「おかえり。セリスしょーぐん」
狂った魔導士の気違い染みた言葉に、ああ、と鉄の匂いを口内に感じながらセリスは嘆いた。
金属の冷ややかな床にかつかつと靴音を響かせ、ケフカはうずくまるセリスの目の前でしゃがみ、乱暴にその艶めかしい髪を鷲掴む。
「こっち向けよ」
ぐいと頭を動かされ、切れた唇に刺激が走る。ケフカは、ただ無感動に言葉を繰り返した。
「俺を見ろ」
身体に力が入らない。魔法を無理に使ったからだ。詠唱を短くし過ぎた。だがそうしなかったら、リターナーの面々は皆殺しになっていただろう。
正しかったはずだ、と思う。
ここに来たことも、リターナーに与したことも、帝国を抜け出たことも。
正しかったと思いたかった。
「セリス」
いきなりひどく低く呼ばれ、セリスは思わず怯えて震えた。
それを見て、ケフカは満面の笑みを浮かべる。
「言うことを聞かない子は、お仕置きですねェ」
息が詰まりそうになった。
セリスは小刻みに震えながらケフカの濁った眼を見つめる。
「怖い? 怖いか。怖いでしょう。だって貴女はずうっとこうして育てられた」
「…………や、めろ」
「ん? そんな口を聞いていいんでしたっけ?」
「やめて……やめて、くれ」
「ボクちん、駄々っ子はキライ」
パチッ、とケフカの指先が光る。
「や……やめて、お願い、やめて!」
急に髪から手を放され、セリスは床に上体を打ち付けられながら叫んだ。
嫌だ、と恐れた。意志とは関係なく、体がそれを拒んだ。
にこ、とケフカは笑ってセリスの頭をひどく優しく撫でる。ずっと昔のようにただ穏やかに、優しく。
期待してしまう自分はとうに消えたと思っていたのに。
身体中から汗が吹き出るような緊張感の中、セリスはゆっくりと頭を上げた。
そして、言葉を無くした。
「あ…………う、ぁあああっ!!」
全身に雷魔法が走った。
その悲鳴に、ケフカは狂ったように笑い声を上げた。
火傷を負って、肩で息をしながらセリスはその場に力なく倒れ伏す。
「根性がないですねェ。まったく」
背中をブーツの踵で踏まれ、鋭い痛みにただ呻くしかできない。
「せっかく逃げたのにノコノコと帰ってきて……本当に貴女は愛すべきお馬鹿さんですよ」
「……う、……っ」
肩の付け根を何度も何度も狙われ、気が遠くなりかける。
それを見計らったケフカは踏むのをやめ、またセリスの目の前にしゃがみこんだ。
「……せ……」
「なんです?」
「……殺せ……っ」
「おやおや、私に指図をするつもりですか? 困った子だ」
べろ、とケフカは舌を出して真っ黒い笑みを浮かべた。
「おまえはボクちんのオモチャだろう? それを忘れて勝手に動いた挙げ句、主人に命令するのかい。この、役立たずの、不良品め。調子に乗るな」
役立たずの不良品。その言葉ばかりが頭を駆け巡った。
「おまえにはもう自由を与えないよ。ティナほど意志は強くないし懐柔は簡単だしねぇ。おまえごときには操りの輪も要らない」
オモチャ。ケフカの意のままに動く、帝国の兵士。
所詮は人形なのか。
痛みと後悔とで一杯になった頭では、セリスはすべてを上手く考えられなかった。
ぱん、とケフカが手を叩くと、しばらくして研究員が数人駆けつけてきた。
「この汚いオモチャをしっかり直しておけ」
わらわらと群がってきた研究員たちに腕に注射を打たれ、セリスは意識を失った。
気がつけば、明るい部屋の中だった。
怪我は治されているようで、痛みはない。
おもむろに手を動かすと、視界の隅で何かも動く。
「……鏡?」
セリスが入れられたのは鏡張りの部屋だった。
壁は四面全てが鏡で、天井もまた鏡。衣服は脱がされ、火傷の跡も何もない丸裸の自分が何人も映っていた。
「目が覚めましたか?」
部屋内に響くようにケフカの声がして、セリスは硬直した。
「貴女はこれからここで過ごすんですよ。いつまでかは貴女次第ですがね」
「……ふざけた真似を! 出せ!」
声が部屋に反響し、目眩がした。
「ああ、ここでは一応魔法は使えませんよ。内側からは出られないようにもなってますから、無駄な足掻きは止した方が懸命です」
従順になるまで出すつもりはないと言うことだ。
セリスもそこまで馬鹿ではない、反抗するのは時間の無駄だとは気づいた。
「そう。大人しくしてればいいんですよ。それから、」
くっく、とケフカは笑う。
「鏡に向かって話しかけなさい」
「……何?」
「鏡の中の貴女に、尋ねてごらんなさい。……おまえは誰だ、とね」
「それをすれば忠誠心が芽生えるとでも言うのか?」
セリスは鼻で笑って、膝を抱えてうずくまる。
「そうですよ。やらなければいくら大人しくしていても出してあげられませんからね」
ふざけたことを、とセリスは乾いた笑い声を上げた。
だが、所詮はオモチャで遊んでいるのに過ぎない。
ケフカにとってはただのままごとなのだ。それに乗らないようなオモチャは許さないと言っているだけだ。
す、とセリスは頭を上げる。目の前の自分もこちらを見つめていた。
「……貴女は誰?」
目の前の女が、そう尋ねた。
セリスは答える。
「私はセリス」
目の前の女も、そう答えた。
「違う、貴女は鏡。私がセリス」
目の前の女が、僅かに怒った。
「私はセリスよ。鏡じゃない」
気づけば、あらゆる方向から女に見つめられていた。
「貴女は誰?」
「私は、……セリス?」
「貴女は鏡だわ」
「私は私よ」
「私がセリスだ」
「黙ってよ! 私はセリスよ!?」
「違うわ」
目の前の女は、くすりと笑った。
「貴女は誰?」
セリスは、答えられなかった。
何かがひび割れた音がしたような気がした。
エドガーは、煙の中にそびえ立つ城を見上げた。
フィガロ城もかなりの機械仕掛けだが、この城も引けを取らない。
だが、この外観のえもいわれぬ禍々しさは何なのだろう。
フィガロ城は、実用性と美しさを兼ね備えた自慢の機械城だ。だが、この城は違う。
生きていないのだ。金属で出来た、冷たい城。
この国の民は、一体何をよりしろに生きているのだろう。国の象徴とも言うべき城がこのような、まるで民など見ていないかのようなものだというのに。
「兄貴」
「……ああ。行こう」
弟に促され、エドガーは城に向かって歩き出した。
「ひどい有り様だな……どこもかしこも、煙だらけだ」
「徹底的に破壊しつくしたようだ。そして、そのまま去ったのか……」
至るところで煙があがるベクタ市街地に、もう幻獣の姿はない。
エドガーは思案するように顎に手をやった。
「ロック?」
マッシュがふと後ろに向かって問う。
「大丈夫か?」
「ああ……」
エドガーの後ろを歩いていたロックは、ベクタ城を見上げていた。
振り向かずに、エドガーは呟く。
「ロック。セリスはきっと無事さ」
「……エドガー」
「見ろ。幸い、ベクタ城はそこまで破壊されてはいない。すぐにセリスが殺されていないのならば、恐らく強固な牢獄に入れられているだろう」
それは自らを安心させるための言葉だったかもしれない。
やけに雄弁な兄に、マッシュは僅かに首を傾げた。
「兄貴?」
「ガストラは和平を提案した。そのためのカードは多い方が良いからな。……セリスは生かされているはずだ。丁寧に扱われている可能性もある」
「そう、だよな……」
ロックも少しは救われたようで、薄く笑った。
「さあ、行こう」
服装からして、かなり高位の官だろう。その後ろについてベクタ城の中を歩きながら、エドガーはひどい息苦しさを覚えていた。
この城のせいなのか、或いは恐ろしい予感か。
「大丈夫? 兄貴」
この双子の弟が傍にいてくれなければ、今すぐ吐いてしまいそうなほどに苦しかった。
この苦しさは、かつて感じたことがある。
あの人が、あの事件に巻き込まれて、そして、そして。
「……心配するな。平気だよ」
「うん……」
気のせいだ、とエドガーは拳を握り締めた。
会食の準備が済み、ガストラ皇帝とリターナーの面々が長いテーブルを囲んだ。
机上には豪華な食事が並び、表面上は至極友好的な雰囲気が漂っているが、そもそも何故急にガストラが和平交渉に身を乗り出したのかがわからない。
幻獣の圧倒的な力に気づいたからだとガストラは言ったが、それは魔導研究所をも構えるこの国ならもっと早くからわかることではないだろうか。
胡散臭い。一言で表すとしたら、それに尽きる。
「我がフィガロは占領から解放していただける、ということですか」
「うむ。ナルシェ攻略を目論んでの占領であっただけで、我が領土にしようという意図はなかったのだ」
嘘つけ、と心中で幼稚な言葉で悪態をつき、エドガーは暴力的なまでに涼しい顔で微笑んだ。
「そうですか。ならば、出来れば迅速にお願いしたい」
「無論だ。……他に、何か聞きたいことはあるだろうか?」
皇帝は胸を張って堂々としていた。あくまで君主、という威厳が伝わる。
こんな人物が果たして裏切りものを生かしておくのだろうかと、一瞬嫌な考えがよぎった。
「……リターナーのセリスという娘が帝国で行方不明になったのですが、何かご存じではありませんか」
「おお、セリス将軍のことか」
ガストラは今初めて思いついたかのように目を見開いた。
「セリスは帝国将軍に復職したが」
え、とロックが声を上げた。
「それは、本人の意志でか?」
「無論、そうだ。セリスが一番に考え、憂いていたのは帝国に他ならんのだよ。我が手元に帰ってきてくれたのも、ただ帝国を思ってのこと。悪く思わないでくれ、彼女は彼女の意志でこの国に貢献したいと申したのだ」
「では、今セリスは?」
「療養中だ。長らくの間の疲労が祟り、大事を取ってもらっている」
生きている、とわかって、目に見えてロックは安堵した様子だった。
それもそうだろう、もし彼女に何かあればロックに一番の責任がある。あそこで彼女を信じきれなかったことが隙を産み出したのだから。
不器用な男だ、と思うが、ロックは片手しかセリスに伸ばせないのだから仕方もないかと同情する。
自分もまた、彼女に差し出せる手は片手だけであるから。
リターナーと帝国での合同チームで幻獣捜索という話になり、会食は終わった。リターナーの面々はとりあえず今夜は城の迎賓室に通され、明日しかるべきメンバーがアルブルグに向かうことになった。
セリスを守れなかったロックは、せめてティナを守りたいとそのチームに志願した。
エドガーにそれを止めるつもりは毛頭なかった。
「な、兄貴」
「うん?」
「ロックのやつ、かなり堪えてる。もし捜索隊にセリスがいたら大変なことになるぜ?」
「だがガストラはセリスは療養中だと。それが本当ならば、彼女を寄越すとは思えない」
「うーん……でも魔封剣が使えるセリスを置いていくか? 普通」
確かにな、とエドガーは備え付けのテーブルに頬杖をついた。
とにかくガストラには矛盾している点が多いのだ。それなのになぜかセリスの話だけを信じている自分たちに気付く。
「……よし」
「お、情報収集?」
マッシュが椅子の背にもたれながら、にやりと笑う。この弟は失礼にも、兄がこれから城のメイドとお茶をしに出かけると思っているらしい。
大体正解なので、エドガーは苦笑した。
「ま、頑張ってみるよ」
廊下には人気がなかった。ここまで来る時に思ったが、迎賓室は恐らく皇帝の居場所から最も遠い。
この市街地の非常事態に、城内に警備を割けないのかもしれないし、或いはそう見せかけているだけなのかもわからないが。
俺もお供にマッシュくらいつければ良かったかな、なんて思いながら、無駄に広々とした廊下を行く。
一応は少し歩いた記憶と外観から、今自分がいる大体の位置関係はわかる。が、どこにいけば良いものやら、と迷う気持ちをおくびにも出さず、まるで確かな目的があるかのようにエドガーは歩いた。
「おや、貴方は……フィガロ王?」
どこかで聞いた声だな、と振り向くと、レオ将軍だった。穏やかなその雰囲気はこの国に似つかわしくなかった。
「こんな時分に、どこへ向かわれるのですか? 失礼だがお伺いしたい」
「いや、道に迷ってしまってね。とくに向かう場所もなかったのだが」
「ご冗談を」
ふ、とレオは笑む。裏のない表情に不思議と懐かしさすら覚えた。
「セリスのことでございますか?」
この男には悪意というものがないのだろうな、と思ってエドガーは素直に頷いた。
「あの娘はどこにいるかな」
レオは背筋を伸ばしたまま、苦々しく笑う。
「……お会いにならない方が良いかと、思いますが」
「ほう。それはどういう意味だろうか」
「セリスもリターナーの方に会うつもりはないと申しておりました」
「顔を見せ辛いのはわかっている。だが我々は何も考えずに皇帝陛下の言葉をただ鵜呑みにするわけにはいかないのだよ。……わかるだろう?」
「は……無論、承知しています。陛下の御言葉になんの裏打ちもないことは……しかし」
何故そこまでして会わせたくないのだろうか、とエドガーは訝しんだ。話からして彼女の意識もあるようだし、レオの言うように言葉の裏打ちとして面会くらいさせるものだろうに。
なにか、悪い予感がした。
「本当にセリスはいるんだろうな?」
「何を仰いますか……セリスは我が目で見ました。もちろん五体満足で、少し痩せたくらいでしょうか。……なんなら神に誓っても構いませぬ」
「いや、いい。皇帝陛下への誓いを裏切る必要はない。レオ殿のことは信じている」
「……ありがたく」
「だが、なら私とも会って話くらい出来る体調なのだな?」
一瞬、レオの瞳がわずかに揺れたのをエドガーは見逃さなかった。
「……案内を頼めるだろうか」
レオは無表情で何かを思案し、ゆっくりと頷いた。
「そこまで言うのなら……お連れいたしましょう」
何があろうと驚くな、という言葉が隠されているように思えて、エドガーは極小さく喉を鳴らした。
「セリス。私だ、レオだ」
レオが大きな金属製の扉の前でそう言うと、中からわずかに鍵を外す音が聞こえた。
振り返って、レオが形容し難い表情をするのをエドガーは軽く往なした。
それを理解したのか、レオは重々しい扉をゆっくりと開く。
部屋の中は広く、侍従が二人、壁に沿って立っていた。レオとエドガーの姿を見るや否や、深々と頭を下げる。
「セリス将軍は?」
侍従に尋ねたレオに返事したのは、まさにその美しい声だった。
「こっちだ」
「……セリス!」
変わらない、その見た目。流れるブロンドも、強い青の眼も、白磁のような肌も。何一つ変わっていない。
奥の間から現れたセリスはエドガーを見た途端、慌てた風に頭を下げた。
「これは……フィガロ王ではありませんか」
下げられた頭と事務的な声に、抱きしめたくて伸ばした両手は宙をさ迷う羽目になった。
「久しぶりだね。怪我は大丈夫なのかい? 体調が優れないと皇帝が言っていた」
「は。万事整い、明日の遠征にも参加するつもりです」
セリスは驚くほど正しい姿勢で頷く。これが帝国の将たる者としての振る舞いなのだろう。
そしてそれを決して崩すつもりがないことは、こちらを射抜くような瞳を見れば明白だった。
「そうか」
求めていたものを見つけたはずなのに、エドガーはむず痒さばかりを感じていた。
何か、いつもの調子ではない。それは口調や態度のせいではなく、もっと違う、どこか深いところがいつものものではない。
「フィガロ王」
「うん?」
「先日の件ですが……申し訳ありませんでした」
「ああ……あれは君のせいじゃない。君も被害者だ。……ロックも君に謝りたいと言っていたよ」
「そうですか」
セリスは別段、心動かされた風でもなく俯いた。まるでそうしなければならないから、そうするだけのように見えた。
そんな得体の知れない気味悪さに、エドガーには珍しく言葉が見つからなくなる。
今まで扉近くの壁際にただ突っ立ていたレオが、時間切れだとでもいうように動いた。
「フィガロ王。そろそろ」
じっと覗きこんだレオの瞳には、焦りのようなものが潜んでいた。
「……わかった。すまないね、無理に時間を割いてもらって」
セリスはさらりと髪を流し、首を振った。
「いえ。気にかけてくださり、光栄です。どうかお気を付けて」
「ああ。ありがとう」
「では」
レオに促されるまま部屋をあとにして、わざわざ迎賓室まで彼は見送ってくれた。
「なんだよ兄貴。強制送還?」
去っていく将軍の背中を見つめながら、マッシュが朗らかに笑う。
「まあ、そんな感じかな」
なんとなく疲れて、エドガーは豪華な椅子に腰かけた。そして、窓際でナイフをもてあそんでいたロックに向かって、声を投げる。
「セリスは無事だよ」
ぱし、とナイフの柄を見事に掴み、ロックは目を見開く。
「! 会ったのかっ?」
今にも飛び出そうという勢いに、エドガーは片眉を上げた。
「いや。レオ将軍に聞いた」
「なんだ、それじゃあもしかしてセリスは捜索隊の方に来るかもしれないな」
「ああ、それはおまえの言った通りだった。彼女はそちらに加わる予定だそうだ」
「な……本当かよっ、それは!」
「レオ将軍は嘘はつかない男だと思う」
双子が声を合わせてそう言うと、ロックは言葉に詰まって俯いた。
エドガーも続ける言葉を見失って黙りこむ。
困ったことになった。あのどこか違和感のある彼女とロックをつき会わせても良いのだろうか。
むしろロックと会えば何かが変わるのか否か。
それにしたって、どうして違和感があったのだろう。
あの感覚は恐らく、彼女と相対しなければわからないし、わかったところで理由を言い当てることも出来ない。
セリスと会ったことをロックに言わなかったのは正しかったのかもしれない。
「……気を付けて、か」
ふいに、彼女の最後の言葉が口をついた。
「なにに?」
マッシュがややあってから、首を傾げる。
確かに、そうだ。一体なにに気を付ければ良いと言うのか。
「いや。……なにか、とにかく嫌な予感ばかりがする」
「うん。俺も。……予感で済めばいいんだけどなぁ」
「祈るだけで結果は変わらん。明日から改めて情報収集だ」
情報収集の得意なロックがいなくなるのもあるし、和平がまとまったとはいえ気を抜くことはできない。
「セッツァーに飛空艇の修理を急がせよう。何かあった時のためにな」
すっかり気心の知れたあの男があからさまに嫌な表情をするのが頭に浮かび、エドガーは小さく苦笑した。
だが、セリスの無事を聞けば奴も喜ぶだろう。
君が生きていることだけでこんなにもたくさんの人間が嬉しいのだと、彼女にこそ伝えてやりたい。いや、伝えてやるつもりだった。
だが、言えなかった。
「眉間にシワ、寄ってるぜ」
「ん?」
「兄貴の悪癖その二。悪いことばっかり考えすぎるとこ。……まあ、こればっかりは一概には良いも悪いも言えないんだけどな」
なんやかんや、この弟には隠し事は出来ないらしい。正確には、出来ないことはないが、難しい。
恐らくはマッシュにまで緊張をすることが難しいのだろう。
眉間を指でほぐしながら、エドガーは椅子にもたれる。
「悪癖その一はなんだよ」
「俺が言うまでもないだろ。……紅茶でも飲むか?」
さきほどメイドが机に置いていった茶器のセットを既にいじりながら、マッシュは楽しげに尋ねた。
「何がある?」
「ええと、普通のブレンドと、アップルと、ピーチとと……」
「レモンはないか?」
「あるよ」
「じゃ、それを付けて、ブレンドで頼むよ」
「りょうかい。……ロックも飲むだろ?」
「俺はいいよ」
「いーや、こういう時こそ何か飲んだりして一息つくべきだ」
もう茶器が三人分並んでいるのを見て、ロックは肩をすくめる。
「……わかったよ。ありがたーくいただくさ」
「おう。ありがたーくいただけ」
ふ、と三人ともどこか少年のように笑い、紅茶の香りが部屋を満たしていく。
和やかな気持ちで紅茶を一口、口にしたその時、ふとエドガーは気がついた。
「……そういえば」
「うん?」
セリスのピアス。小振りのルビーのピアスを、彼女はしていた。
それが、さっき会った時には碧い石に変わっていた。
そんな些細なことが、まさか違和感の正体だとでも言うのだろうか。
「いや。……レモンティーを飲んだのはずいぶん久しぶりだと思ってね。それにマッシュ。おまえ、また腕を上げたな」
あたたかい紅茶が、喉から身体中へ広がっていくのを感じながら、エドガーは目を伏せた。
やはり、考えすぎだったのだろうか。落ち着いて考えてみれば、違和感のすべてはそれのせいのようにすら思えた。
雑音が、耳を抜ける。それはまるで人の話し声のようにも思え、気持ち悪さでセリスは自らの耳を塞いだ。
「将軍? 如何しましたか」
「……いや。なんでもない。あなたたちはもう下がって結構だ」
は、と短く言い、二人の侍従が退室する。
重い扉が閉まったのを確認してから、セリスはため息をついた。
このところ、よく耳鳴りがする。
それがひどく不快だった。
「……でも」
ケフカは問題ないと言っていた。
それを信じるしかない。
よく磨かれた窓に寄り、下界を見下ろすか、砂煙でほとんど何も見えなかった。
ここ最近の自らの記憶も、この景色とすごく良く似ていた。
霞がかり、はっきりとしない。
ついこの間サウスフィガロ遠征に出掛けたような気もするし、ずっと魔導研究所にいたような気もする。
それから、誰かと共に暗い廊下を逃げるように走ったような気もした。
それらはすべて、ただの夢なのだろうか。
「リターナー……?」
反帝国組織。その代表たるフィガロ王が先ほどここに来て、残していった言葉は妙だった。
久しぶり、と。彼は言った。
確かに、フィガロ王には五年前に一度だけ会っているのだが。
わざわざ敵国の将軍を気にするわけがない。
なにか、おかしい。
ぞわ、と鳥肌が立つ。
「私は……」
一体、誰だ。
この記憶はなんだ。
この胸騒ぎは一体どこから来るのだ。
「私は誰?」
窓に映った女が、泣きそうな顔でそう尋ねる。
私は、と答えようとしたセリスの頭に、甲高い声が響いた。
(おまえは帝国の兵士。帝国にすべてを捧げ、帝国のために生きる存在。……そして、このケフカ様の、新しいオモチャだ)
「じゃあ……行ってくる」
「気をつけてな! ティナを頼むぜ」
ティナの護衛のため、ロックはアルブルグへと旅立った。
その表情は苦々しいもので、エドガーは何も言えなかった。
「兄貴。んな顔するなよ。帝国にも女は星の数ほどいるって」
「そうだな……」
上の空で返事をし、エドガーは腕を組んだ。
もうセリスのことではなく、これからのことを考えなくてはならない。
帝国の狙いはなんだろうか。
開かれた魔封壁。リターナーの決死の反撃、それすらもやつらの想定の範囲だった。
では、怒りに狂う幻獣の行く先くらいもわかっていたはずだ。
「……この和平、やはり嘘だな」
「は?」
恐らく、ガストラは魔封壁から飛び出した幻獣をここぞとばかりに捕まえようとしたのだ。
だが、それに失敗した。幻獣は何処かに消え、帝国は大損害を被った。
このまま野放しにしておけばいずれはティナが幻獣を手懐け、脅威となるかもしれない。或いは、魔導が帝国以外に普及してしまうかもしれない。
「リターナーは利用されているだけだ」
「利用? ……幻獣捜索のか?」
マッシュが眉を寄せて、尋ねた。
「ああ。今のところは、な。恐らくはずっと前から……奴らの手のひらで踊らされていただけだ」
「うーん……じゃあティナのことやセリスはどう説明つけりゃいいんだ?」
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