ゴミ箱

Don’t worry everything

 どこか遠くで獣の鳴く声が響く。危険なのは百も承知、それ以上に慣れもある。セリスはなんら気にする様子もなく、夜の肌寒さに上着を羽織り、時たま心地よい音をたてる目の前の火を見つめていた。傍らには珍しくセリスより早く眠っているマッシュ。
 いつも火の番をしてくれていたから、彼の寝顔は久しぶりに眺めた。頭の後ろで腕を組み、のびのびと眠るマッシュはどこか少年のようでもある。これがなかなか見ていて飽きないのだが、もし彼が目覚めて、目が合ったら気まずいことこの上ない、とセリスは視線を手中の愛剣に移す。
 ずしりと重いそれは、いつか昔、レオに貰ったものだった。それからずっと丁寧に手入れをして使い続けている。
 何とはなしに、すらりと刀身を引き抜き、掲げてみた。火に照らされ、変わらぬ光沢が目を奪う。
 だが、とセリスは苦笑した。
「……やはり、少し重いな」
 薄々気づいていたが、一年寝たきりだったことでかなり体の筋肉が落ちている。剣の一振りに以前より疲れを感じていた。
 マッシュに気づかれないようにと、剣を振るう際には強化魔法を体にかけてどうにか補っていたが、その分魔力は消耗してしまう。魔力は体力と直結しているから、結局は彼に面倒をかけてしまっていた。
 悔しい、とセリスは思った。戦闘に関しては英才教育を施されてきたこの自分が足手まといなどということが。
「痛っ……」
 左の二の腕の鈍い痛みに、思わず剣を落としそうになる。音をたてまいと、セリスは腕を押さえながらゆっくり剣を下ろした。
 そして、上着越しに痛む二の腕をそっと擦る。
「ああ……忘れてたわ」
 先ほど森を歩いていた際に、巨大化したカマキリのモンスターに切りつけられてしまい、そのときは回復魔法を唱える余裕もなく、プロテスをかけて応急処置のままにしていたのだった。
 止血はしているが、内部はまったく治癒していないため、今の衝撃でどうやら傷口が開いてしまったようだ。じんわりと上着が朱に染まっていく。
 セリスは慌てて上着を脱ぎ、傷口を検視する。やはり、見立て通りに傷が開いていた。
 回復魔法をかけようと傷口に手を当て、しかしセリスははたと止まった。
「……痛い」
 当たり前のことだ。だが、それが不思議だった。
 死のうとさえしていた自分が、こんな傷に痛みを感じていること。それが甚だ可笑しい。
 痛みがあるうちは、まだ良い。まだ生きているのだから。
 そう深く思ってから、セリスは傷を治した。

「ん……」
 夜空もうっすらと白くなってきた頃、もぞもぞとマッシュが目を覚ました。
 目をこすりながら、マッシュは怠そうに上半身を起こす。そりゃ怠くもなるだろう、マッシュは一度も寝返りをうたなかったのだから、と思いつつ、セリスはすっかり勢いのない火から彼に視線を移した。
「おはよう、マッシュ」
「あぁ、おはよ……ちょっと寝過ぎちゃったかな」
「もっと寝てても良いのよ?」
 くぁ、と欠伸をし、マッシュは苦笑した。
「いやぁ、これ以上寝たら体が鈍っちまうよ。それよりセリスこそ……」
 マッシュの言葉が止まり、その視線にセリスは思わずはっとして腕を押さえた。
「それ……血か? 昨夜はそんなんなかったよな」
 神妙な顔つきで近づいてくるマッシュに、苦笑せざるをえない。
「もしかして俺が呑気に寝てる間に……」
「ええと……説明すると長いんだけど。とりあえず、マッシュが寝てる間に怪我をしたわけじゃないのよ」
「バカ言え、ならいつそんな出血……まさかあのカマキリか?」
 セリスは曖昧に頷いた。
「……回復魔法は」
「大丈夫、したわ。止血だけしてたのを忘れてただけなの」
 そこまで聞いてからようやくマッシュは安堵した表情を見せた。
「はー……びっくりした。あんまり心配させんなよなぁ」
 心配されて、妙にくすぐったく感じたのはそれに慣れていないからだろうか。思わずセリスは口を尖らせる。
「私は、別に……」
 しかし、ちらと見たマッシュの顔つきが、セリスの思い描いていた言葉を変えさせた。
「……ううん。ごめんなさい」
 無駄な強がりなどいらないのだと、そう思った。
 それほどまでに、マッシュの笑顔は穏やかで優しかった。
「私、軽率だったわ」
「いや、なにもそこまで反省しなくてもいいけどさ」
「違うわ、この血のことだけじゃないの。……もっと変わらなきゃいけないんだわ」
 一人ではない。痛みを分かち合ってくれる人がいる。それに甘んじるのは、悪いことではないのだと。
「大丈夫さ」
「え?」
「セリスは変わったよ。少なくとも俺の見た限りはね」
 どこが、と尋ねたかったが、やめた。多分マッシュは答えてはくれないだろう。
「……そうかな」
「そうさ」
 屈託なく笑って、肯定してくれることが嬉しかった。自分以外の誰かが嘘でも信じてくれることが。
「……なんだか、やる気が湧いてきたわ」
「へ?」
「きちんとトレーニングでもしようかしら。筋肉も体力も取り戻したいし」
 なんとなく、じっとしていられない気持ちだった。よくわからない解放感すらある。
「きっとみんな、私が覇気に満ち溢れてるのを見たら驚くわ」
「そうだなぁ、なんか俺も怖いよ」
「……マッシュ?」
「冗談だって。トレーニング、俺も付き合うぜ?」
「あら、本当? マッシュで良かったわ、相手が務まるのはあなたくらいだもの」

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