った。先ほどの、触れるだけのキスとは比べ物にならない、痺れるようなその刺激。
 荒い息遣いと、唾液と唾液とが混ざりあう卑猥な水音が部屋に響きわたる。セリスはそれを、半ば他人事のように聞き流していた。
 そんな音よりも、自身の体の内部から響く心音が、鼓膜を震わせていたからだ。
(……なんなの? 動悸が、止まらない)
 苦しいのに、この上なく嬉しい。もっと。もっと。頭に浮かぶのはこの言葉ばかりだ。
 マッシュを押し返していたはずの腕は、気付けば彼の頬を包んでいた。自ら口付けをより深いものにしようと、セリスはマッシュを呼び込む。
 まるで、お互い求めあう恋人のように。口付けは情熱的で、深いものとなる。ぞわりとした快感に、セリスは打ち震えた。熱くて熱くて、蕩けてしまいそうだと思って、いや、身体はとうになくなっているのではないかとすら錯覚した。
「……ほら、」
 いつの間にか体を離し、マッシュは目を細めてセリスを見下ろして呟く。
「怖いだろ」
 眉を寄せて、彼は痛々しく笑んだ。そうして、怖々とした手つきでセリスの額をするりと撫でた。
「……違うな。怖いのは俺だ」
 彼が今にも泣きそうな表情でそう言うものだから、セリスは思わずマッシュの頭をかき抱く。彼はそれに緩やかに従い、セリスの胸元にその頭を埋めた。
「俺を許しちゃ駄目だよ。おまえを壊してしまいそうになる……」
 マッシュの短く刈られた髪を撫でながら、今度はセリスが泣きそうになる。そんな心配はしなくてもいいからと断ったというのに。壊してくれたら、それでいいのに。しかしそれができる人ではないとも知っていた。
「……マッシュ、」
 震える腕で、ぎゅうと彼の頭を抱きすくめて。
 好き。
 セリスは小さく、囁いた。
 は、と息を飲む音が聞こえる。
「聞こえる? わたしの、音……」
 マッシュと触れ合っている。その事実だけで、こんなにもこの胸は高鳴っている。期待と、喜びと、ほんの少しの苦しみを刻むように脈打っている。
「怖いから、じゃないわ。あなたが、欲しくて……たまらないから……」
 仲間としての体面など、今さら何も残っていやしない。ただひとりの女として、彼を欲しているのだと。
「……セリス、」
 マッシュは呆けたように名を呼び、それからセリスの腕をぽんぽんと叩く。それに応じて腕を緩めると、彼の深い碧眼がこちらを射抜いた。その瞳は、まるで信じられないものを見るようで、ひどく揺れていた。
「俺も、ずっと……こうしたかった」
「……本当に?」
「……信じらんないか?」
 疑問に疑問を重ねられて、セリスは窮する。マッシュが嘘をつくはずはない。だからといって、まさかこの気持ちに反応があるなど、思ってもみなかった。
「俺だっておまえと同じだ。……求められたって、セリスとしかこんなこと、しないさ」
「……うん」
 頷いた反動で、頬にぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちる。
(じゃあ、いいんだ。わたしの勘違いなんかじゃなくて、マッシュは本当に、恋人みたいにキスしてくれてたんだ……)
 彼は最初からずっと真摯に、優しく愛してくれていた。それを裏切っての無理やりしてくれという頼みだって、わずかでも了承してくれた。ちゃんと愛されていた。その事実が、受け止めきれないほど嬉しかった。
「あ……ご、ごめんなさい」
 あたたかくこちらを見下ろす彼の視線に当てられ、セリスは涙が止まらなくなってしまった。涙はぼろぼろと勝手に流れては、頬を伝って耳へ、そしてシーツを濡らしていく。
 マッシュは目尻にしわを寄せて笑み、そっとセリスの頬を撫でた。
「ゆっくり、いこう。時間はたっぷりあるからさ。な?」
 ここがベッドの上だと感じさせぬほどいつも通りに、マッシュはにっと口角を上げた。


「悪い、ちょっと待ってな」
 セリスの涙をすべて拭ってから、マッシュは上半身を起こした。そして上衣の下部を握り、裏返すかのようにそれを粗雑に脱ぐと、これ以上はないほど鍛え上げられた上体があらわになる。
 少し汗ばんだ胸筋は力強く盛り上がり、幾つにも割れた腹筋はもはや芸術のような精巧さを放っていた。見惚れるほどに、逞しい男のからだ。セリスの視線は自然と吸い寄せられる。まじまじと見てはいけないのかもしれないと思いつつも、こんな胸に抱かれていたのかと思い返せば、やはり爆発してしまいそうなくらいに恥ずかしい。
「……セリスは、その。あまり肌は見せたくないか?」
 無理に脱がなくてもいいぞ、と優しく言われて、慌てて頭を振る。
「だ、いじょうぶ……自分でやれるわ」
「そか」
 簡潔に答えて、マッシュはくるりと背を向けた。先ほどはっきりと触ったのに、律儀というか紳士というか、なんというか。むしろ恥ずかしく思いつつも、彼の広い背中を少しの間見上げてから、セリスはまずショートブーツを脱いでベッドの側に揃えて置いた。それから自身の衣服に手をかけた。
 黒の上衣を勢いに任せて脱いでベッド端に置き、次いで下着を脱ぎにかかる。だが、いまだに微かに腕が震えてしまっていて、留め具がなかなか外れてくれない。
「……大丈夫か?」
「えっ」
 時間がかかっているのを、迷っているのだと思ったのだろう。マッシュは一際優しく問う。
「……あの、マッシュ」
「うん?」
「手が震えて……脱げなくて。その、つまり、……手伝って、くれないかしら……」
 言葉がなんとなく、詰まる。先ほど泣いてから、身体から大胆さも逃げてしまったような気がしていた。相変わらず身体は熱いのだが、最初の時のわけもわからぬ火照りとは違って、恥ずかしさから来る熱が頭を中心に渦巻いている。
(今さらだけど、なんであんなに身体が火照ってたのかしら……)
 偶然、きっかけになったから良いものの。一歩間違えていたらと思うと恐ろしい。
「あー……そっち向くけど、平気か?」
 セリスは身体を翻し、背中をマッシュに向けて、両腕で胸元を押さえながら俯いた。
「うん」
 ぎ、とベッドが唸る。迸るような熱い体温が近くに来たのを、肌で感じた。どれだけ体温に差があるのだろう。
「さわるぞ」
 耳のそばで宣言されて、ぞくりとしたのも束の間、マッシュの指先が髪をかき分けて、そうっと背中を掠める。
「……よし、外れた」
「ありがとう」
 窮屈な感覚が無くなり、同時にマッシュのあたたかな気配も遠ざかっていく。セリスは俯いたままで、わずかな時間、逡巡した。両腕を離せば、下着は落ちる。それはわかる。だが、いつそうしたら良いのか、そしてどうやって振り返ったら良いのか、全くわからない。
 かといって、このまま背中を向けていても仕方がない。
「……そのままでいいから」
「えっ……?」
「髪、ちょっとどかすぞ」
 マッシュは、背中に無造作に垂れていたセリスの髪を、まとめて肩口から前に流した。
 そうして空いた背中から、彼は包み込むように抱きしめてくれた。
「あ……」
 がっしりとして固い肌が、背中を全面にわたって押し包む。鼓膜を、自分の動悸が占領した。
「嫌ならすぐに言ってくれよ」
 ならば無口になるしかないではないか、とセリスは首元に回された太い腕に手を添えながら思う。
 壊さぬように、あたためるように、守るように、直に抱きすくめられて、嫌なはずがない。ないのだが。
「……いやじゃ、ないけど」
「おう」
「マッシュの顔、見ていたい……」
 そう思ってしまうのも、当然なはずだ。
「そ、そうか……」
 戸惑いがちに、マッシュの腕が緩められる。一呼吸を置いて、セリスはくるりと身をよじった。途端に、また隠すかのように彼の腕が背中を覆う。優しさからくる、無意識の焦らしとでも言うだろうか。身体の疼きが一段落を見せ始めている今は、打って変わって、とにかくくすぐったく思う。もっと激しく、と耐えられなかった自分は、少しずつ薄れていた。
「……こんなに近いと、なにも見えないでしょう?」
 思わずセリスは肩を震わせて笑ったが、その両肩を、大きな手のひらが掴んで、ぐいと押す。
「……セリス」
 ようやく交わった視線は、力強いものだった。
 マッシュを見つめると、不思議と安らぐ。もちろん羞恥心はあるのだが、彼にならどこを見られても良い。むしろ、見てほしい。
 もう一度、ゆっくりと。彼が心でそう言っているのがわかるから。
 彼にすべて、委ねよう。どっちみち、自分にはリードできないわけだから。
「目、な」
 言われて、セリスは両腕を彼の首に回し、眠るようにゆっくり瞼を閉じた。
「ん……」
 最初と同じ、唇を合わせるだけのキス。下から掬うように重ねられた唇は、人肌にあたたかい。
 マッシュの手のひらが、ぺたりと背中に貼りついたのを感じた。片方は横腹を撫でつつ上へ、もう一方は背骨をなぞるように下へと流れていく。
 上も下も、するすると肌の上を余すとこなく触れていく指先に、緊張した身体はほぐされていく。
「……あ……ぅ、……っ!」
 指先が、胸の頂点に触れた瞬間。くすぐったさに似た感覚に、身体が跳ねた。そうしてわずかに開いた口に、また深い口付けが落ちてくる。二度目だからか、最初ほどの恐怖や高まりはなかった。むしろ、つながっていられることに嬉しさが込み上げてくる。
 胸元を優しく触れる手のひらのあたたかさにぞくりと鳥肌を立てながら、セリスは固く目をつむって、身体を這うその感覚を追いかけた。
「……!」
 背中から下へと伸ばされていた彼の腕は、いつの間にやら下衣に到達していた。
 そうと気づいた瞬間、セリスの胸はこれまで以上に高鳴った。まだこれ以上があるのか、という新鮮な驚きを得る。
 ちゅ、と愛らしい音をさせて唇を離し、マッシュは悩ましい表情をこちらに向ける。
「これ、……紐をほどけばいいのか?」
 セリスが履いているものは、太もも辺りに大きくスリットの入ったデザインで、その間を黒い紐で交差させて縛ってある。紐はベルトの代わりに腰まで伸びており、紐を緩めれば楽に脱ぐことができるようになっていた。
 こくりと頷くと、マッシュは苦々しく笑った。
「複雑だなぁ……いや、案外シンプルなのか」
「着脱は……楽だと思うけど……」
「……これをほどくのはセリス以外で、俺が初めてなわけだなぁ」
 なにを当たり前なことを、と思ったが、その口振りがいかにも嬉しそうで、かぁと頬が熱くなる。
「……そう、だけど」
「うん」
「最後のひとでもある、でしょう……?」
 青い瞳を覗きこみながら、セリスは確かめるように問いかける。
「まーったく。そんな口説き、どこで覚えてきたんだか……」
 ふ、と大人びた微笑みをたたえて、マッシュはセリスの額に口付けた。
 しゅる、と聞き慣れた擦れ音が鳴る。
(わたしだって、聞きたいわ。貴方がこんな経験、誰相手にしたのかって……)
 剥き出しになった下腹部が、ひやりとした外気に触れた。するりと滑るように、太もも、ふくらはぎ、爪先。ほぼすべてが彼の眼前に晒し出される。羞恥と歓喜にわずかに震えながら、セリスは彼の首にしがみついていた。
「……やっぱり、あれだな、」
 やや不躾に、マッシュは呟く。
「綺麗だ」
 喉が詰まりそうなほど、その言葉は真っ直ぐにセリスに飛び込んできた。
「……すまん、これ以上言葉が出ない」
 いいえ、と首を振ってみせてから、セリスはたまらずマッシュの頭を抱き寄せる。それに従い、彼もセリスの首筋から後頭部へと手を差し込み、抱きしめてくれた。
 そうしてそのまま、どちらともなくゆっくりとベッドに倒れた。仰向けで天井を見上げながら、セリスはマッシュの身体に抱きつく。
 こんなにも、近くにいる。二人を隔てるものは、肉体以外にはなにもなかった。そしてそれももうすぐ、混じり合う。
「セリス」
 しばらくそうしていると、彼が艶っぽく名を呼んだ。合図なのだろうと、セリスが腕を緩めると、瞼に口付けてから、マッシュは緩慢に上体を起こした。そして、閉じられたままでいたセリスの両膝を撫で、彼は問うた。
「……いいか?」
 瞬きで返事をし、セリスは顔を逸らす。さすがに直視はできなかった。
 無骨そうでいて繊細に動くマッシュの指先が、セリスの最後の砦を掴んだ。白絹で出来たそれは、するりと簡単に奪われていく。
 もう後戻りはできないのだと思う一方で、真に彼とつながることを想像すると、何ともなく頑張ろうと思えた。
「怖くはない? 嫌じゃないか?」
「……だいじょうぶ」
「痛いと思ったら、すぐ言えよ。我慢しなくていいからな」
 そう言う時点で、痛いことをするのだというのはわかる。だが、その痛みこそ、つながる証なのだから。
 怖くない、わけがない。痛くない、わけもない。だが彼とひとつになれるのならば、それを我慢するのではなく、乗り越えてみせる。セリスは、ぎゅっと目を瞑った。


 すべてが、彼の目に晒されていた。他の誰も知らないところも、すべて。
「……寒いか?」
 問われて、己が細かく震えていることを知る。握る服ももはやなく、代わりにセリスはベッドシーツを握りしめた。
「へいき、だから」
「……さっきから大丈夫だの平気だの言って、無理してないか」
 その握った拳を、あたたかな手のひらが押し包む。
「無理だったら、ちゃんとそう言うわ」
「……わかった。信じる」
 マッシュは強い語調で頷き、小さな子どもにするようにセリスの頭を撫でた。彼の大きな手のひらはとてもあたたかくて、つい頬を擦り寄せたい気持ちになる。
「ねぇ、貴方は?」
「うん?」
「マッシュは、その。……脱がないの……?」
 え、と彼は途端に言葉に詰まった。
「うーん、いや……いきなり無理って言われたくねえからさ」
 ごまかすような笑みに、セリスは眉を寄せる。
「そんなこと……言わないわ」
「そう言い切られた方が、後々ダメージでかいんだって……」
「マッシュ」
 だーめ、とマッシュは首を横に振った。
「男のを見るのは初めてだろ?」
「えっ、……そう、だけど」
「見て面白いもんでもないし……別に急ぐ必要はないだろ。……な?」
 言い聞かせるように、額にまたキスされる。
「これが最後ってわけじゃないんだ。今日はまず、慣れてくれればそれでいいからさ」
 そして、こつりと額同士をぶつけてから、マッシュは悪戯っぽく笑った。

 セリスの身体中は、生あたたかな舌で好きに味わわれていた。首筋から肩口へ、そして鎖骨、胸の谷間。どこもかしこもくすぐったさに身体が跳ねてしまい、セリスは吐息を漏らした。
「……は、……ぅ……」
 自分の声が、耳に障る。聞きたくないうえに聞かれたくもなくて、手の甲でもって口元を押さえつけると、すぐにマッシュの手がそれをそっと退けた。
「我慢しなくていい。……聞かせて」
「で、も……」
 セリスの手を自らの肩に乗せて、マッシュは獣めいて笑む。
「艶っぽくて、すげえいいから」
 独り言のようでもある荒い言い方に、どことなく彼の素を感じ、どきりとする。彼もまた、男なのだと。今さらながら思い知らされた。
「あ……」
 マッシュの手のひらが、撫でるように太ももの内側へ滑っていくのがわかった。それと一緒に、彼の唇もまた、下腹部へ移っていく。
「……え、待っ……!!」
 足を閉じようと反射的に力んだが、マッシュの腕に敵うわけがない。膝を押さえられて、足の付け根にまで口づけが降ってきて、あまりの羞恥にセリスは耐えられなくなった。
「や、……っ!」
「嫌か?」
 セリスがガチガチに力んだのを見て、咄嗟に顔を上げて問うた彼に、辛うじてこくこくと頷きを返す。だがマッシュは小さく唸り、眉を寄せて困った顔を浮かべた。
「……でも、ここはちゃんと、慣らしておく必要があるんだ。そうしねぇと後で痛い思いするのはおまえだからさ……」
「う、……」
 自分のためと言われれば、なんとか我慢する他ないということになる。
「その……ちょっとびっくり、しただけ。……だから、平気」
「ん。……そうか」
 マッシュの頬を撫で、セリスはどうにか微笑んで、足に入れた力を緩めようと意識する。とはいえ自ら開くことなど到底無理で、ただ膝を押されたときに、抵抗しないように、委ねた。
(……また、身体が熱くなってきてる……)
 気持ち悪い、ような、その逆のような。セリスはここに来てまたしても、自分がよくわからなかった。そんなところより、もっと身体中に触れてほしいような、やはりその奥に辿り着いてほしいような、ぐるぐると気持ちが混乱する。
「よし、わかった。……じゃあ、何するか先に言うようにするよ」
「え? えっと……」
 そんなのは無粋なのでは、と少し思ってしまったが、しかしその優しい口調は、すべてセリスを労るためのものだと伝わってきている。雰囲気ではなくて、きちんと言われた方が自分には良いかもしれないと、セリスはマッシュを見返した。目が合って、少し言いにくそうな表情をしているのに気が付いて、セリスは思わず瞬く。
「あー、一応聞くけど……ここで、俺とつながるってのは、わかるよな?」
「え、ええ」
「そっか。……で、ここは初めてとか、ちゃんと準備をしていないと、すごくキツいものなんだ。そうすると、俺もセリスも、あまり良くない……ってのは、わかるか?」
 マッシュは言葉を選んで、そう確かめる。セリスが小さく頷くと、彼は一層申し訳なさそうに告げた。
「だから、ほぐすために、指を入れる、わけなんだが……」
「……ゆび、……」
 セリスは目を見開いた。マッシュの指は、一本でもセリスの指三本分くらいはある。
「……は、入るの?」
「いや、まぁ……入らなかったら俺のは確実に無理だろうな」
「そ、そうなんだ……」
 見たことがないのでなんともだが、そんなにも大きな物、入れられるようなものなのだろうか。セリスは少し、不安になった。
「……急ぐ必要は、ないんだぜ」
 今日じゃなくても、と逃げ道を提示してくれた彼に、しかしそもそもこちらからこんなことに誘い込んだのだし、と思い返せば、腹を決めるしかないと、セリスは唇をぎゅと結んだ。
「いい。……やって」
 言い放ってから、セリスは注射を厭う子どものように顔を逸らした。
「……セリス」
 その横顔にかかった髪を、マッシュが指先で退けた。そしてその指先を一度自ら舐めてから、そのまま耳元へ顔を寄せ、首筋に吸い付いた。くすぐったさに、びくりとしたのも束の間。
「あっ……!」
 異物感が、下半身を襲う。痛い、と思った瞬間、マッシュの背中にしがみついて爪を立ててしまった。
「セリス。……好きだ」
「……ぅ、ん……わ、たしも……」
 マッシュは紛らわせるように何度も口づけながら、セリスの中をゆっくりと、調べているようだった。それの邪魔にならぬよう、セリスは必死で足の力を抜こうと意識する。段々と痛みは薄れ、異物感だけになってきて、口付けばかりに意識をとられるようになっていた。
「中、すげえ、な……」
 気がつけば、淫猥でいやな音が響いていて、セリスは途端に赤面してしまった。
「それは、……だって、マッシュが……」
「ん? ……ああ、良いことだよ。……もう一本、増やすからな」
 訳もなく答えてからマッシュはにわかに硬直して、ゆっくりと指を引き抜くと、改めて中を押し広げていく。
「……痛くないか?」
「う、……ん、……大丈夫……」
 正直、これが限界だろうとセリスは思った。中はさておき、入り口がそんなに広がるとは到底思えない。救いを求めるように、マッシュにキスを強請るようにすがりついてみると、なんの惜しげも無く与えられることに言い様もない安堵があった。
「は、……かわいいな、おまえ」
「……えっ、……」
 マッシュはつい漏らすように言うと、にかりと無邪気に笑んだ。
「お、っと、俺の指を食いちぎらないでくれよ」
「……え? あっ、」
 言葉の意味がわからないでいると、下腹部にそっと手を当てられて、理解した。
「ご、ごめんなさ、……」
 なんとか力を抜こうと意識してみる、が、合っているのか全くわからない。意識すればするほど、むしろ締め上げている気がした。気を散らそうと少し体勢をずらした、そのときだった。
「あ、っ……?!」
 奥の、なにか嫌なところに、あたった瞬間。びくりとセリスは跳ねた。何が起きたのかわからず、思わずマッシュを見上げる。
「……ここ?」
「あぅっ」
 それは、味わったことのない感覚、としか言い様がない。何がなんだかわからず、不安に瞬いたが、しかしマッシュのやわらかな青い目に、セリスは息を吐いてなんとか気持ちを落ち着けた。
「嫌か?」
「……わ、からない。……なんか、変……」
「痛くないなら、……もう少しだけ、続けるぞ」
 答える代わりにまたどちらともなく口付けて、マッシュはゆっくりと、セリスの中をほぐし始める。奥に進める時はゆっくりと、気遣っているようなのがその動きからわかって、焦れったいような気持ちと、ずっとこのよくわからない感覚に支配されていたいような、そんな気持ちになる。口付けの直接的な感覚と、自身のくぐもった声に注意が行くと、はっきりとしていたマッシュの指の感覚が気にならなくなってきていた。
 いつの間にか夢中で唇を合わせていると、名残惜しむようにマッシュの身体が離されてしまって、セリスははたと目を開く。
「ん。もう、そろそろかな……」
 ゆっくりと指が引き抜かれていく異物感に、セリスは思わず低い声が漏れてしまった。横目でちらとその指先を見ると、濡れて鈍く光っている。
「うん、これなら大丈夫そうだな」
 に、と笑い、マッシュは指先を自ら舐めとる。その動作にセリスがぎょっとするのも束の間、マッシュは上体を起こしてくるりと背を向けた。
「……ちょっと、悪い」
 しゅる、と紐がほどける音がする。セリスは動く気力もなく、そのままベッドに仰向けてその背中をじっと見つめる。やがて、すっと立ち上がった彼は、その場にぱさりと下衣を落とした。そしてそのまま、しばし硬直する。
 一つとして無駄のない、鍛え上げられた背中。立派な山々のような動かないそれを見つめて、セリスは思わず呼ぶ。
「……マッシュ?」
「あ、ああ……」
 ひどくバツが悪そうに応え、マッシュは躊躇いがちにこちらを振り向いた。
「えっ」
 つい出てしまった声に、セリスは慌てて手で口を塞ぐ。
「……ご、ごめんなさい、またちょっと驚いた、だけ、だから」
「いや、いいんだ。怖いよな? 正直、俺もこんなになってるとは……」
 あ、うん、と気のない返事をし、セリスは目を游がせる。
(えぇえ?! 有り得ない……!! 人体の神秘だわ……)
 ぎしりとベッドが鳴いて、遠慮がちにマッシュが近付いてくる。セリスは粗方観念して、唇を引き結ぶ。抱き寄せるように彼の背中に腕を回し、上体を密着させると、直接的に肌と肌に伝わる体温が、ひどく心地良い。とろりと身体が溶けてしまうのではないかとすら思った。
「……セリス。力を抜いて、深呼吸、できるか?」
「うん……」
 近寄る彼の腰に、行き場をなくした両足は絡ませるしかない。はしたないかもしれないと思ったが、他にしようがなかった。
「怖いよな。……できるだけ、ゆっくり、痛くないようにするから……」
 すぐそばで響く優しい声色に、セリスはこくりと頷いた。
 下腹部に、わずかな圧迫感がする。思わず、息を止めた。こんなものは、入らない。指とは比べものにならない太さだった。
「痛かったら、俺にしがみついていいし、噛み付いたっていいからな。我慢だけはするなよ」
 ぐいと二の腕を引っ張られた途端、体の浮いた隙間にマッシュの太い腕が滑り込む。熱い身体にぎゅうと包まれるよう抱かれながら、そのぬくもりに紛れて正体不明の鈍痛が下半身を襲った。
「……ぁ……、つ……っ」
「き、ついな……痛いだろ、呼吸できるか……?」
「だ、い……じょぶ、じゃ、ないかも……」
 身体が真っ二つに裂けているのではないか、とすら錯覚してしまう。切り傷のような鋭い痛みではなく、傷口に指を突っ込むような痛みだ。その痛みが、ずぐりと身体の奥深くまで潜ってくる。
「もうちょっと、だからな、……ごめんな……」
「う、ん……」
 紛らすように、マッシュは額や頬、首筋に何度も口付けてくれる。それから、時々セリスの名を絞り出すように呼んだ。
「……マッシュ……っ」
 応えようと、息も絶え絶えにセリスはマッシュを強く抱き返した。その時、ぷつ、と指先に感覚がした。何かが切れたのだ、と思い、はっとした。マッシュの背中に回していた手で、知らず知らずのうちに爪を立てていたからだった。
「あっ……ごめ、んなさ……」
 不意に、彼が進むのを止めた。不思議に思って、腕を緩めると、ひどく優しく目を細めた彼と目が合う。
「……セリス。俺たち、今、一番深くでつながってる」
「え…………ほんと、に?」
「本当さ。全部、入ったよ。……大丈夫か? 深呼吸できるか?」
「……うん。まだ、ちょっと、ヘンな感じ……するけど……」
 ちょっと、と足したのは強がりでしかなかった。逃れられぬ苦しみからそれでも逃げたくて、言われるまま深く呼吸をする。その度、鈍い痛みはわずかずつ薄まった。一方で異物感は相変わらずで、何故だか喉が苦しく感じる。マッシュが頻りに深呼吸を勧めてくれなければ、吐いてしまっていたかもしれない。
「マッシュ……」
「うん」
「どうしよう、すごく、嬉しい……」
 痛みも違和感も決して消えていない。それでも、胸が苦しいほど、嬉しかった。彼の厚い胸板に顔を擦り寄せて、セリスは満たされるということを実感した。
「……俺もだよ。セリス、よく頑張ったな……ありがとな」
 その感情を表すように、マッシュに強く抱き返される。二人を隔てるものはもう、何一つないように思えた。言葉以上に、お互いの抱擁がすべてを物語っていた。


 明け方頃の、薄暗い室内。二人は長い間、ひとつにつながったまま抱き合っていた。それが男性にとっては生殺しに違いないことは、セリスも知っていた。だが、マッシュはひどく穏やかに、セリスの髪や身体を撫でたり、口付けたりするだけだった。
 痛みと違和感がほとんど消え去ってきた頃には、恐らくすでにかなりの時間が経っていて、二人の間には当初の熱のような激しい感情よりも、ただ穏やかな落ち着きが流れていた。
 横向きに体勢を変え、彼の逞しい腕を枕に寝転がってからしばらく、彼はシーツに広がるセリスの髪を一定間隔に撫でていた。が、その指の間隔が、不意に狂った。そして、覆うようにセリスを抱き締める彼の鍛えられた身体が、無遠慮に体重をかけてきた。
「……マッシュ?」
 顔を厚い胸板から離し、彼の顔を見上げると、長いまつ毛は伏せられて、青の瞳が閉じられている。どうやら、眠っているらしい。
(……貴方には緊張って言葉は無いのかしら?)
 セリスだって、眠たいほど疲れてはいた。が、マッシュが身体の中にいるままで眠れるほど、鈍感ではない。いろいろと考えれば考えるほど、頬が紅潮して眠れなくなる。
 自分が大胆に彼を誘ったことや、彼がそれを受け入れてくれたこと、終始セリスのことを考えて、こうしてひとつになってくれたこと。
 今となって思えば、セッツァーの部屋で食べたあれは、なにかまずい薬でも混入していたのではないかと思う。そのままマッシュを訪ねたのは偶然のうちだったが、こうなってしまった今、結果的には良かった、のかもしれない。
(私たち、……気持ちは同じ、だったのよね? マッシュも、私のこと……)
 同情で抱いたのでは、とつい思ってしまうが、マッシュがそう器用に考えてこんなことをできるとも思えない。だが。
(でも、マッシュは初めてじゃないのよね)
 経験が多いとは言わなかったが、全くないとは言わなかった。以前にこうして誰かのことを愛したのだろうか。同じように、身体中にキスをして、痛みがないように気を遣って。この逞しい身体で誰かを抱き、ぞくりとするほど優しい声で愛を囁き、今は閉じられたこの碧眼で、誰かを愛おしそうに見つめたのだろうか。
「……うらやましいな」
「ん? なにが……?」
 呟きに、マッシュは片目だけを開けて応えた。まさか返事されると思わなかったので、セリスはびくりとした。
「あ……起こしてしまった?」
「いんや。……で、何がうらやましいって?」
 無垢に見つめられ、くだらない、醜い嫉妬心が恥ずかしくなる。だが、つながったままの身体を通して、その醜さすら見えてしまっているような気にさせられた。
「……マッシュは、その。こういうこと。初めてじゃないんでしょう」
「え? ああ、まぁ……」
「貴方に愛された誰かが、うらやましいなって……思って」
 マッシュのきょとんとした表情を見て、ほとほと独占的な自分が嫌になって、セリスはマッシュの胸に顔を隠す。途端、マッシュが吹き出すように笑った。
「……馬鹿馬鹿しいと思った?」
「いいや、違うよ。……おまえ、本当にかわいいなって」
 笑いを噛み殺した風に言われて、かぁと頬が熱くなるのがわかった。
「だって、羨ましがるのはおかしいだろ? 俺が……その。愛してるのは、セリスだってこと、わかるだろ」
「……え、ええと」
 行為だけでも十分すぎるほどだったが、改めて言葉で告げられた嬉しさは、例えようがない。
「それと、忘れてないか? 俺がそれなりの歳まで王位継承権があったってこと」
「え?」
 ええと、とマッシュは殊更バツが悪そうに、呟いた。
「……こういうことは、教育の一貫にあるんだよ。跡継ぎを残すのは王族の義務だからさ」
「あ、……そうよね」
「だから、本当に心から好きな女を抱いたのは、……セリスが初めて、なんだ」
 それがとても尊いことのように、しあわせそうに告白されて、セリスは胸がいっぱいでこぼれそうな気持ちになる。
「……一緒になれるなんて、思っても見なかった。夢みたいだ」
「それは……私の台詞だわ」
 好きで好きで、仕方がなくて。限りなく近づきたいと願っていた。いつも笑顔で、無邪気で、誰よりも優しくて、それでいて何にも負けないほど力強い。
「ほんの一瞬でも愛してくれたら、それで良かったと思ってた……けど。そんなこと無理って、今ならよくわかる」
 この熱を知って、それだけで満足できるはずがない。焦がれて、焦がれて、やがてどうにもなくなっていただろう。
「マッシュ。……すき。好きよ。……貴方を、愛してる」
「……俺もだよ」
 するりと横顔を撫でられて、静かに唇が降ってくる。
「ちょっと待ってくれな、……」
 言ってマッシュがそっと腰を動かすと、下腹部に違和感が走る。あれだけ中にいたときは異物感ばかり受けていたたのに、抜けたら抜けたで違和感とは、セリスはなんとも言いようのない気持ちになった。
 それなりの痛みも伴うが、こんなにも満たされた気持ちになる。変な行為だ、と思うが、それを唯一、この人なら、と思える人と共に出来た。それはきっと、奇跡のようなことなのだろうと思う。
 余計なことをあれこれと考えていると、ひどく眠気が襲ってくる。セリスは無意識的に、うとうとと瞼を閉じていった。
「マッシュ……」
「大丈夫。ここにいるぜ」
 安心させるように額に口付けられて、セリスは深くひと息を吐く。
「うん……」
「疲れただろ。ゆっくり寝な、後のことは起きてから考えたらいいさ」
「……うん……」
 ぬくもりを身体中に感じながら、気怠い充足感に身を任す。
 目が覚めたら、これまでとは世界が違って見えるのだろう。もうマッシュを訪ねるために、理由を考える必要はないのだから。

コメント

タイトルとURLをコピーしました