「え? あいつの好きなもの、かい?」
ようやく城を砂中から助け出してから約二日。フィガロ城の執務室で、エドガーはセリスの唐突な問いに目を丸くした。
「そう。兄である貴方なら知ってるでしょ?」
「そりゃあね。しかし、一体全体どういうわけか、教えてくれるかな」
セリスは反帝国組織リターナーの仲間だったのだが、エドガーの実弟であるマッシュと共に長らく旅をしていたらしい。エドガーがなんとかフィガロ城に潜入する算段が立ったという時、三人は運良く再会したのだった。
城の機関部に巣くっていた魔物は二人の力を借りて倒し、砂に閉ざされた中で奇跡的に生きていた城の者たちは、セリスの持つ人外の力によって癒すことができた。あまりにもありがたい天の采配に、これほど感謝したことはない。
エドガーは羽ペンを止めて、目の前に立つセリスを見上げた。彼女は一年前から、本当に美しい女性だった。光る金の髪は誰より麗しく、涼やかな目つきは他者の目を惹きつけて止まない。むしろ彼女の魅力は増しているとさえ言えた。内なる強さ、熱さをその瞳にたたえるようになったからかもしれない、とエドガーは少し思った。
「別に、理由という理由があるわけじゃないの。今までずっと彼に甘えてばかりだったから、少しは何かしたくて」
「なるほど、お返しなんだね?」
セリスは至って冷静といった風で、頷いた。
「ええ。まあ、そういうことよ」
頑張ってそう振る舞っているのだろうことには気づかない振りをしてやったが、彼女は単純に、迷っているのだろうとエドガーは思った。彼女は軍という特殊な団体で育ってきた。普通の人付き合い、というものの経験もあまりないのだろう。
自らの行動は変では無いか、と不安なわりに、その不安は口には出さない。それが彼女なりの意地なのだろうと、エドガーはやわらかに笑む。
「ありがたいことだね。我が不肖の弟を気にかけてくれているとは」
「き、気にかけてるとか、そういうわけじゃ……」
途端に手を振って、怒りとも照れとも取れる風にセリスは顔を赤らめる。その反応がなによりも全てを物語っていることに気づかないのが、セリスという人間だった。戦いの際の指揮はエドガーに匹敵する精度を持つ代わりに、割合、人の心に疎い。もしかしたら、将軍であった時分に、他人の心を読み取ったとて良いことなど何も無かったのかもしれない。若い女の身である彼女が将軍である為には、それは欠乏していたほうが良い要素だったのだろう。
ティナは帝国に過去を奪われたが、セリスは帝国に過去を縛られた。不憫な娘たちだ、とエドガーは羽ペンをインクボトルに挿して、無沙汰になった指を組む。
「そうだなぁ、食い物ならあいつは何でも食うよ。ただ、昔から胡桃が好きだったかな」
「クルミ? ……王族、なのに?」
「シェフの料理はもちろん美味しい。だけどそれ以上に、自分で採った食べ物はもっと美味しいんだ……ってさ。昔は体が弱かったから、よっぽど外に出られるのが嬉しかったんだろう」
「ああ……なるほど」
おや、とエドガーはセリスを見上げた。
「驚かないのかい?」
「え?」
「あいつが体が弱かった、なんて嘘みたいだろ」
ああ、とセリスはふんわりと目を細める。
「そうね。今から考えると、すごく意外だわ」
彼女のその言葉に、エドガーはくすりと笑って頷いた。
「自分でもそう思ってるらしいよ」
だからあいつはその事を、あまり他人に話すことはないのに。そう思ったが、しかしそれ以上は弟の面子にかけて言わないことにする。鈍感の二乗のこの二人は、一体いつになったら進み出すのか楽しみでもあり、心配でもある。そもそも二人の間に本当にそういう気持ちがあるのか、判断に迷うほどだ。
「努力であそこまで実力を手にするなんて、本当にマッシュらしいなって思う」
そうだな、とエドガーは相槌を打つ。それが弟の取り柄なのだ。弟をわかってくれる人がいることをとても嬉しく思うのは、何も兄バカだからではないはずだ。
「私も羨ましいよ。あいつのひたむきさや、揺るがぬ強さがね」
個人としても尊敬することのできるあれが、実弟であることが誇らしいのだ。エドガーがつい笑っていると、その様をセリスがじっとを見ている。
「貴方たちって……本当に二人して同じようなことを言うのね」
「うん?」
「マッシュも、兄貴には、俺なんかじゃ比べものにならないくらい、強い信念があるんだ、って言ってたもの」
わざわざマッシュの声の調子を真似て言うセリスに、なんとなく微笑んでしまう。そもそも、他人の言葉を引用する時に声調を真似るのはマッシュの癖だ。そのせいでよくござると言うようになっているが、まあ愛嬌のうちだろう。
いつも一緒にいる人間の癖はうつると言うが、果たしてセリスは気づいているのかどうか。
「……そこまで言われちゃ、わかったよ。マッシュの奴をとびきり喜ばせてやろうか」
「本当? 何か良い案があるの?」
「ああ。ちょっと大変だけど……ま、君の腕次第かな」
頑張れよ、とエドガーは肩を竦めてみせた。
エドガーに言われて、セリスはフィガロ城の巨大なキッチンに来ていた。すっかり掃除はされきり、砂の一粒も落ちていない清潔な場所だ。いや、清潔な場所だった。
「……そろそろですかね?」
「ええと……はい」
神官長が優しく教えてくれるのだが、もう何回やってもそれは思い描いた通りにはならない。案の定、オーブンを開くと、今度は真っ黒に焦げた塊が燻っていた。辺りにはあまり良くない、焦げた匂いが立ちこめている。
「……あらあら」
それを覗き、神官長は苦笑した。
「す、すみません……」
とても丁寧に教えてもらっいるのに焼き菓子も作れないなんて、あまりにも不器用、というか、そういう次元を超えている気がする。せっかく教えてもらっているのに不甲斐なくて、セリスは頭を下げる。
「いいえ、セリス様。謝る必要などございません。それに、先ほどの生焼けよりは香ばしいと思いますわ」
「でも、成功には程遠いです」
「何を仰います、少しずつ近づいておりますよ」
穏やかに微笑む神官長は、心苦しいくらいに優しかった。もしかしたら鞭で叩かれた方がよっぽど成功に近づくのでは、と思ってしまうのは悲しい性だった。
「もう一度、やってみましょう? 時間はたっぷりあることですし」
「……はい」
よし、とセリスは深呼吸をして材料を揃える。自分にがっかりしている暇があるなら、とにかくやるしかない。
「セリス様」
「あ、はい」
「あまり気負ってはいけませんよ。食べてくれる方の笑顔を想像してつくることが、一番のコツなのですからね」
食べてくれる人の笑顔。誰の為にこんなことをしているのかを知らないわけではないのに、神官長はそう言った。
「……ね? つくり甲斐がありますでしょう?」
くす、とまるで彼らの母のように、神官長は笑む。つられてセリスも、目を細めた。
夕方になり、大半の職務を終えて執務室を出てきたエドガーは、見慣れた人影に足を止めた。
「マッシュ!」
「お、兄貴。仕事終わったのか?」
己と瓜二つな顔がにこりとし、なんとなく安堵してしまうのは仕方のないことだ。
「大体はな。ところで、今日セリスとは会ったか?」
「セリス? どうしてだ?」
きょとんとする弟に、エドガーは全く表情を崩さずに首を傾げてみせる。
「いや、別に。おまえたちが一緒にいないのも変だなと思ったまでさ」
「……そりゃ、ずっと一緒ってわけにはいかないだろ」
そう言うと、マッシュは苦笑する。その言葉が本来以上の意味を持つような気がして、エドガーは片眉を上げた。この弟は生来、事を難しく考えたりはしない。きっと気のせいだろうが、気のせいでなければ結構重症の類いの可能性もある。
「ま、そりゃそうだが。……やれやれ、フィガロの癒しの姫君は何してることやら……」
セリスはああ見えて、日常事にはいたく不器用だ。多分ばあやの手を煩わせているのだろう、おかげでこちらにはばあやの小言が飛んで来ずに助かってしまったが。それにしたってずっと帰ってこないのは、思っていたよりこちらも重症かもしれない。
「そういえば、マッシュ。おまえ、セリスと結構長く二人旅してたそうじゃないか」
「おう、まあそうだな」
「何かあったりしないのか? 男と女、子どもじゃあるまいし」
「あるわけないだろぉ? 兄貴じゃあるまいし……」
「でも、まんざらでもないんだろ」
エドガーの追い撃ちに、マッシュは明らかに顔をしかめる。
「あのなぁ……」
困った風に髪をかき、マッシュはその大きな肩を少し落とした。
「そりゃ、あいつは綺麗な方だとは思うけどよ。だけどな、俺は同じ部屋で雑魚寝したりもしてるし」
「ほう、それで」
「それでって……だから、つまり……あれに手を出さない男なんて、いるわけないだろ?」
「ほう、その認識はあるんだな。……だが、お前は手を出さなかった。……その程度にしか思ってない、とでも?」
情けなさで、エドガーはつい大きなため息をついてしまった。据え膳をみすみす食い逃す馬鹿が、まさか自らの弟だとは。男の風上にも置けない。エドガーの価値観では、据え膳はありがたくいただくもので、不要だからと下げさせるなど、そんなのは相手にも失礼なことだ。
「……まぁ、そういうことだよ」
しかし、希望はあった。そう呟くように言ったマッシュが、とりあえずはそういうことにしておいてくれというような言い草だったからだ。そんな僅かな機微など、双子にしかわからないが。
「あっ、噂をすればあの美しい影はセリス」
「えっ!」
「おっと、人違いだったな。……さて、おまえ何故慌てた? 聞かれたらまずいことでもあったか?」
マッシュは青い瞳を大きく開いたまま、兄を睨んだ。
「……嘘つきは泥棒の始まりだぞ」
「俺が泥棒なら、おまえだって立派な泥棒さ。いっそ二人で泥棒稼業でもするか? 双子で泥棒なんてセンセーショナルでなかなか良いかもしれん」
嘘つきと遠回しに言われて、マッシュはしかし何も言い返せないようだった。実際、焦ったのは事実なようだから。
「……冗談はやめてくれよ、先祖が泣くぜ」
「墓の下で泣かれたところで何も聞こえんさ」
「バチ当たりだな~、……まったく……」
はあ、とため息を漏らしてから、マッシュは指を振って、とにかく、と釘を刺す。
「俺のことは放っておいてくれって。べつに……なにも考えちゃないんだから」
マッシュの言葉に、エドガーはふうん、と軽く返事して、腕を組んだ。
「……昔から変なとこは頑固なんだよな、おまえ。一度こうと決めたら梃でも動かない」
なぁレネ、とエドガーは笑う。マッシュはばつが悪そうに頬をかいていた。
「……あ、いた。マッシュ?」
凛とした、涼しげで、けれどどこか情熱的な声が廊下の奥から響いてきた。途端、びく、とマッシュの身体がわずかに跳ねる。
「せ、セリス?」
噂をすれば、本当に来たようだ。やや慌てる弟を無視し、エドガーはセリスの手を取ってその白い手の甲に軽く口づける。
「やあ、セリス。今日も美しいね」
セリスは片眉をあげて、エドガーをちらと睨んだ。
「さっきも会ったじゃない」
「つい言いたくなるのさ、美しいレディには会う度に何度でも」
で、うまく出来たのかい? と小声で問うと、セリスは少しはにかんで頷いた。年相応にかわいらしいその表情に、エドガーも少し、心打たれそうになる。
「そうか。良かった、頑張りたまえよ」
「……いーかげん、離れろよ兄貴」
明らかに不機嫌な声で、マッシュが目を遊ばせて言う。なんともまあ、わかりやすい男だ。兄に向けて嘘をついた意味もこれでは全くないではないか、とエドガーは苦笑する。
「わかったわかった……で、セリスは何か用があるんだろ?」
「えっ? あ、ええっと」
エドガーがセリスの肩をくるりと回して、マッシュに向き直させてやると、視線を泳がせながらも彼女は懸命に言葉を紡いだ。
「あの、実は神官長さんにお手伝いいただいて、お茶の用意をしたの。……今、時間あるかしら?」
え、とマッシュは虚を衝かれたような表情を浮かべた。そして、困ったようにエドガーに視線を寄越してくる。俺を見たって仕方ないだろ、と思いつつも口には出さず、エドガーは弟を完全に無視してセリスに笑んだ。
「素敵なお誘いだね。私はまだ仕事が残っているんだが、この弟なら今まさにちょうど暇らしいよ」
「そうなの?」
残念とも嬉しそうとも思える声で、セリスはマッシュを見上げる。
「えっ? ああ、うん、まぁ……」
「良かった! ……じゃあ、エドガーには後で届けるわね?」
「ああ、わかった。楽しみにしているよ」
「ええ、お菓子は冷めてもしっとりして美味しいみたいだから、大丈夫だと思うわ」
「なるほど。焼きたてが羨ましいな、マッシュ?」
「え、あぁ……そうだな」
「それじゃあこっち、マッシュ」
歯切れ悪く返して、そのままセリスについて歩いてゆく弟をその場で見つめながら、エドガーは苦笑するしかない。あいつはやっぱり修行が足りてない、と前髪を軽く撫でつけて。
「引くばかりじゃなくて、男は押さないとなぁ……」
ふぅ、とため息混じりに呟いて、エドガーは暮れる空を眺めた。
「お、……なんかいい匂いがするな」
「そうでしょう? 神官長さんのおかげでとっても美味しく出来てるから、期待してて」
セリスは足を緩めずに歩きつつ、そう返す。そうして、つかつかと歩く速度がなんだか速くはないだろうか、とふと自問した。
「……あ、ごめんなさい、急ぐ必要はないんだけど」
とにかく食べてほしいという気持ちが急いてしまって、つい早足になってしまっていたのだと、セリスは思わずマッシュを振り返る。と、思いのほか目の前にその分厚い胸板があって、ギョッとしたのも束の間。
「きゃっ」
「お、っと、悪い!」
岩盤にでもぶつかったかのように弾き飛ばされて、後ろに大きく反ったその背中を、マッシュが難なく支えてくれる。
「大丈夫か?」
「え、え、えーっと……大丈夫、ありがとう」
挙動不審にならないように、それだけ返した自分を偉いとほめつつ、セリスは慌てて体勢を立て直す。するりと離れていくたくましい腕に、こっそり息を吐いた。
「急ぐと良くないわね」
自嘲めいてセリスがそう言うと、マッシュはぱちりと瞬いた。
「でも作りたてなんだろ? せっかくなら早く食べたい」
「そ、そうね……その通り」
無邪気に返されて、変な表情になりそうになってセリスは慌てて唇を噛んだ。危なかった、と思いつつ、改めて先導して歩き出す。自分ならこんなことは真っ直ぐ言えない、ということを、マッシュは平気で笑っていってくる。それが彼の良いところでもあり、セリスの心臓を悪くさせているところでもある。
「……あら、マッシュ、セリス様。お待ちしておりましたわ」
神官長が出迎えてくれて、夕日が差し込むひと部屋にマッシュを案内する。辺りにはもうバターと小麦粉のしあわせな匂いが立ちこめていて、恐らくは誰であっても頬が緩むだろう空間になっている。
「お、すげぇキレイにセットされてるなぁ!」
マッシュはまず一番に、テーブルセットそのものをほめた。え、と驚きつつ、セリスは髪を耳にかけた。
「ありがとう、その。私が選んだの」
「そうなのか? 言われてみると……茶器の柄もなんだかセリスらしいな」
まさかそんなところを気に掛けて見る人だとは思ってもみなかったので、突然金づちで殴られたかのような衝撃に、セリスはつい目が白黒してしまう。
テーブルクロスから、その真ん中に置いた花瓶、茶器まで、神官長に教わりながらバランスよく選んだつもりだったが、メインでもなく細々としたものなので、マッシュの目に入るものではないだろうとすっかり思い込んでいた。
「ああ、この良い匂いはパウンドケーキか……それにこっちの焼き菓子も? すごいなこんなに、しかも俺の好きな胡桃ばっかりだ」
瞬くその目は子どものように嬉しさが滲み出ていた。それを見て、セリスは思わず胸元のむず痒さを抑える。
「しかし、……なんか良いことでもあったっけか? 正直、こんなにもてなされるワケが俺にはあんまりない気がするんだが……」
「え? それは、ええと」
なんとなく神官長に目を向けると、にっこりと笑って返されるのみで、きちんと言いなさいと無言の圧がかけられる。有無を言わせない笑顔に、なんとなくエドガーの普段の苦労が忍ばれた。エドガーが抗えないものに抵抗できるはずもなく。セリスはわずかに息を吐いてから、指先を合わせて気を紛らわせつつ、なんとかマッシュの問いに答えた。
「これは、その。つまり、これまでのお礼というか、お返しというか、……なの」
「お礼? ……俺、何かしたっけか?」
「あの、具体的に何かというのじゃなくて、つまり私とこれまでここまで来てくれてありがとう、っていうか……そう! 貴方がいたからここまで来られたから、そのお礼ってこと」
え、と今度はマッシュがきょとんとして、数度瞬く。そんなに素っ頓狂なことを言ったろうか、とつい神官長に目をやる、と、忽然とその姿が見えない。
「あ、あれ、神官長さん……?」
いつの間にか二人で部屋に取り残されている事実にぽかんとしたのも束の間。
「セリス、……」
名を呼ばれて振り向いて、よく見なくともマッシュの顔が真っ赤になっていた。何故? と呆然と思って、しかし用意したこれらのことにそうなっているのだ、と思い至り、セリスこそ、じわじわと頭が熱くなってくる。
「ありがとな。嬉しい、……さっそく食べてもいいか?」
「あっ、それはもちろん! すぐお茶もいれるわね、座って!」
なんとなく全てを打ち消すように大きな声で応えてセリスが椅子を引くと、まるでそうされるのが当たり前のような動作で、マッシュは席についた。自分がもてなそうとした人間の出自に一瞬冷や汗が出たが、いい匂いだなぁと唸っているその様を見れば、そんなことはどうだっていいと思えた。
「至れり尽くせりってやつだな、なんかすまん」
「いいの、お客様なんだからじっとしてて」
習ったとおりに、温めた茶器に湯を注ぎ、茶葉を浸す。じっくりと染み出してくるまで蒸らして待つのだ。
「それもばあやに教わった?」
「そう。全部ね、……私はあまり、ものを知らないから」
「いいな、知らないことが多いとワクワクしないか?」
にこりと言われて、セリスは思わず手を止めた。
「ワクワク? ……そう、そうね……」
本当に、この人にかかればあらゆる悩みなど吹き飛んでしまうのではないかと。セリスはついそう思った。
「このケーキ、切ってもいいか?」
「駄目よ、あなたは良い子でちょっと待ってて」
伸びてきた手をぴしゃりと叩き、セリスはナイフを握る。正直、ケーキカットくらいしか自信があるものがないのだ。それを取られては敵わない。パウンドケーキはくるみをたっぷりと混ぜた生地に、さらに上にも飾りにナッツを乗せている。香ばしく焦げ目がついていて、ナイフを入れるとザクザクと鳴った。刃から伝わる焼け具合の良さに、セリスはほっとした。
「……俺がやらなくて正解だなこれ。すごい綺麗な断面だ」
「そうでしょう? ああ、お茶ももう大丈夫かしら。それじゃあ遅くなってしまったけど、どうぞ召し上がれ」
深い琥珀色の紅茶をカップに注ぎ、切り分けたケーキを差し出して、これできちんとやりきった。達成感にふーっと息を吐くと、マッシュがにっこり笑いかけてくる。
「ありがとうな、それじゃ……いただきます」
大きな手なのに、ひどく繊細に茶器を扱うものだ。セリスはマッシュの向かいに座って、その様をまじまじと見てしまう。
「……そんなに心配しなくても、ちゃんとうまいぞ。セリスも一緒に食おうぜ」
苦笑まじりに言われて、セリスは慌てて視線を自分のカップに落とす。茶は渋みもなく、うまく出せたようだ。なんなら練習で飲んだ時の渋みが今も口に残っているかのようだったので、入れ方でこんなにも変わるのだなと思う。
「くるみのパウンドケーキかぁ。……いや、悪い。手でいってもいいか?」
せっかく食器を並べてあるのに申し訳ないが、とマッシュは頬をかいて笑う。
「おいしく食べてくれるならなんでもいいわ」
セリスが笑ってそう答えると、マッシュは無邪気ににかりと笑んで、大きな手のひらで一切れのケーキを手に取ると、ばくりと一口、齧り付いた。すでに半分の姿を消したケーキを見て呆気に取られつつも、ちゃんとおいしいだろうか、ともぐもぐと咀嚼するマッシュをじっと見つめる。ん、とまだ頬にケーキを貯めながらも、マッシュは親指を立ててみせてくれた。それに安堵して、セリスも一切れ自分用にケーキを取り分ける。
「……うーん、ザックザクだな、うまい! 俺、こういうの好きなんだ」
「そうみたいね」
思わず笑ってしまったが、内心、全力でガッツポーズをしたい気持ちだ。恥を忍んでエドガーに事前に聞いておいて良かった。
「一本丸々いけたな。切らなくても……」
「それは……お腹を壊すわよ」
うーんうまい、と繁々と呟くマッシュは、きっと本心でそう言っているのだろうと見えた。
「こっちのお菓子は? なんだか層になってるな……」
「それは、……食べたらわかるわ」
「なるほどな。絶対うまいやつだ」
コメント
このお話、とても好きです。
グルメでもいいのでこの話の続きを読んでみたいです。
コメントありがとうございます~
焼き菓子を延々と元気よく食べる話になっちゃってますが、たしかに変なところでぶった切ってますね…続きが気になるな~とのこと、承知しました…!