破壊神によって、無残に破壊された世界。
こんな世界でも、旅人はいる。むしろ以前よりその数は大きく増えたようで、夕方の宿の賑わいは少し驚くほどだった。この一年の情勢を知らなかったセリスにとって、それは呆気にとられるほどに驚くべき様相だった。
ようやく取れた宿の食堂の扉を開けて、その光景に思わず目を大きくさせたセリスを、後ろでマッシュが笑った。
「どうした?」
「あ、ええ……思ったよりも人が大勢いて、……つい、驚いてしまって」
「そうか? この大陸はどこもこんな感じだぜ」
「そう……ずいぶん旅人が増えたのね……」
「まあなぁ。一ヶ所に留まる意味があんまり、ないからなぁ」
今の世界には、どこにも安住の地はない。どこにいたって危険なことに変わりがないのなら、流浪の身になる気持ちは、わからないでもないかもしれない。
なるほど、とマッシュの言葉に小さく頷いて納得していると、ほれ行くぞ、と背中を押され、促されるまま空いている席に向かう。
ただテーブルの間を縫うように歩いているだけなのに、やけにじろじろ見られている気がするのは、気のせいだろうか。旅人の多くは男なので、女とわかって物珍しく映るのかもしれない。
それらの視線から意識を逸らそうと、きょろと室内を眺める。と、食堂の奥に、このざわざわした空間には不釣り合いな風に、一台のピアノが置いてあるのに気がついた。
「マッシュ。……あれ、立派なピアノだわ」
「お?……本当だ。そうだな、ここに置いておくには変に立派だな……」
誰か弾く人でもいるのだろうか、と思いながら、出されたグラスをやおら手に取る。生ぬるい水が、喉を潤した。あんなに立派なピアノなのに、今はまるで置物のように埃をかぶっているだけなんて勿体ない。
「そんなに気になるのか?」
「え? いや……」
慌てて姿勢を正したセリスに、マッシュは穏やかに目を細めた。
「弾いてみたい……とか?」
「えっ?!べ、別にそんなわけじゃ」
そこにちょうど注文を尋ねに来た男性に、マッシュはいつものように陽気に話しかけた。
「なあ、親父さん。あのピアノ、誰も弾かないのかい?」
「ピアノ?ああ、あれか。昔は弾き手を雇っていたもんだが、最近はそんな余裕もなくなっちまってね」
ふうん、とマッシュがなんとも言えない表情で、セリスをちらりと見た。なんだか、嫌な予感がする。
「誰も弾いてないなんて勿体ない。……そこで、俺の連れが弾きたいらしいんだけど、良いかな?」
「ち、ちょっと。私、弾きたいなんて……」
咄嗟に話を止めようとしたセリスの言葉をかき消したのは、注文取りの男だった。
「そりゃあいいや! ぜひ頼みたいね、ピアノがあると殺風景なこの食堂も華やぐから」
あまりに大きな声に、またもセリスに視線が集まる。
「う、……」
「やったな、ぜひ、だってさ!」
もはや引き返せない雰囲気にマッシュを思わず睨み付けたが、彼はニコニコしているのみで、悪いこととは全く思っていない。そしてその表情は、ただただセリスから毒気を抜くのだった。
はあ、とセリスはがっくりと肩を落とした。
「? なぁ、弾いてくれるだろ。俺も聞きたいな」
「え……本当に?」
ちらと上目遣いで見ると、マッシュはまた無邪気に笑みを返す。
「そりゃ当たり前だろ? ピアノって、弾き方に性格が出るだろ、だからきっとセリスは綺麗な良い音出すと思うんだよな」
根拠もなく言い切られ、それに腹が立たないのは不思議だった。むしろ、その全幅の信頼が恥ずかしい。
弾くと答えなければ、この攻撃がずっと続くのだろうと目に見えて、セリスは一度唇を引き結んで、こくりと頷いた。
「……わかりました。それでは、少しだけ……弾かせてください」
「勿論!!ささ、どうぞ」
意気揚々とする男にピアノの前まで連れられて、セリスは椅子に腰を下ろした。
立派なグランドピアノだ。年季が入っている。埃を払って鍵盤の蓋を開け、確かめるようにペダルを踏み、その感触の懐かしさに一瞬囚われた。
「曲は何にするんだ?」
すぐ傍に来たマッシュの問いに、セリスは苦笑して指を動かす。
「ええと……明るいのがいいかしらね」
「でももう日没だし。夜想曲とかも悪くないんじゃないか?」
その切り返しに、彼の育ちの良さが偲ばれる。もしかしてマッシュも弾けるのではないかと思い至って、あまり無様な姿は見せられないかもしれないと思った。
「そうね……」
セリスが鍵盤に指を下ろした瞬間、賑わう食堂が静まりかえった。
少し重い鍵盤を、ひとつひとつゆったりと。ゆるやかな旋律が、広い食堂に響いていく。
頭の中の楽譜を進ませながら、セリスはピアノに没頭した。
――セリスは悲しい曲ばかり弾くね。どうしてだい?
紡がれる音に紛れて、かつての記憶が掘り起こされていく。
――ケフカだって、前はそうだったじゃない。
――そう? ボクは楽しい曲が好きだなぁ。狂うような、激しいテンポの、嵐みたいな曲。
あの人は、変わってしまった。狂っているのは曲じゃない。
――おまえのピアノは、聞いていると虫酸が走るね。指を切り落としてやりたくなるよ。
――そうか、良かったな。もう私は二度と弾くつもりはない。二度とな。
悲しみだけが募るから、ピアノは二度と弾かないと誓った。
だけど、それすらも忘れていた。どうしてだろう。
忘れたいと願っていた。
指の動きだって、忘れたと思っていたのに。
鍵盤を前にして、指は勝手に動き出した。記憶をなぞるように、鮮明に。
気づけば、涙が溢れていた。
頬を伝って、それは手元に落ちる。自然と指は止まっていた。これ以上の続きを思い出したくない。
「……セリス?」
「ごめんなさい。これ以上は……弾けない……」
「……いいよ。大丈夫。良い演奏だったぜ」
あやすように、マッシュが後ろから抱き締めてくれた。すがるようにその腕を掴むと、彼はもっと強く抱き締めなおした。
「悪かった。なにか、嫌な思い出とかが……あったんだな」
あたたかくなる首元に安心感を覚えながら、セリスは頷いた。
誰かに抱きしめられるだけでこんなにも落ち着くものなのだろうか。
いや、とセリスは思う。彼の抱擁が、特別なのだと。
「ごめん。無理に弾かせちまって」
「ううん……私も忘れてたの」
そんな光景を見ていた旅人たちは、すべてを悟り、食事に意識を向け直したらしい。食堂にまた賑わいが帰ってくる。ざわざわとした音に囲まれながら、セリスは、ぼんやりと古い記憶を思い出した。
「……ケフカがピアノを教えてくれたのよ」
「ケフカ?」
「ええ。美しい旋律とは悲しみのこもった調べのことだと……言い聞かせられてきた。……悲しみはすべてに繋がることだから」
ケフカは悲しみを具現化したような存在だった。あらゆる不幸に涙し、哀しんだ。思えば心の弱い人間だったのかもしれない。だからこそ、魔導実験で狂ってしまったのだ。
「そうかな? 俺は違うと思うけど」
「え?」
「すべてに繋がるのは、悲しみじゃない。喜びさ」
はっきりと、マッシュは言い切った。
「誰かが生まれた時。命が始まった時。新しい何かが世界を繋いでいくその時、そこにあるのは喜びだ。悲しみなんかじゃない」
マッシュの言葉は難しくはない。それなのに、それは乾いた地面に染み入る一滴のように、セリスの胸にじんわりと広がっていく。驚いて彼を見上げたが、真上にある顔は見えない。それでも、マッシュがにっと笑ったように思えた。
「始まりは喜びさ。だから、すべてに繋がるのも喜びだ」
「喜び……」
「間違ってるって教えてやろうぜ、ケフカの野郎にさ」
うん、と頷いた拍子に涙が溢れる。だが、これは先ほどとは違う。悲しいから涙したのではない。
たくましい腕に抱かれながら、セリスはもう一度鍵盤に指を伸ばす。
「セリス?」
「大丈夫。……やっぱり明るい曲にしましょうか」
ふ、と笑って、セリスは食堂に音を響かせた。
「……ワルツか。良いな」
「ええ、でしょう?」
素早く流れる一音一音に、気持ちを込めて。この人と一緒なら、悲しい曲だけを奏でる必要はないから。
耳から、何もかもの音が消えていく。
聞こえるのはピアノと、背中のマッシュの鼓動だけだ。
楽譜を思い浮かべることもなく、ただ気持ちのままに指を動かしているうちに、演奏は終わってしまった。
周囲からどっと沸いた盛大な拍手にハッとして我に帰ると、マッシュが肩越しに笑いかけてくれた。
「最高の演奏だったぜ」
それはそうだろう、と根拠もない自信がセリスにはあった。
いや、根拠なら十二分にある。そう思って、肩をすくめて、笑った。
食堂には長く長く、拍手が響いていた。
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