エドセリ

甘い嘘

 私は、心から彼を愛していた。過去や身分にとらわれず、ただそのままの私を欲してくれた彼と共に生きたいと思っていた。彼の言うことは正しいと、思い込んでいた。
 いや、あるいは、そう思い込もうとしていた。

 馬鹿がつくくらい暑い砂漠の真ん中の城に住み着いて二ヶ月。汗ばんだ首もとに張り付く自身の髪が鬱陶しくて、私は目を覚ました。
 まだ明け方で、部屋は薄暗い。
 同じベッドで寝息をたてるのはこの国の唯一の王。フィガロ国王エドガーの寝顔を見れる特権は、私だけが持っている。
 長い睫毛、美しい輪郭、流れる金髪。彼は素敵だ。ただその整った顔を見ているだけで心を奪われる。幾度でも。
「……エドガー、……好きよ……」
 少し汗ばんだエドガーの顔にぺたりとへばりついている彼の金髪を、指先でするりとどかしてやる。
 気怠く上体を起こし、その端正な顔をしげしげと眺めてから、これは私のものだと口づける。
 深く眠りに落ちているのか、エドガーは反応しなかった。連日の政務で休みはほぼなく、それほど疲れているのだろう。
 しばらくその寝顔を眺めてから、私もまた眠りについた。

「おはようございます、セリス様」
 世話係の女官が恭しく頭を垂れてそう言う。王の友人として客室に住んでいることになっている私に、女官はまるで王族にするように丁寧に対応してくれる。客室ではなく国王の私室で朝を迎える私を、一体どう思っているのか。
 ほぼ毎晩エドガーと同じ床で寝るたび、彼は笑顔で私に語りかけている。愛していると。民も祝福してくれるだろうと。
 フィガロの民はどれほど大らかな気質なのかしら、と思う。そんなわけが、あるだろうか。
「……おはようございます」
 部屋の入り口に立つ世話係を見た後、ちらりと隣を見ても、とっくにエドガーの姿はそこにない。
「陛下は朝議に出席なされています」
「……ええ、承知しております」
「ゆっくり寝ていなさいと、陛下からの言付けでございます」
 はい、と返事をすると、世話係はするりと音もなく下がっていった。

 たとえエドガーの鶴の声の元、城内で何をするのも許されていようとも、こんな身分不相応な部屋で言われたとおり大人しく寝ているわけにはいかない。手早く身軽な格好に着替え、私は自身にあてがわれている客室へ戻った。

 道中の兵士たちからの視線が、気にかかる。いつも彼らは私を見ていた。正確に言うならば、監視していた。

「あ……ピアスが」
 部屋に戻って備え付けの鏡を見た途端、自らの姿に違和感を抱いた。お気に入りのルビーのピアスを右にしかしていないことに私は気がついた。左側の耳たぶには、ぷつりと開いた穴だけがそこにある。
「しょうがないわ……エドガーの部屋かしら。取りに戻らなきゃ」
 あの豪勢な部屋は苦手だったから、エドガーがいないなら戻りたくはなかった。道中、またあらゆる視線にさらされるのもわかりきっていた。
 だがピアスを片方しかしていないのはやはり変だから、と私はすぐに来た道を戻ることにした。

 フィガロ城は潜航のしやすさを考慮し、城そのものはさして広くはない。時間も経たずに国王の私室の前について、扉に拳を叩きつけようと近づいたとき、中から声がした。
 本能的に、手を止める。何かを言い争っているような声が、中からくぐもって聞こえてくる。
 いけないとわかっていて、扉に身を寄せ、それに耳を傾けた。

「……!……だから……!」
「ですが……!……でございますか!?」
 もう少しで聞こえそう、と私は人目をはばからずに扉に耳をあてた。

「じいや! たとえお前でもその言葉は聞き捨てならない」
「エドガー様のためを思って私めは……」
「何度も言うが、俺はすべて背負う決意がある。俺のためというなら、……」
「エドガー様……貴方の決意はよく、理解しております。ですが民は、あの方を許さないでしょう」

 あの方。私はその場に硬直した。

「親父だって、母上と……!!」
「おっしゃるとおり、亡き王妃様は身分が決して高いとは言えませんでした。しかし、王妃様はフィガロの民でした。ですから民は王妃様を認めたのです」
「それは……だが、もう帝国は存在しない。これからはもっと広く、復興のために手を取り合わねば」
「我が国は復興の筆頭です。元帝国領のみにお気持ちを向けられてしまえば、世界中からの反発は目に見えたことでしょう」

 頭が、クラクラする。語られる内容はすべて、考えたことがあった。一度ならず、何度も頭をよぎった、その事実。

「……彼女を……愛しているんだ」
「だからこそ、決断なさってください。あの方の為でもあります」
「簡単に言ってくれる。俺は……」
「エドガー様……城の者たちが噂をしていることを……知っておりますか? あの方がエドガー様を言葉巧みに捕まえ利用するつもりなのではないかと……そう言う者が、増えてきておりますことを」

 エドガーは何も言い返さなかった。しんとした室内に、大臣の声が続く。

「早く追い出せと申す者もいます。もはや……あの方をここに置くことは、誰のためにもなりますまい」
「……俺のほかに、彼女は行き場がないんだ」
「私が責任を持ってあの方の処遇を取り決めます」
「俺だって……彼女以外……愛せない……」
「陛下……お辛いでしょうが、何卒……ご決断を」

 私は途端に扉から離れ、全速力で自室に戻った。続けられるはずのエドガーの答えを聞きたくなかった。走り去る私を、相変わらず兵士たちは見つめていた。


 月明かりが部屋に射し込んでいる。客室に戻ってから、かなりの時が経った。この無為な時間もまた、城の者たちを不審がらせるのだろうとわかりながらも、足が、心が、硬直してしまっていた。

 不意に、とんとんと、遠慮がちにドアがノックされた。
「……誰です」
「俺だよ、セリス」
 落ち着いたエドガーの声色に、頭痛がする。まるで昼間の言い争いのことなど、微塵も窺えない。本当にあの話は、今日だけのことだったろうか。そんなわけ、あり得ない。いつもいつも、エドガーはすべてを飲み込んで、私の前に立っていたに過ぎない。
「どうした?部屋から出てないそうじゃないか。昼食も食べてないんだろ?」
「……少し、気分が……優れないの」
「心配だな。入って良いかい?」
「やめて!!」
 ドアノブが金属音を鳴らした瞬間、私は反射的に叫んでいた。ドアの向こうから、心配そうな彼の声が聞こえる。
「……医者を呼ぼうか?」
「いいえ……大丈夫だから。今日は申し訳ないけれど……」
「そうか、……だが、君に渡したいものがある、これだけ渡したい」
「……いらない」
「忘れるなんてありえないぐらいセリスのお気に入りだろ? このピアス。いいのか?」
 良いわけがない。それを求めてのこのこと出歩いた結果が、今なのに。そう思って、しかしそれは嘘でしかないと私は薄く、笑った。本当はもっと前から。

「……エドガー、」
「なんだい?」
「私のこと、愛してる?」
 一瞬の。本当に、一瞬の沈黙があった。
「もちろん愛してる。でも急にどうした?」

 それだけで私は満足だった。

「私も……ずっとエドガーのことを愛してるから……」

 もうこれ以上の嘘を、彼に重ねさせるわけにはいかない。

「セリス?」

 彼の嘘なんて、全部わかっていた。私はずっと、わかっていた。わかっていて、愛しさに目を閉じて、耳を塞いだ。

 エドガー。誰より優しく、それ以上に、愚かな人。
 そして、愛しい人。

「……気分が良くなったら、ピアスを受け取りに行くから」
「そうか。でも無理はしないでくれ」

 嘘にまみれてしまった彼に、私は嘘をつく。ここからは私が、それを背負う時が来た。

「わかってる。……エドガー?」
「なに?」
「必ず、行くから」
「待ってるよ、いつまでも」

 いつまでも。それが嘘でも、本当でも、構わない。

「ありがとう、……エドガー」

 積み重ねた嘘の中に、埋もれた真実。それは、きっと消えない。
 だから私が彼の前から消えなくてはいけない。それは、嘘に酔いしれた私への罰で。

 きっと、彼の手元のピアスは永劫、彼を苦しめるだろう。でもそれは、私に嘘をついた彼への罰で。

 
 
 甘い嘘は、誰が為。

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