「……それなら、俺は受け入れることはできない。すまない」
彼がつらそうに口にしたのは、拒否の意志だった。
「いいの。私の方こそ……ごめんなさい」
月夜に、すべてがさらけ出され、そして終わった。
「もう行くわ」
引き留める声は、ない。彼にかける言葉ももうない。無理に平静を装う必要もなくなった。そう思った途端、ぼろぼろと涙がこぼれ出す。
彼に見せないように、その場から逃げるしかない。だが、最後まで彼の負担になることはしたくなかった。
「セリスー? 準備できた?」
「ええ、すぐ行くわ」
翌朝、ティナの呼びかけにセリスは腰当てに鞘をつけながら応えた。
今日は獣が原にできた洞窟の調査に向かう予定がある。あの原っぱは、不規則なモンスターに襲われることが多いので、油断はできない。
「お待たせ。ちゃちゃっと終わらせて、昨日貰った柚子のはちみつ漬け、食べましょ」
最後に髪を払い、セリスはにこりと笑んでティナのもとへ向かった。
「うん、そうね! あれ、とってもおいしかったよ」
「って、もう食べたの?」
「あ、ええと……」
緑の不思議な色合いの髪を揺らし、ティナは恥ずかしそうに顔を朱色に染める。
かわいらしいな、と思う。彼女がなにをしても、微笑ましくなる。
「私の分まで食べてないでしょうね」
「それは大丈夫、一個しか食べてないもの!」
「そ。じゃあ、今日はそれの分だけ頑張ってちょうだいよ」
「ええ、任せて」
ふわ、とティナは笑う。いつも通りの、なんてことはない会話だ。大丈夫、いつも通りにこなせている。
セリスは密かに胸を撫で下ろしつつも、再び気合いを入れ直した。
洞窟調査には居残り組のエドガーは、城から持ち込んだ仕事を飛空艇内の自室で片付けていた。
「……そうか。断ったんだな」
そしてそれと同時に、弟の話を聞いていた。
弟は、苦悶の表情で頭を抱えている。
「俺は、そんなつもり欠片もなかったんだ」
「まあ、おまえは誰に対しても優しいからな。彼女が惹かれるのも仕方ないだろう」
「違う、だってあいつは、……違うだろ。兄貴だってわかってるだろ?」
顔を覆い、弟は吐き捨てるように言った。
「彼女の気持ちが紛い物だと言いたいのか?」
「嘘とまでは……。けど、一過性のものだってのには違いないさ」
「……そうか」
エドガーは、ペンを止めた。
セリスが弟を好いていることは、サウスフィガロで一目見てすぐにわかった。
二人がどのような時間を過ごしてきたかは、知らない。だが、人が恋をするのに時間の長短は無関係だ。
「断った時、あいつはすぐに理解してくれた。きっとすぐに忘れるさ」
「彼女は強いひとだから、なんでもない風を装ったんだろう。これからも、それを続けるだろうな。そしてその度に彼女は傷付く」
「かもしれない。けど、俺はお互い一番傷付かない答えを選んだよ」
ぽた、とインクが紙に落ちてしまった。エドガーは慌ててペンをインク壺に刺す。
「……マッシュ」
「兄貴はわかるだろ、俺はあいつを傷付けたいわけじゃない。ただ普通に、仲間として、」
「マッシュ。おまえはもう、彼女に近付くな」
びくりと、弟の巨体が揺れた。
「触れるな。声をかけるな。優しくするな。……冷たくしろ」
弟が仲間としてでも彼女を思うならば、それが一番の策だった。
「兄貴、俺はあいつを拒絶したいわけじゃ……」
「もうしたんだよ。おまえは、彼女を拒んだ。それくらいわかってやれ。……彼女を受け入れないままで、これ以上傷付けたくないなら、近付くな。それが一番いい」
ゆっくりと、弟が顔を上げる。泣き出しそうな表情をしている理由を、自身でわかっているのだろうか。
「彼女はおまえを忘れないよ。だから、忘れさせてやれ。優しい思い出は簡単に黒く塗りつぶせるから」
幸い、彼女は立ち直りの仕方を知っている。
「それか、俺が代わりになろうか」
「……?」
「傷心のレディに付け入るのは心が痛むが……彼女を我が手にできるなら喜んでやろう」
弟のものなら、奪えない。だが、彼女は弟自ら手放したのだ。なにも枷はない。
「彼女の白い内腿に口付けの痕を残すのを想像するだけで、胸が高まるよ」
にこりと笑むと、弟はきっと睨み付けてから、忌々しげに視線を逸らした。
わかっている。弟は、彼女を汚れさせたくないのだ。美しく、溌剌とした少女のようなまま、生かしておきたいのだ。
だが、穢れに触れさせたくないと願っても、それは叶わない。
彼女は穢れを厭わない。自ら血を被り、罪を被り、そして歩く。
「修行僧は大変だな。自らの欲を律し生きねばならんとは」
「俺は、あいつ相手に欲なんて持ってねぇ」
「清い友のままでありたいと願うのも立派な欲だろう」
「……友情は禁忌じゃない」
禁忌とは、なんだろうか。禁じられた、忌まわしきこと。
情愛は、禁忌だろうか。忌まわしいだろうか。
僧にとって、性行為は神聖なものだ。新たな命を生み出す、聖なる行為なのだ。
だからこそ、快楽のためだけのそれを、彼らは良しとしない。
だが、愛する者を快楽に誘うことはそんなにも忌まわしいことだろうか。
それだけは相容れないな、とエドガーは苦笑した。
「友情はそんなにも美しいか?」
「……セリスとは友でいたかった」
「友情関係を壊した彼女が憎いか」
まさか、と弟は首を振る。
「あいつは悪くない」
「そうだな。彼女はただ、真っ直ぐなだけ。おまえを好きだと口にする強さがあるだけだ」
彼女の決意は、いかばかりだろう。愛を語ることはとても勇気がいるのだ。
「他者を愛することは悪ではない。愛を拒むこともそうだ。だからおまえも悪くはない。ただ、彼女をわずかばかりでも可哀想だと思うならば、友としての道すらも絶ってやるべきだと言っている」
「……俺が友のままでありたいと願っても、あいつはそれで傷付く……のか……」
極端なことを提案している自覚はあった。だが、彼女から弟を離さなければ。
「さて。……そろそろ出かける時間じゃないのか?」
「ああ。……」
洞窟調査には、セリスもいる。もう腹を決めねばならないのだ。
す、と弟は音もなく立ち上がる。
「長話したな。……もう行くよ」
「気をつけてな」
友のために、友を失う決意。それは苦い決断だったろう。
弟は、優しすぎる。優しくすることで誰をも救うことができると思っている。
だが、それは一方で誰かを傷付けるのだ。
(……少し、おまえはそれを学ぶべきだ)
エドガーは両手を組ませ、自らの腹部に乗せた。
獣が原の洞窟は、乾いた地質だった。岩盤が続き、険しい道のりが調査を阻む。
だが何よりセリスを消耗させたのは、調査の班員だった。
「……ティナ、大丈夫か?」
「あ、うん」
問われたティナも、不思議そうな顔をしていた。何故なら、彼は頻繁にそれを彼女にだけ、尋ねていたからだ。
あからさまに、こちらを無視しているのがわかる。
彼を傷付けたのだ、と自覚しないではいられなかった。だからこそ、セリスは何も言えなかった。
「ね、セリス。……マッシュとケンカでもしたの?」
こそりとティナが耳打ちしてきたが、セリスは精一杯なんでもないような顔で笑った。
「ケンカじゃないわ。ちょっと私が彼を怒らせてしまっただけ」
「謝っても許してくれなかったの?」
「……ティナは気にしなくて大丈夫なことよ。ほら、集中していきましょう」
ティナの細い背中を優しくたたき、先を急ぐ。
余裕がある様でいたかった。そうしなければ、余計に彼が苦しむことになる。
彼を傷付けるつもりなど、なかったのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
人を好きになることは、こんなにも罪悪だったのかと。
報われない愛は、こんなにもお互いを切りつけるのかと。
セリスは無表情のまま、唇を噛んだ。
泣きたかった。彼に無視される度に、彼の傷を見せつけられた気がした。こんなにも俺は傷付いたのだぞと、耳元で囁かれているような気がした。
友のままでいられたなら、どんなにか良かっただろう。だが、それはひどい苦しみを伴う時間でもあった。
結局、気持ちを吐露してしまったのは、自分がつらかったからなのだ。自分の身かわいさに、一方的に感情を投げつけただけなのだ。
彼が苦しみ、怒るのは至極当然なことなのだと思う。その怒りを享受する他に、彼に報いる方法は考えつかなかった。
だが、ふと思ってしまう。
友でいるのと、今のように無視をされるのと、どちらがつらかっただろうかと。
気持ちを伝えなければ、彼はこんなにつらくならなかった。
気持ちを持たなければ、自分もこんなにつらくならなかった。
(恋は、罪悪なの? ……それとも、私が罪悪なの……?)
わからない。わからない。
好きだと言うことが、こんなにも他人を傷付けるものなのか。
「……セリス、後ろ!?」
「ッ!?」
魔物の醜悪な吐息が、耳朶にかかった。
ゾッとして、剣に手をかけて振り返る。
目の前にあるのは、闇だった。否、魔物の巨大な口腔だ。
(間に合わない)
視界が嫌に、ゆっくりとする。鋭い牙が、こちらに向かって下りてくる。
だが、逃れられない。
ズグリと、低く響く音。肩口に、牙が突き刺さったのだ。
自らの血が、頬にかかった。
息が止まる。
牙が身体を突き抜けたのがわかった。同時に、鈍い痛みが身体中を駆け回った。
「――セリスッッ!!」
(マッシュの声だ)
悲痛な叫びだった。だが、幻聴かもしれない。
ずる、と血に濡れた牙が抜けていく。
傷口から血を噴き出し、セリスはその場にくずおれた。
優しく額を撫でる手がある。
あたたかで、大きいその手のひらは、幾度となくそうしていたようにセリスの額を撫でていた。
(……マッシュ?)
いつだったか、二人で旅をしていた時、セリスが魔物の毒に倒れた際、彼はこんな風に傍にいて、優しく額を撫でていてくれた。
(あの時の私はただ、貴方の優しさが嬉しかった。……)
いつからだろう、優しくされるのが苦しいと感じるようになったのは。
仲間として、友として、優しくされる度に、とても苦しくなった。
贅沢になったのかもしれない。彼の優しさに溺れていたのかもしれない。
「気がついた?」
囁く声に、セリスははっとして目を開いた。
「君が倒れたと聞いて……心配で仕方なかったよ」
そこにいたのは、エドガーだった。
「ティナが回復してくれたけど、まだ無理はしないほうがいい」
ふ、と彼は端正な顔で笑う。笑った時の目元が、よくマッシュに似ていた。
「……いつから、そこに?」
「ああ、ずっとだよ。どのみち、君が目を覚ますまでは仕事が手につかないから」
ずっと、額を撫でていたのは、エドガーの手だったのだ。
当たり前じゃないか、とセリスは自嘲した。そんなわけ、あるはずがないのに、何故まだ期待してしまうのか。
「……君らしくない失態だったね」
エドガーは目を細め、セリスの頬をするりと撫でた。
「なにか迷いがあるのだろう?」
彼は本当に、人の心の機敏を察するのがうまい。
いや、それだけではない。恐らく、彼はすべてをわかっているのだろうと思った。
「……言う必要は、ないでしょう」
セリスは淡々として返す。
「まあ、そうだね。……君は本当に賢いひとだ」
エドガーはくすりと微笑み、セリスの顎下に指先を滑らせた。
「なに?」
不審に思って、短く問いかける。
「俺が忘れさせてあげようか」
「……なに、を」
ずいと顔を寄せて、尚もエドガーは余裕げに微笑む。
「結局はあいつも君を傷付けた。君はもう傷付くべきじゃないのに」
「エドガー、違うの、彼が傷付けたんじゃない。私が彼を」
「まだ庇うのかい? ……やっぱり忘れられないだろうね、君ひとりじゃ」
「……忘れ、ないと、……彼の負担になり続ける……の?」
それだけは嫌だ、と思う。どれだけ傷付けられようが、もう傷付けたくない。
エドガーは少し困ったふうに眉を寄せて、ゆっくりと、触れるように口付けた。
「……君が嫌がるなら、これ以上はやらないよ」
彼は本当に、忘れさせてくれるのだろうか。
自分の心が揺さぶられているのがわかる。
「けど、これだけはわかってほしい。俺は真剣に君を愛せる」
愛せる。その言い方は、限りなく慈愛に満ちたものだった。縛るためのものではなく、新たな関係を結ぶための言葉だ。
気持ちよりも先に、関係をつくってしまえば。もう傷付かないで、済むのだろうか。
「……エドガー、」
彼の紳士的な青い目が、優しく注がれる。
「俺にチャンスをくれないかな。俺はあいつとは違うってこと、わからせてあげられるよ」
似ている。だが、彼らは違う。
代わりにはならない。
代わりにはしてはならない。
(エドガーを愛せたら、良かったの?)
愛に正解など、あるのか。
マッシュは間違いだったのか。
わからない。怖いほど、なにもわからない。
「……忘れて、しまいたい」
「うん」
「でも、貴方を利用するような真似は……したくない」
「俺の心配かい? ありがとう、でもそれは杞憂だよ」
再び、エドガーの唇が己のそれに重ね合わされる。だが、先ほどのものとは打って変わって、彼の口付けは情熱的だった。
彼の舌が、唇を舐めつつ割って入ってくる。
「ん……」
鼻に抜ける自分の声が、ひどく変な感じに聞こえた。
エドガーは両手でセリスの顔を包み、深く深く口付ける。
未知の感覚に、身体が震えた。
(い、やだ)
何に対してなのか、不意にそう思った。
(いやだ、怖い)
仲間でしかなかったエドガーに、自分が何をされているのか考えると、怖くなる。
つまりは、そういうことだったのだ。身を持って、マッシュの怒りの意味を実感させられたのだ。
(……でも、エドガーを好きになれたら、怖くなくなる、よね)
エドガーは口は達者だし、身体も鍛えている。顔つきはそれはそれは端正だし、低い声も嫌いではなかった。
決して、嫌いではないのだ。むしろ仲間として、好きなくらいだ。
不可能なことではない、と思う。むしろ簡単だ。彼を異性として好きになることなんて、いとも容易いことだった。
「君に後悔はさせない。ただ俺を感じていて……」
「ん…………ぁうっ……」
貪るようなキスの後に、エドガーはセリスの首筋に吸い付いた。
びくりとして彼を見上げると、いたずらに微笑み返された。
「病み上がりだから、ここまでにしておこう。初めてなら尚更ゆっくりやらなくてはね」
ふふ、とエドガーはにこにことしながらセリスから身を離す。
「君のかわいい声、もっと聞きたいな。俺だけが知ってる、君の秘密だから」
恥ずかしげもなく、よくも言えるものだ。だが、エドガーにそれを言っても暖簾に腕押しだろう。
「俺たち、きっと良い恋人になれるよ」
「……努力、するわ」
「その必要はないさ。俺にべたぼれにしてあげるからね」
エドガーの明るさに、救われる。口付けなんて、とても軽いものなように思えた。
あれくらい、別に普通なのだ。罪悪を感じる必要もないくらいに。
選ぶべきは、罪のない道。誰も傷付かない、優しい道。
たとえそれが、かりそめでも。
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