暑い、とただ思った。
汗の不快感に目を開けると、白塗りの天井がそこにあった。綺麗な壁だ。少なくとも、帝国よりは。
「お? 目ぇ覚めたか」
真横からやわらかくかけられた声をセリスはぼうっとしたまま聞き流すところだった。
「安心して大丈夫だ、ここは俺の……いや、違うか。兄貴のフィガロ城さ」
飛び起きたセリスに苦笑しつつ、ベッドの脇に座っていた筋肉質で大柄な男は自身の髪を撫で付けた。
彼の横の大きな窓から射し込む日差しに目を瞬いてからセリスは一瞬、これは誰だったか考えた。が、すぐに思い出せた。
「マッシュ……だったか」
「ああ。体調はどうだ?」
「体調?」
「覚えてないのか? 脱水症状で倒れたんだぞ、セリス」
「倒れた? ……」
さらさらとしたシーツを掴み、記憶を遡る。確かに、砂漠越えの最中に始終気分が悪かったのは覚えているが。
「……すまなかった」
「うん? ああ、大して重くなかったし、あんま気にするなよ」
「へっ?」
にこ、と無邪気に笑うマッシュを見て、一瞬脳裏に違う男が映る。
「そうか……迷惑を、かけたな」
やんわりと首を振り、マッシュは依然として笑っていた。
「いいって。それより、水飲んだ方がいいぜ。ほら」
そうして、サイドテーブルに置かれたコップに水を入れ、差し出してきた。
「ああ……」
それを受け取り、両手でコップを包むと、ひんやりとして気持ちがいい。そう思ってから、自分が水を求めていたことを知った。
「……美味しい。染み入るよう、とはこのことだな。ありがとう」
「いや。……砂漠だと汗をかかないからな。無自覚で脱水症状になっちまったりするんだ。今度は気をつけろよ?」
セリスはその言葉に思わずどきりとし、コップから口を離した。いつか、同じように言われたことがあったからだった。それはこの男にではなく、だがよく似た雰囲気ではあるような気がした。
「セリス?」
「わかってるわ」
口をついて出た言葉に、はっとして口を塞ぐ。それはあの時にもした返事ではなかっただろうかと。
「セリス、死にたくなければ戦場で気を散ずるな」
大きな背中が、身動ぎもせずに立っていた。
「私には魔法が……」
「言うな。それは言い訳だとわかっているだろう」
「でも……魔法があるから、私はここにいる。それは事実だわ!」
「セリス」
低く名を呼ばれ、セリスはびくりと体を震わせた。
「魔法に頼りすぎるな。……いずれはお前自身を滅ぼすことに繋がりかねない」
その言葉を噛みしめようと、ぐっと拳を握った。他の将校にも似たようなことを言われたことがある。だが、彼の言葉にだけは、妬みや羨望が皆無に感じられた。
「いいか。今度からは気をつけろ」
命令口調ではあったが、その言い方はひどく優しくて、あたたかかった。なぜだか鼻がつんとして、目が熱かった。
だが意に反して、自らの言葉は不満げに返された。
「……わかったわ」
広い背中は微動だにしなかった。
「……ってわけだから」
「えっ?」
「え? って……聞いてなかったのか?」
意外そうな顔をして首を傾げるのはやはり違う男で。
「……ごめんなさい。少し考え事をしていて」
「あー……つまりだな。手が空いてるのは俺だけだったんだ」
「? だから、何?」
セリスが本当に一から聞いていなかったのを悟り、マッシュは困ったように腕を組んだ。
「なんというか……兄貴もロックも、別に君を放置してるわけじゃないぞってこと」
尚更意味がわからない、と思ってセリスは顔をしかめる。だからなんだ、ともう一度問うと、マッシュも眉を寄せた。
「どうやらうまく伝えられなさそうだなぁ……うん、それなら事実を言おうか」
「……ならそうして。その方が理解しやすそうだ」
嫌みのように言ったが、果たしてマッシュはわかっているのかどうか。
「兄貴は城のメンテナンス、ロックは情報収集とナルシェとの連絡。これと言ってやることがないのは俺くらいだ」
「ああ……だからここに?」
「職業柄、一応は応急手当てとかにも精通してるからな。それに……」
かりかりと少年のように鼻の頭をかき、マッシュは照れたように笑った。
「久しぶりに帰ってきたせいでちやほやされるのも嫌だし……」
「なるほどね……そういえば、あなたは王族なのだったな」
見えないけれど、と苦笑しそうになったが、思いの外マッシュが苦々しい表情を浮かべていたことに気付いて、セリスは口を閉じた。
「それは昔の話だよ」
そうか、だから先ほどフィガロ城を兄の城だと言い直したのか、と思った。
「……では今は違うと?」
ふ、とマッシュは笑った、ように見えた。
「……さ、これ以上は病人に話すようなことじゃない。もう休め。さすがにまだ本調子には程遠いだろ?」
それ以上、マッシュは話そうとしなかった。踏み入れてはならない領域なのだろう。
すっとマッシュが手を差し出してきたので、その手に空のコップを渡す。
「うん、これならリゾットくらいは食えそうだな」
「いや。普通の食事で構わない。それまでには魔法で回復させておく」
当たり前にそう言ったのだが、マッシュは怒ってはいないようだが、口を尖らせた。
「あのなぁ、いくら魔法が便利だからって言っても、飯を甘く見るなよ? 医食同源、そのためにまずは胃を労ることからだ」
「わ、わかった」
よくわからない気迫に圧され、思わずセリスは布団を握って頷く。
それに満足したように、マッシュはいっそ無邪気に笑って立ち上がった。そして背中側から何かを取りだし、セリスに見せびらかすように振った。
「! 私の……」
「じゃ、それまでこれは預かっておくからな」
「あ! ちょっと……!!」
「昼食はリゾットだけど、夕食は期待してていーぜ。うちの料理人の腕は確かだから。じゃあ、また後で」
ばたん、と扉が閉められ、セリスは伸ばした手を力無くベッドに落とした。
「……なんなの?」
マッシュが持ち去ったのはセリスの剣だった。武器がなくても戦えるが、しかし枕元にある方が落ち着くものだ。それなのに今まで手元にないことに気がつかなかった。
「マッシュ、か……」
懐かしいようなあたたかさを漂わせる男だった。だが、一瞬感じた違和感はなんなのだろう。
そう考えつつ布団を手繰りよせると、頭に浮かぶのは帝国の情景ばかりで。
頭から吹き飛ばそうとセリスは首を振った。もう二度と会うことはないだろう。帝国に離反した時点で、彼とは決別したのだ。彼の正義はセリスの正義とは一致しなかった。自分の中の確たる正義の形など一向にわからないが、しかし彼のとは違う。それは知った。
ここで本当に見つけられるだろうか、という不安とも焦燥とも言える気持ちが、セリスを覆う。
「……レオ」
口に出してみると、その音の懐かしさに背徳さえ感じられる。ぞくりとして、セリスは体を震わせた。
また布団を掴み直し、そうしてやっと、セリスはそれが絹でできた上等なものであるのに気づく。訝しみつつ部屋を窺うと、今までどうして注意しなかったのだろう、ただの客室にしては少し豪華すぎやしないだろうか。
壁にかけられた何気ない絵画。少年が湖畔に佇んでいる。その少年の姿はまるで、今さっきまでそこにいた男を小さくしたような。
「まさか……ね」
「さ、しっかり食べてくれ」
エドガーが座ってから、セリスも椅子を引いて食卓についた。マッシュに言われた通り、確かにテーブルに並べられた夕食はご馳走と呼ぶに相応しかった。
色々と世話を焼いてくれたことに改めて礼をしたかったのだが、夕食の席に彼の姿はなかった。
「あ、セリス。もう大丈夫なのか? 脱水だったらしいけど、もう頭痛とかはないか? 昼飯はちゃんと食ったか?」
遅れて食堂に現れたロックがセリスを見つけ、ひどく心配をするものだから、やや押され気味にセリスは頷いた。
「そうか、良かった……マッシュに頼んどいて正解だったぜ」
「頼んだ?」
「ん? ああ、まぁ……悪かったな、見舞いにもいけなくて」
ロックは照れているのか鼻の頭をかいた。
「いや、それは構わないけど……」
セリスはなんとなくがっかりした気分だった。むしろ、勘違いしていたことがなんだか恥ずかしい。
「その……マッシュに礼を言いたいと思っているのだが」
だが、実際献身的にしてくれていたことは確かだ。
セリスの言葉に、ロックは僅かに驚いた風に見えた。
「そうか。あー、でも今ナルシェからカイエンとガウが来ててな? そっちに行くって言ってたぜ」
ロックは苦々しい表情でそう言った。カイエンは帝国への憎しみがリターナーの中でも人一倍強い。険悪な雰囲気になるだろうとはわかっているので、セリスとカイエンたちは一緒の部屋で食事はさせないのだろう。
「あの二人についてはマッシュに任せておこうと思ってね」
今まで黙ったままだったエドガーが、ワイングラスを揺らしながらそう呟いた。
「城にも詳しいし、なにより人好きのするタイプだからね、あいつは」
「確かに、嫌味を言う方よりはよっぽど付き合いやすいかもな」
フォークを指先で器用に回し、ロックは舌を出す。エドガーは上品に笑った。
「それは誰のことかな。一応、私は仕事柄、そういう風を装っているだけさ?」
「……なんか、お前が王様で正解っぽいな」
「それは光栄だね」
その会話をなんとなく聞きながら、この双子の違いについて考えていた。
エドガーはさすがに王様、謙遜もしなければ、あるのかも謎だが劣等感をおくびにも出さない。
セリスもロックの言葉に大いに賛成だった。
「それはそうと、セリス、部屋の使い心地はいかがかな」
「……少し、私にはもったいない」
「そうかい? レディには良い部屋を、と思ったんだが」
「あれは来賓用の部屋ではないのか? だとしたら、部屋を変えてほしい。私は普通の……」
「来賓用ではないよ」
エドガーは意味ありげに笑う。
嫌な予感に、セリスはわざと首を傾げた。
「それではまさか、王室だとは……」
その言葉に、エドガーは上品に含み笑った。
「それはさすがにないよ。安心してくれて構わない。……あの部屋は今は使う人がいなくてね。それなのに城のみんなは毎日欠かさず掃除していて……たまには君のような麗人に使ってもらうとみんな喜ぶだろう」
「ふーん……昔は誰が使ってたんだ?」
「マッシュだ」
女性との会話に水を差され、エドガーは声だけ不機嫌に答えた。
「あ、そうか~あいつ兄弟だもんなぁ。なぁセリス、部屋はどんな感じだった? やっぱエドガーみたいに悪趣味か?」
「えっ? ……いや、高価だけど上品な感じ……というか、エドガーは悪趣味なの?」
「そりゃもう」
「……ローック?」
「う、嘘うそ! すごく趣味が良いぜ!!」
ふ、と思わずセリスは吹き出した。それを見て、ロックとエドガーもやわらかに笑った。
こんな風に和やかに笑いながら夕食をとるのは初めてだった。
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