薄灰色の煙が、街を覆っていた。高くそびえ立つこの鉄の城から、人々の営みを見ることはできない。淀んだ煙はどんよりと常に首都を覆っていた。
それをいつも高みで見ている自分はなんなのだろうかと、女は笑った。
「セリス」
低い声で名を呼び、体躯の良い男がその横にややぎこちなく並んだ。セリスは振り返らずに声と匂いでもって男を認知する。
「……レオか。ドマに向かうのではなかったのか?」
「ああ、今日にも帝国を発つ。その前におまえに話があってな」
ふ、とセリスは自嘲気味に笑ってレオを見上げた。
「話? ……さて、なんだか見当もつかないが」
今にも切りつけようかという鋭い声調に、しかしレオは穏やかに返す。
「セリス、おまえはフィガロに向かうそうだな」
ふん、とセリスはわざと冷ややかに笑った。ナルシェで行方不明になったティナをフィガロ王国が匿っていると、ナルシェ攻略を担当しているケフカから報せが来たのはつい先日のことだった。
セリスには、サウスフィガロ占領の命が下された。帝国の魔導士はなにもティナだけではないのだという脅しと、ナルシェ攻略の補給地にでもするつもりなのだろう。追ってケフカもサウスフィガロに寄るという話だった。
サウスフィガロは堅牢な砦のような港湾都市だが、既に裏では有力貴族を押さえてある。これから帝国の本格的な侵攻が始まるのだ。
「ケフカのお守りをしっかりやれとでも言うつもりか?」
レオはいつもそうだった。セリスの出陣の前には必ず顔を見せ、とりとめのない話をしていく。
「それもそうだがな……」
レオは穏やかな表情で遠くを見つめていた。
「何故だか、嫌な胸騒ぎがする。……気をつけて行ってこい」
「どういう意味だ?」
「……それが、私にもよくわからん」
ふ、と困ったように笑ってレオは腰に手を当てる。
「わからん、がしかし……おまえとは二度と会えないような気がしてな」
「何を……出陣の前に随分と不吉なことを言ってくれる」
「そうだな、すまない。忘れてくれ」
「レオがそういう迷信めいたことを言うとは珍しいな、なおさら不吉だ」
「迷信か……」
レオは遠くの暗い空を見上げ、なんともいえない表情で立ち尽くしていた。それにどこかセリスは胸を痛める。
「私はかの有名な常勝将軍だぞ? ……負けたりはしない」
セリスの言葉は、独り言のようですらあった。つと視線を城下に移すが、相変わらず曇ってなにも見えてはこない。
「もう行くのだろう?」
「……ああ。ではまた帝国に帰れたら良いな」
レオのその言葉には返事をしなかった。帝国に帰る、という言葉が不自然に思えたからだ。自分の祖国が帝国だという実感が、セリスにはなかった。
帝国大陸上の町の実状すら知らないのに。首都の民がどういう暮らしぶりなのかもわからないのに。それでどうして祖国といえるのか。
去り行くレオの背中を見つめながら、思う。本当に自分のしていることは正しいのかと。いや、自分だけではない。国は、ひいては皇帝は、正しいのかと。
帝国の行ってきた蹂躙は目を覆いたくなるようなものばかりだという。それを、セリスは最近まで知らなかった。
「ガストラは……お前達は世界を支配したいだけなんだろう!? 何故同じ人間にここまでの仕打ちが出来るのだ!! マランダの民を虫のよう殺しておいて、世界統一などと、よくも、よくもそんな綺麗事を言える!!」
耳の奥で、若い男が叫ぶ。もっとも、名前も知らないその男は今はもう生きてはいない。
「男は殺され、女は拐われて子どもは実験台だ!! どうしてお前達の野望のためにマランダが犠牲にならねばならないんだ!!」
帝国に下った国々の民は喜んで帝国の発展に貢献していると聞いていた。セリスはただ、耳を塞ぐ。
「俺たちは平和に生きていたのに……何故それを奪い取る!! お前達は人間なんかじゃない……魔導を振りかざして弱者を食い殺す、ただの獣だ!!」
男の首と胴が離れる。その断面から、一寸遅れて鮮血が噴き出した。男は死ぬまでセリスを睨み続けていた。死んでからも睨み続けていた。
マランダを攻略したあの日から、セリスは帝国の真実の姿を探し始めた。自身の身体に入っている魔導の力のことですら、セリスは詳しく知らなかった。知らされていないのだった。
名前もわからぬマランダの男の言葉は、深くセリスの心に突き刺さっていた。それを抜くには、帝国の潔白を見つければ良い。
だが。何一つ見つかりはしないまま、今日まで来た。迷ったまま、出陣しなくてはならない。
レオの不吉な言葉が、鋭利な欠片が突き刺さったままのセリスの胸に、黒く乗しかかる。
「二度と会えない……か」
「セリス将軍!!」
伝令の兵が、かつかつと靴音を鳴らしてセリスの背後までやってきた。兵士はセリスに向かい、きびきびと敬礼する。
「お探しいたしました」
「すまない。……それで、用件は?」
「は。出発の準備が整いました。アルブルクにてレオ将軍のご出港の後、我々はサウスフィガロへ出航予定です」
「わかった」
こくりと頷き、セリスは歩き出す。兵はそのやや後ろについて歩いてくる。
「ケフカはどうしている?」
「先ほど連絡がありまして、すでにサウスフィガロへ向かっているそうです」
セリスは思わず立ち止まった。ついて歩いていた兵は、その前に出ないように慌てて立ち止まる。
「何? フィガロでティナを保護するはずではないのか?」
「ティナ様を連れたフィガロ王は南に逃げ、フィガロ城は潜行してしまったとかで、仕方なく先にサウスフィガロへ向かわれるそうです」
くそ、と悪態をつきながらセリスは今度は早歩きで歩き出す。
「セリス将軍?」
「準備は出来ていると言ったな? 今すぐアルブルクへ行くぞ! すぐにでもサウスフィガロへ向かう!」
「で、ですがレオ将軍の……」
「レオを後にさせれば良い!」
背後からする兵士の泣き声など聞いてやる暇はない。
ケフカが先にサウスフィガロに向かったとなれば、のんびりとしている暇などない。サウスフィガロが地獄になる前に、奴を止めねばならない。
調べるまでもなく、帝国の非道の大半はケフカに責任があると言えるものだった。ケフカの隊は躊躇いなく毒を用い、私刑を行い、子どもを殺し、町を焼き払う。
今回の命令は「占領」だ。攻略ではない。だがケフカならばやりかねない。
降伏さえさせられればそれで目的は達成されるのに、むざむざ殺す必要はないし、それは皇帝だって望んではいないはずだ。
セリスはアルブルクに急いだ。迷いはあるが、帝国が正義か否かと人民の命はまた別の問題なはずだと思ったからだった。例え国は違えど同じ人間、いたずらに民を戦争に巻き込んではならない。愉悦のために殺すことなど許されない。許してはならない。
そうしたらきっと、自分は帝国を信じられなくなるから。
血の味だけが、やけに渇いた喉を潤す。鉄錆びと同じような臭いがするんだなと、今になってようやくセリスは知った。
ぺっ、と口内に溜まった血を吐き、セリスは目の前の華奢な男を睨む。男は色の塗られた爪先を、セリスの白い頬に添えた。
「おやおや……なんですその眼は? どうやらセリス将軍は帝国を裏切るおつもりのようですよねェ……まったく、私の兵を二人も殺してしまって……」
「帝国を裏切るのではない、ただ貴様が許せないのだ!!」
サウスフィガロのメインストリート、その真ん中で、両脇を屈強な兵に掴まえられたまま、セリスは吼えた。周囲はケフカの隊によって囲まれ、セリスの隊は皆、船に閉じ込められている。
突然起きた事態を恐れてか、フィガロの民の姿は、サウスフィガロ自慢の柵壁の上にちらほらと目につくくらいしかない。
「サウスフィガロは占領するだけのはずだ、それなのにケフカ! おまえは……」
一歩、腕を掴む兵を引きずってセリスは前に出た。血だまりに靴が入り、ぴちゃりと音が鳴る。
無論、それはセリスの血ではない。おびただしい量の赤黒い血が、港町の石床を汚していた。血だまりの中の帝国兵の二つの死体は、セリスが手にかけたものだった。毒を流そうとする彼らを止めるにはこうする他なかった。
「占領するための武力行為を否定するのですか? 将軍である貴女が」
「……武力行為? 貴様がしようとしたことはただの虐殺に過ぎない! そもそもサウスフィガロの占領は私に下された命令、私のやり方に従うのは貴様の方だ!」
「だーかーら、手っ取り早く毒を流せば良いでしょうと言ってるんです」
にんまり笑って、ケフカは血だまりを見下ろす。自分の部下の死体を眺めて、何故こんなにも楽しそうに笑うことが出来るのだろうか。セリスには、何一つ理解できない。
「貴様のやり方は人として、決して許すことのできるものではない!!」
ケフカに明らかな暴言を吐いた瞬間、脇を固める兵士に顔を殴られた。だがそれをケフカが片手で制す。
「甘っちょろいですねえ、セリス将軍様は。何をしたっていいでしょう? これは戦争なんですから」
「敵と言えども同じ人間だ! ましてや、罪のない市民を毒で皆殺しにしようとするなど……」
「ひょひょひょ、おかしいですねぇ、甚だおかしい! とっとと帝国に下ればこんなことにはならないのに、そうしないのがいけないんですよ!民も何もない、皆殺しだぁ!」
ケフカのけたたましい笑い声に、膓が沸々と煮えくり返るのがよくわかった。もはや間違いない。こいつは狂っている。
「おまえは……皇帝の御意志をなんだと思っている!」
「皇帝? ひょひょ、皇帝ですか? これはまた……愉快ですねぇ。……では私が皇帝に何を期待されてここにいるか、貴女にはわかりますか?」
問われた意味を考えることもせず、セリスはただ睨むことで返事をした。その視線に、一層ケフカは悦ぶ。化粧の施された顔を歪ませ、妖しくセリスを見つめる。
「それはね、これですよ。貴女が虐殺と呼ぶ、完全なる支配です」
「支配……?」
セリスの口から出たのは言葉ではなく、ただの音の連なりだった。ケフカの言っている意味が理解できず、セリスは呆然とする。それを見て、相変わらずケフカは愉快そうに声を上げた。
「貴女はその力を有効に使えていませんからねェ。だから私が貴女の代わりにしてあげているのです。つまり、私は貴女の尻拭いの為にここに来るよう、皇帝から直々に命じられているんですよ? わかります?」
「皇帝、が……? ……なにをふざけたことを……」
ケフカはにやりとし、セリスの耳元に来て囁いた。
「この毒を使えと、他でもない皇帝が仰ったんですよ」
「……皇帝、陛下が………」
聞きたくなかった。幼いころから自分を育て、養ってくれたのは皇帝だった。だからこそ、信じていたかった。帝国は、世界統一のために戦っているのだと。ただその欲望のまま、暴虐の限りを尽くす支配を望んでいるはずはないと、信じていたかった。
だが、狂ったケフカを皇帝が野放しにしているのは自明の事実だと、わかっていて、目を逸らしてきた。
くっく、とケフカは笑う。
「こんなカスどもは殺すしかない。選ばれし人間のみが、そうでない人間を力によって支配する。これが世界の真理ですよ、セリス将軍。そして、貴女は選ばれし人間であるのに……残念ですよ」
「そんな馬鹿なことを、よくも……!」
狂っている。ケフカも、皇帝も、帝国も。そう気づくのがもっと早ければ。
いったいいくつの命を無駄に奪い取ってきたのか。人を傷つけるしか能のないこんな力が本当に必要なのか、とセリスは思った。
体から力が抜けていく。
「私は……今まで、何のために戦ってきたと言うの……」
民のために、国のために。だが、自分は何も守っていない。ただ壊しただけで。
「私が信じていたことは……」
すべて間違いだったというのか。皇帝は、帝国は、世界を嬲り殺す、邪悪な獣でしかないのか。
くすくす、とケフカが笑った。
「力を使わない貴女は、皇帝にとっては無用の存在……もう帝国に戻らなくても結構ですよ。私も貴女が目障りでしたしねェ」
ケフカは楽しそうにその場でくるりと回ってみせる。
その挙動は、両脇を押さえつけられて身動きの出来ないセリスを哀れむかのように落ち着きがない。
「ああ、そうだ!!」
急に閃いたのか、やや慌ててケフカは胸元を探って薄紫の小瓶を取り出した。セリスが奪いとろうとした、毒が入っている瓶だった。ケフカはおもちゃを手にした子どものように、毒の小瓶を高く掲げ、日に透かす。
「良いことを思い付きましたよ。リターナーのゴミ共を駆逐した後に、これはドマで使うことにしましょうか」
「なっ……」
「ドマのクズ共がもがき苦しむ様を皇帝にも見せたいくらいですねぇ」
無感動に言い放ち、ケフカは顔を歪ませる。
ドマはレオの管轄域だが、皇帝がケフカに毒の使用を許したのが本当ならば、レオではケフカは止められない。
これではサウスフィガロは救えても、代わりにドマが滅んでしまうだけだ。では、この二人の帝国軍人を殺してまで止めた意味は。何も、なくなってしまう。
「ケフカ……っ!!貴様ぁ!!」
セリスは捕縛されたまま、もがいた。そして、叫んだ。ケフカはその様を見て高笑いする。
「さてさて、お前たち? さっさとセリス将軍を地下牢へ連れていってやりなさい。処刑は私がドマから帰って来たら、豪勢にやってあげますからねぇ」
「待てケフカ!!……やめろ……ッ!!」
結局ケフカを止められない、皇帝を正せない、帝国を、止められない。
無力さに、セリスは叫んだ。言葉にならない気持ちを、ただ叫んだ。
ならどうすればよいの。どうしたらよかったの。誰か教えて。誰か、誰か。
セリスの絶叫と、ケフカの狂ったような笑い声だけが、サウスフィガロに響き渡っていた。
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