FEベルウィック

辛いものはお好きですか?

(……もう、夜明け……)

 窓から射し込む弱々しい朝日に気づいたクリスは、ふと頭をもたげる。結局、あれから一睡も出来ずに一夜を明かしてしまった。

「クリス!」
 執務室を横切ったところで不意に呼び止められ、クリスは不必要なほどに体をびくつかせた。
「え、エルバート……」
「丁度良かった。昼食はもう済ませてしまったか? まだなら一緒にどうかと思ってな」
 幼いころから見慣れたはずのどこか涼しげな顔を、真っ直ぐに見つめることが出来ない。叙任式後のことを思えば当然すぎることなのだが、しかしエルバートの方はとくに普段と変わらない不躾な態度をとってきて、それに驚いてしまった。
「……もう済ませました」
「そうか、それは残念だ」
 大して表情も変えずに言い、エルバートは腕を組む。
「出陣前に川蝉亭で腹ごしらえといきたかったんだが……ま、いいか」
「お一人で行かれれば良いでしょう?」
「確か、今日のおすすめは君の好物のエビの香味焼きだったからな。だから誘ってみたんだが……」
 ふ、とエルバートは薄く笑った。それに無性にどきりとして、クリスは咄嗟に視線を床に落とした。
「まあ、気にしないでくれ。今回の任務は危険なものではないから、これが最後の晩餐にはならないだろう」
 冗談めかして言われた言葉は、その実だいたいの兵士に当てはまることだった。人生最後の飯は、川蝉亭。そう決めている者は少なくないのだ。
 クリスは小首を傾げる。
「私には出撃命令はなかったけど……どのような任務なんですか?」
「新型バリスタの実験だ」
「新型バリスタ? ……ああ、スコーピオンですか」
「そうだ。実験の立会人を数人派遣してほしいと、コロナ将軍がな」
「バリスタの精度が上がれば、守りにおいてはかなり有利に立てますから……大事な任務ですね」
 そう真剣に呟いた途端、エルバートは堪らずといった風に笑った。
「ど……どうして笑うのですか!」
 彼は普段は表情が鋭い人だが、こうして声をあげて笑う時もある。冷静沈着で有能な人物だと周りは言うが、昔から馴染みのあるクリスにはそうは思えなかった。
「いや、悪かったよ。……確かに大事な任務だが、バリスタの実験で俺が頑張っても無意味だろうにと思ったら、君のその真剣な顔と相まってなんだか可笑しくてな……」
 くっく、と喉を鳴らし、エルバートは含んだように笑い続ける。
「……もう! ふざけないでください」
 怒気のこもったクリスの声に、エルバートは苦笑して肩をすくめた。昔からそうだが、彼は過度な冗談を言わなかった。本当に怒る境界線をよくわかった上での言動なのかもしれない、とクリスはなんとなく思った。
「ははは、悪かった。さて、俺は昼食に行くよ。じゃあまたな」
 そうして飄々として去っていく背中を、クリスはただ睨むように見つめていた。

 襲撃の報せが入ったのは、その夕方頃だった。
 新型バリスタの実験の日取りが帝国に漏れていたせいで、試作スコーピオン約二十機と少数のシノン騎士団たちが帝国弓騎兵隊に囲まれてしまったのだという。
 その話を騎士団仲間たちから聞いた途端、クリスの足は執務室へ向かっていた。
「……リース様っ!!」
 やや乱暴に扉を開け放つと、リースとティアンナ、更にはウォードまでもが目を見開いて扉の方を振り返る。
「バリスタの実験で、帝国に奇襲を受けたという話を聞きました!」
 リースは落ち着き払った態度で、こくりと頷いた。
「クリス、心配は要らない。既にコロナ将軍の部隊が救出に向かう編成を行っている」
 まだ年若いこの主は、人好きのする顔でほわりと笑んだ。それに幾分か落ち着きを取り戻し、クリスは拳を握りしめた。
「では、私も救出部隊に加えてください!」
「……クリス?」
 咄嗟に頭を下げ、懇願する自分に一番戸惑っていたのはクリスだった。だが、身体は勝手に動いてしまう。
「……それは出来ないよ。コロナ将軍の部隊の統率に支障が出るかもしれない。そうなれば、私たちシノン騎士団だけではなくまだ新兵のバリスタ兵にまで危険が及ぶ。……わかるね」
 頭上から降りかかる声は、ひどく優しかった。リースは誰よりもシノン騎士団を心配しているし、誰よりも信頼している。
 自ら駆け出したい衝動を抑えているのは、なにもクリスだけではなかったのだ。
「…………はい……申しわけ、ありません……」
 愚かなことを口走ってしまった、とクリスは深く頭を下げてから、執務室を後にした。

 戦争なのだ。人は殺すし、死にもする。当たり前のことだ。
(エルバート……)
 もしも新型バリスタが全く戦力にならず、シノン騎士団がその盾として戦うような状況であれば。もしも敵の戦力が予想以上に大きく、コロナ将軍たちが間に合わなかったら。エルバートの胸に深々と矢が刺さる、不吉な光景を想像して、クリスは眉を寄せた。
 いつだったか、彼の言葉を思い出す。
(人はいつか死ぬ。それは今日かもしれないし明日かもしれない。……俺も、案外早いかもしれないな)
 冗談めいた言い方に、不吉なことを言わないでくださいとクリスは怒った。エルバートも、そうだなと薄く笑っていた。彼はいつだって、隣にいた。クリスが落ち込んでいる時、どんな時も一番に気がついて、彼なりに慰めてくれた。それが当然のことだと思ってしまっていた。
(私は……)
 クリスはようやく、気がついた。既に、自分の中の大部分は、彼が占めていたのだと。

 朝日が高く昇る頃になって、コロナ将軍の部隊はナルヴィアに帰還した。
 帝国部隊は新型バリスタの活躍もあり、ほぼ壊滅。コロナ将軍が援軍に駆けつけた頃には、シノン騎士団とバリスタによっておよそ半数は片がつけられていたのだという。
 もちろんエルバートは、矢傷の一つもなく帰ってきた。
「エルバート!!」
 執務室と馬屋を行ったり来たりする最中、廊下でようやく見つけた背中に、クリスは大きな声をあげた。
「ん? クリスか」
 エルバートに駆け寄って、彼の身体をまんべんなく見てから、クリスは安堵で胸を撫で下ろした。
「無事だったのですね……良かった……」
「なんだ、心配していたのか?」
「当たり前でしょう! 危険のない任務だと言っていたのに、奇襲されたと聞いて……」
「……そうだな」
 見上げたエルバートの表情は、とても穏やかだった。のだが。途端に皮肉めいたものに変わってしまった。
「だがな、よく考えてもみろ。相手は弓騎兵隊だぞ。俺が負けるわけがないだろう」
 やけに自信たっぷりなその言い方に、沸き上がった気持ちは不思議と安堵だった。
「これも君の弓の練習に付き合った成果だな」
「……嫌々でしたよね」
「はは、まぁそう言うなよ。……つまりはあれだな、君が俺の命の恩人というわけだ」
 それは少し飛躍しているだろうに、と思ったが、クリスは曖昧に頷く。
「それに生憎、最後の晩餐は川蝉亭のスパイシーリブと決めているしな……まだ死なないさ。そんなに心配するなよ」
 相変わらず冗談なんだか本気なんだかわからないが、エルバートが優しく目を細めているのを見て、クリスは今度は強く頷いた。
「エルバート……」
「なんだ?」
「約束、ですからね」
「約束? なにを?」
 喉まで出かかった言葉は、しかし羞恥によってまた胸に戻っていってしまう。本当に今言うべきことなのかどうかも怪しかった。どうせずっと彼は傍にいてくれると思うから。だから焦る必要なんて、どこにもありはしない。
「……スパイシーリブの良さは私にはわかりませんから」
「は? ……」
「だから、私と川蝉亭に行くときは、絶対に頼まないでください。わかりました?」
「え、ああ……まあ、それくらいなら」
「それから」
 クリスは視線を逸らしながら、腕を組んだ。
「……川蝉亭に行くときは、私に声をかけてくださいね」
 え、と一瞬エルバートは顔を引きつらせる。彼から辛いものを取るのは少々かわいそうかもしれない。だが、すぐにエルバートはやわらかに目を細めた。
「毎日になっても良いのか?」
「ええ、構いませんよ」
「そうか、じゃあ今からでも?」
「良いですよ」
 クリスの素早い返事にエルバートは僅かに驚いた表情をしたが、それが彼の驚きの表情だとわかるのはクリスぐらいなものだろう。
「……今日のおすすめ、スパイシーエッグだそうです。それなら私も嫌いじゃありませんから」
 クリスはそう言って、微笑んだ。

(最後の晩餐なんて、食べさせないですからね)

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