森の湖のほとりに、お祖父さんと共に暮らしている、ひとりの娘がいました。
名をセリスといい、流れる金糸のように艶やかな髪に、深い海のような瞳をもち、その美しさは近隣の村だけでなく遠くの国まで伝わっていました。
セリスはそのことに何の興味も持たず、お祖父さんと二人で森の植物の研究ばかりする毎日。
そしてついに彼女は十八歳になりました。
普通の娘ならば結婚してもおかしくない年頃です。
しかし、セリスは全く気にしないばかりか、死ぬまで植物の研究をしたいと言い出す始末。
お祖父さんは悩み、ひ孫を見たいと言ってみても彼女は薔薇を見つめて聞く耳を持ってくれません。
それも仕方のないことかもしれない、とお祖父さんは肩を落としました。
セリスは幼い頃から両親にひどい扱いを受け、逃げるようにこの小屋に住み着いたのです。
今でも時々彼女が悪夢にうなされているのを、お祖父さんは知っていました。
しかし、セリスはもう立派な女性なのです。
周りの村から届く求婚の手紙はもう数えきれないほどでした、中には名のある貴族や商人からのものもあります。
それでもセリスは頑として頷きはしませんでした。
もしかしたら、セリスは本当に死ぬまでひとりで植物と共に過ごすのかもしれない、とお祖父さんが次第に思い始めたころ。
それは、ひどく雨の降ったある日のことでした。
その森にひとりの男が迷い込んだのです。
「空を駆ける男、セッツァーだ!」
森の木々を打つ激しい雨を、セリスはリビングの窓から眺めていた。
時折雷も轟き、久しぶりに本当にひどく荒れた天気に、ただため息が出る。
「こんなに雨がひどいと外で採集もできないし。木の葉や実がみんな散ってしまうわ……」
ようやく実ったものが、自然の脅威に晒され、空しく消える。それは自然の摂理だし仕方のないことだとはわかっている。
自然には自然なりのリズムがある。それを壊すのはいけないことだ。
それでもやはり、やりきれない。
はあ、とセリスが本日何度目かわからないため息をついた時。
かたかた、と部屋の中心にあるウッドテーブルの上の花瓶が揺れた。
「おじいちゃん?」
「ん? なんじゃ?」
あれ、とセリスは瞬く。てっきり祖父が机を揺らしたのだと思ったが、祖父の声はずいぶん遠くのキッチンから響いた。
「……?」
地震か、と思ったとき、突然窓の外がカッと光り、その数瞬後、激しい爆発音が辺りを襲った。
「な、ななな、なんじゃあ!?」
思わず耳を塞いで窓を凝視すると、湖のほとりが赤々と燃え出していた。
「まさか落雷!?」
火事になるかもしれない、とセリスは玄関脇の壁にかかっていた雨具を素早く羽織り、小屋を飛び出した。
「森が燃えちゃう! 私、見てくるわ!!」
「こらセリス、無闇に行くんじゃない!」
森の中をバシャバシャと水溜まりを駆けて、セリスは半ば呆然としてそれを見つめた。
黒煙を上げて、燃える機体。どうやら飛行機のようだ。この激しい雨にも関わらず、燃え続けている。
近寄って眺めると、かなり大破していることがわかった。
落下した衝撃だけでなく、雷にでも当たったのだろうか。黒焦げの機体はコックピットからするに一人乗りに見える。
操縦者はどこに、とセリスは煙たさで口元を押さえながら機体の周りを回る。
「いってて……くっそ……」
「……!」
「お? ……誰だ?」
銀の髪を滴らせ、地面に座り込んだ男は、身構えるセリスに気がつくと顔に垂れた髪をかき上げて、ひどく不機嫌に眉を寄せた。
水が流れるその顔にはいくつか傷があって、そのせいかどこか人を寄せ付けない雰囲気があり、セリスはやや控えめに問う。
「……貴方がこの、操縦者?」
「おう。ま、船がこんなナリじゃあもう操縦者とは言えねぇが」
少し派手なデザインのコートをずぶ濡れにさせている彼を多角的に眺めてみても、顔の古傷以外にはとくに目立った外傷もない。
「怪我はしていないみたいね?」
「奇跡的にな。……ところで、あんた誰だ?」
一歩間違えれば死んでいたところだと言うのに、男はどこか楽しげににやりと笑む。
怪我もないし良かった、と安堵したが、森の木々を燃やしたくさんの枝をへし折った張本人だと思った途端、この人に優しくする道理なんかないじゃない、とセリスは腕を組んだ。
「人に名前を尋ねるなら、貴方から名乗りなさいよ」
厳しい口調でそう答えると、しかし男は雰囲気に似合わず声を上げて笑った。
「はっ、あんた、なかなか面白ぇな。……俺はセッツァーだ。あんたは?」
もしかしたら助ける必要はないのかもしれない、とさえ思えて、相変わらずセリスは突っけんどんに答える。
「セリス」
「……セリス、か。そうか……悪かったな、バカみてえに騒がせちまって」
セッツァーは頭上にぽっかりと見える灰色の空を指差して苦笑した。
「ええ、貴方のおかげでこの辺は大損害だわ」
やや頬を膨らませ、セリスはむっとして言う。
「だいたい貴方ね、こんな日に飛ぶ方がどうかしてるわ。まさか死にたかったわけ?」
まくし立てるように続けると、セッツァーは薄く笑った。
「……そうだな」
その表情は自嘲というより、やりきれないという風に見えて、セリスは思わず首を傾げた。
「……おぉい!! セリスー!!」
あ、と思ってセリスは振り向く。
「おじいちゃん、こっちよ」
黄色の雨具を着こんだ祖父に手を振ると、セッツァーが口を歪めた。
「誰だ?」
「私のおじいちゃんよ」
ちっ、というセッツァーの僅かな舌打ちは、雨にかき消される。
「なんじゃ、これは……墜落事故か?」
「みたい。詳しくはこの人に聞いて」
祖父はぐちゃぐちゃになった機体をしげしげと眺め、嘆息した。
「むむ!! うーむ! これは素晴らしい! 壊れてしまったのがもったいないのぅ」
「? なにが?」
「ほれ、ここにエンブレムがあるじゃろ。これは高品質で有名な会社のものじゃ。……しかし、この機体と型が違うのぉ……それにかなりの軽量化がされておるな」
植物の研究と同じくらいに祖父が楽しげに話し出して、セリスは驚いた。
「知らなかったわ……おじいちゃん……機械好きだったのね……」
「いやはや、素晴らしい腕前じゃ!」
「おだてるんじゃねえ。現に墜ちてんだからよ」
「そうよ、誉める必要はないわ」
「あ? なんだと」
セッツァーがいきなりすくっと立ち上がったので、セリスはにわかに驚いて一歩後退りした。
「な、なによ?」
やや押され気味のセリスに構うことなく、セッツァーはおもむろに濡れた髪をかき上げて、祖父に向かってにっと笑む。
「それよか、どっか泊まれるところはねぇか? この通り、ずぶ濡れだからな。雨が凌げりゃどこでも良いんだが……」
「おお、それならウチに来れば良い」
「ちょっとおじいちゃん!! 何を勝手に……」
抗議もむなしく、祖父は壊れた飛行機ばかりを見つめ、どことなくウキウキしながらセッツァーに言った。
「この機体の修理も必要じゃろ? わしに手伝わせてくれるならな、何泊しても構わんよ」
「願ったり叶ったりだ。恩に着るぜ、じいさん」
ほらな、と何故か得意気なセッツァーの顔をかろうじて睨み返したが、何も言葉にならない。
まさか、祖父がこんなどこの馬の骨ともわからない男を受け入れるとは。
「ってことで、世話になるぜ。セリス?」
「私には関係がないわ。自分の世話は自分でして」
「おっと、こりゃ厳しいな。ま、直りゃすぐ出ていくから安心してくれよ。……しばらくはよろしく頼むぜ?」
セッツァーはわざわざ革のグローブを外して、こちらに手を差し出した。それを二、三度見て、躊躇いながらも仕方なしにセリスも手を出す。すると、にやりと笑ってセッツァーはその手を軽く握った。
こうして、祖父との二人暮らしは一変し、墜落してきた男との奇妙な生活が始まったのだった。
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