階段

窓辺

 ほんの一瞬、実の兄すら気がつかないほど僅かな間だけ、マッシュは振り返って霊峰コルツの頂を見つめていた。
 拭ったはずの血が、今でも腕に染み着いているような気がして、自らの腕をそっと押さえる。
 バルガスは、死んだのだろうか。あの怪我で、あの高さから落ちて、生きているはずがないのは明らかだったが、師の時と同じように、その死を確かめることはできなかった。
 兄弟子を狂わせたものはなんだったのか。戦いの前に突きつけられた言葉から、考えるまでもなくわかっていた。力への固執。そして、もう一人の弟子が、己の立場を、受け継ぐべき技を奪ったということ。
 もし、もしも、フィガロを継いだのが兄ではなく自分であったならば、バルガスはきっと、真面目で優秀なダンカンの弟子であり続けていただろうに。
 いや、とマッシュは人知れず首を振った。
 変えられない過去など、考えても意味がない。今すべきことは、悔いることではないはずだと。兄弟子の業を背負い、生き抜くしかないのだと。
 
 バルガスが崖から飛び降りる間際、微かに聞こえた声があった。確かにバルガスは、小さくダンカンを呼んでいた。
 すべては小さな過ちだったのだ。それがやがて、こんなにも大きなうねりを呼んでしまった。
 最も罪深い者は誰なのか。マッシュだけはそのことを強く、理解していた。

 コルツ山を抜けてからは、ロックの言う通り、少し外れた道を行っただけでリターナー本部へとたどり着くことができた。
 そこで会ったリターナーの指導者バナンは、ティナに世界の希望となってほしいと説いた。だが、ティナは黙って首を振るだけだった。無理もないと思う。その場にいた誰もが、そう思っていた。
「ティナ」
 本部内の広間に、いたたまれなく座る小さな少女。世界の希望だなどといきなり言われた彼女の戸惑いの深さは、きっと誰にも理解はできない。
 呼ばれて、ティナはおどおどと振り返った。
「……マッシュ」
「迷ってるのかい?」
「ええ……」
 ため息のようにそう答え、ティナは伏せ眼がちに俯く。マッシュはその隣に腰かけた。
「ゆっくりでいいと思うぞ。そんなに急には、いくらなんでも無理だから」
「……でも、私にはやっぱり、できない」
「どうして?」
「怖いの……自分の力が。そしてそれを使うことも……怖い」
 か細く、ティナはそう呟いた。
 そうだ、とマッシュも頷く。力を振るうことは恐ろしい。しかし、恐れなければいけないものでもある。そうでなくては、力はただ壊すだけの代物になってしまう。
「……俺は、力っていうのは、誰かのために振るうべきものだと思う。親や兄弟、友だちや守りたい人のために」
「力を……誰かのために?」
「ああ。だから、力があるっていうのはすごく尊いことなんじゃないかなぁ」
 こく、とティナは小さく頷いた。それは肯定ではなく、理解したという意味のように見えた。
「俺から言えるのはこれくらいだけだな。……」
 マッシュはおもむろに立ち上がった。これ以上言えば、強要になる。だから誰もがティナに近づかない。
 あの兄でさえも、ティナに話しかける様子はなかった。それはあまりに酷ではないかと思う。自分で答えを見つけるには、まだティナには早すぎる。あるいは、マッシュがこうしてティナに話しかけてやることは兄の想定の内なのかもしれない。
「……ありがとう」
 ティナは抑揚ない声で、しかし真摯にそう言った。マッシュは薄く笑って応える。
「いんや、大したことを言えなくてすまない。……無理するなよ」

 思い悩むティナから一度離れ、本部の洞窟から外に出てみると、すでに空には大きな月が出ていた。
 コルツ山の後ろに上がった月を眺めながら、マッシュはため息をつく。
「……マッシュか?」
 上から、軽やかにロックが飛びおりてきて草地に降り立った。
「なにやってんだよロック」
 ティナはずっと悩んでいるのに、とマッシュが口を尖らせて見せると、ロックは申し訳なさそうな表情を見せる。
「いや、俺もティナが心配なんだけどさ……かける言葉が見つからないんだよ」
 自分自身への苛立ちでか、ロックは額のバンダナを忙しなく撫でていた。
「ティナにはもちろんリターナーに協力してほしい。だけど本当にそう伝えたら、ティナはきっと頷くだろ。それは、帝国が彼女を洗脳したのと変わらないじゃないか」
「ロック……」
 虫の音が、辺りを包む。砂漠からだいぶ遠いこの地域の夜はひどく涼しく、心地よい。それなのに、周りを囲む陰鬱な、どこか重苦しい気配はなんなのだろう。
 マッシュはたまらず、壁に寄りかかった。
「……なぁ、ロックが戦う理由はなんなんだ?」
「え?」
「リターナーって、反帝国組織だろ。ロックもなにか……あったんだろ?」
「……ああ、そうだ」
 ぎゅ、と布が絞られる音がした。それはロックの手袋だった。
「俺はレイチェルを……恋人を、奪われた」
 ロックは、まるで今目の前でその事が起きたかのように、苦しそうに眉を寄せてそう呟いた。きっとロックにとって、それはまだ過去のことではなく、未だにロックを縛る記憶に他ならないのだろうと思えた。
「リターナーに与しているのは……帝国を潰したいからだ」
「帝国が、憎くてたまらないか」
 問いかけに、一瞬、ロックは答えに窮した。
「、……ああ」
 それがひどく、マッシュには引っかかった。こんなにも憎しみを抱いている人間が、即答しない問いではなかったはずだ。少なくとも、十年前の自分はそうだった。
「おまえはやっぱり良い奴だよ」
「……えっ?」
「ただ復讐したいだけってわけじゃないんだろ?」
 そう言われたロック自身が、一番驚いているようだった。すぐに激しく頭を振って、それを否定した。
「そんなことは……ないぜ。買いかぶりすぎだ。俺は帝国が憎い。滅びればいいとすら思ってる。……同じ人間なのにな」
 だが、言葉を積めば積むほど、ロックの心の奥が見えてくるようだった。
 ロックが一番憎んでいるのは、帝国ではない。滅びればいいとすら思っている相手も。
「……あまり、自分を責めるなよ」
 ただ、マッシュはそう告げた。ロックに正しく伝わるとは思えなかったが、それ以上はやはり言ってはならないような気がした。
 俯くロックから、遥かなコルツ山に視線を移す。
「……ロック、あれ、なんだろう?誰か……来るぞ」
「え?」
 こちらに向かってくる、人影があった。月に照らされるその足取りは、ひどく不安定だ。
 ざわざわと草木が風に揺れる。この不安は一体、なんだろうか、とマッシュは胸を押さえた。

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