マシュセリ

天国に一番近い島

 そのぬくもりを知ったのは、暗闇の底に沈むような寂しさが余りに途方もなく、永遠に続くと思えた孤独の恐怖に泣いた夜だった。
 二度と取り戻せない過去のくだらない感傷に襲われて、もう自分の意志では止められなくなった涙を、思いの外優しく拭ってくれた熱い拳があった。
 その手に縋ると、視線が絡み合った。それが憐れみの目と知っていて尚、吸い寄せられるように唇を重ねた。この熱がこの寂しさを埋めてくれるなら、それでこの一時を生きながらえられるなら、この身を助けてほしいと、そう思った。
 彼はその大きな手のひらでそっと優しく触れてから、熱を分け与えるかのように強く、強く、身体を抱いてくれた。全身を熱で包まれて、心地良さに溶けてしまいそうだった。
 その優しさに溺れて身を預けたのは、決して間違いではなかった。過ちでは、なかった。だが、愚かなこの衝動こそが、その優しさを真実手に入らないものにしてしまった。寂しさに怯えたその瞬間そこに居てくれたのならば、誰でも良かったのだと、お互いに感じてしまっていた。

 
 決戦の前夜も、こころの安らぎをもとめてその手のひらを求めた。これで終わる、なにもかも。お互いにそうと思いながら、なにも言葉にすることなく、身体を重ねた。体内に全くの異物を迎え入れるというのに、身体はもはやそれを異物とは認識していないかのようにスムーズに受け入れてしまう。最初はあれだけ苦しかったのに、ひどく奥まで入り込むその感覚に己が焦げついていく。ただ彼にすべてを委ねてしまえる、その感動だけがあった。
 為すがままになりながらも、今夜で最後ならば何かが欲しくて。腰を支えるその手に触れて、指を絡めようとした。貪欲さに辟易されて、振り払われたらどうしたらいいかと不安に思った途端、噛み付くように手のひらが組みついてきた。まるで求めるかのような動きが、それこそが、最後の贈り物なのだと思えた。
 律動につい漏れてしまう声は獣のようなのに、そんな己の姿を見下ろす目は、慈愛に満ちている。もし、この胸の空洞を本当に埋めようとしてくれているなんて、そんなことが微かでもありうるなら、嬉しくて蒸発してしまうかもしれないと思えた。だがあり得るはずもなく、尋ねることもできず、汗だくの身体はやがて夜の空気に冷えていった。
 熱い身体の傍に横たわり、目を閉じて、眠った。これが最後の安らぎだと噛みしめながら。
 乱れた髪をそっと直されているような、優しく頭を撫でられる、都合の良い夢を見た、気がした。


 すべての戦いが終わって、ひとり、孤島に戻った。何もない、誰もいない、静かな島だった。
 日が昇り、海が波打ち、そしてまた日が沈む。家族と思おうとした人の亡骸を隠して、波は寄せて、引いて、繰り返す。
 まるで囚人のようだった。この島を旅立ったその瞬間から、この牢獄の中に、己はいたのだ。時だけが流れ、己は変わらずここに立ち続ける、さながら呪いのように。
 思えばかれこれ長らく、この身体は呪われた身だった。好きに作り変えられて、それを受け入れて生きてきて、そして今、またただの人間に戻されて、この牢獄に舞い戻った。全ては無意味な戦いだったろうか。いや、強大な力に抗い、命を尽くし、世界を勝ち取ったのは無駄ではない。この世の今を生きる人々が、世界をより良いものにしていってくれるはずだ。
 無駄なのは、ただ唯一、己だけだった。
 新しい世界に役目も無く、育むべきものもなく、ただ朽ちていく。旧世界と共に滅びるべきだったものが、戦いのために生きながらえていただけだ。寂しさを埋めて、なんとか立っていただけだ。
「……また私は、寂しい、のかしら…………」
 夜の闇に紛れて分け与えられた熱は、汗と共にシーツに吸われて跡形もなく消えてしまう。朝が来ればまた寂しさがこころを襲い、限界の前にまた彼の手のひらに縋って、ずるずると前に進み続けた。その醜い生き方を、彼はなんと見ていたのだろう。
 決して愛を口にせず、名前だけを呼び、肉と肉を交え続けた。彼にとって、それはどれほど無為な時間だったろう。
 砂浜に寝転び、空を仰ぐ。そのまま空に、あるいは海か砂に、溶けてしまいたかった。だが許されなかった。
 無償に寒かった。寂しかった。欲しいと思ったのは、その熱だけだった。
 くだらない感傷と知っていても、しかしやはり涙は止められなかった。砂浜は涙を吸ってはくれても、この身体とは溶けてくれない。
 この狭い島のなかで己は孤独で、この広い海のなかでも、空の下でも、砂の上でも、己は孤独だった。
 自らの手を組み、指を絡ませて。あの夜の、熱がそこにあった時を思い。もう二度と手に入らぬという事実が、しかし一度はあったのだという記憶が、感情を上塗りした。
 この身は、生きるための優しさを受けた。何度も何度も、丹念に、壊れ物を扱うかのように、そっと。
 今、孤独に落ちたとて。受けた優しさはなくなりはしない。何かに溶けて消えられないのは、そのせいなのかもしれなかった。こころが、その思い出がこの世から失われることを拒んでいた。
 もはや溶けて消えることが選べないのならば、それなら。
 ここで何かを、しよう。誰の為でも無く、ただ己の為に。


 どれだけの時間が経ったか、ふと気が付けば、大きな船が島の近くに現れるようになった。
 ただただ太陽の下、開墾と植栽を繰り返すだけの日々に、船の出すけたたましい音が加わった。あれだけの距離があって、ここに音が届くのだから困ったものだろう。
 旧世界ではあれほどの船を造れるのは帝国だけだった。周りの国には一定以上の船を造るのは許されず、厳しく取り締まられていた。今の世界にあれだけの船があるということは、きっとおそらく。あの船は、あの優しい人の祖国の造船なのだろうという気がした。 
 きっとその国は、彼と共に豊かに、美しく、前に進み続けているのだと思う。かつて熱を分けた相手が、こんなところにいるなどとは露も知らず。いや、この先もずっと、知らないでいてくれればいいと思った。すべてを忘れて、しあわせにいてくれればただ、それだけで良い。そう思える自分になりたいと願っていたからこそ、そう強く、思った。
 どれほど時間が経とうと、最後の夜を思い返すだけで、胸に滲むように鈍痛が広がっていく。それはただ、寂しい、という感情だと思ってきた。だが、もしかしたらそれだけではないのかもしれない。日々育ち、枯れていく草花と向き合うなかで、己がもっと複雑な感情を持ち得ていたことに気が付いていた。だが、それだけだ。
「すべては過去のこと。……もう、交わらないもの」
 進むべき方向が異なり、生きる地も違う。二度と、その目を見ることは、ない。再び作業に戻って、しばらくすれば、船は水平線の向こうに消えていた。

 何度目かの春が来て、すっかり島は様変わりをしていた。あちこちで花が咲き乱れ、木には実がなり、荒野ばかりだった地は見違えるほどに鮮やかになった。
 こんなに美しく穏やかな景色を、己がこの手で作り上げた。満足し、そして、こころにあった大きな穴もいつのまにか消え去ったかのようで、いまや穏やかに凪いでいた。
 藁で編み上げた帽子を背にやって、花畑の真ん中で深呼吸をする。もう、溶けたいとは思わない。消えてしまいたいとも、思わない。ただ、ここで息をしていたいと、思った。
 ごろりと草のベッドに寝転んで、いつかのように空を仰いだ。青々とした空は、終わりが無いように見えるほど、高く、遠い。この空の下で、きっと誰しもが孤独で、そして同じなのだと思えた。
 己の手と手を組んで、腹に乗せる。そこにある熱は、己のものしかない。寂しい、けれど、満たされもする。ここにいるのだと、わかる。それで充足した気持ちになれた。
「……でも、ここに……貴方がいてくれたら……良かったのに」
 願っても仕方ないことを口にして、苦笑する。ここに彼がいて、笑ってくれて、肯定してくれたら。優しく頭を撫でてくれたら。一緒に土を掘り、花を嗅ぎ、実を分かち合えたなら、それはもっと、美しい何かになったのではないのかと。
「貪欲だわ、……ふふ」
 くつくつと独り笑っていると、遠くから船の音が響いてくる。また巨大船が巡航してきたのだろうと気に止めることもなく、花の香りで胸をいっぱいにして、目を閉じる。



「……ああ、本当に、こんなところにいたのか」
 顔にあたる日差しが突然、陰る。大きな人影が、頭上に立っていた。幻ではと声を掛けようとして、ぼとりと落ちてきた生暖かな雫に、びくりと身体が硬直する。
「……綺麗なところだ、……随分苦労したろ」
 顔の横に膝をついて座り、労うように頬を撫でたその手は、いつかのように熱っぽく、そして何かを堪えるように微かに震えてもいた。
「貴方は元気そうね。良かった、……」
 その名を、ひどく久しぶりに、呼んでみる。彼は応えるように口角を上げてみせて、その衝撃で目尻に溜まっていた涙がまた、落ちてくる。どうしてそんな風に泣くのか、何もわからない。それでもただひとつ、会えて嬉しいという気持ちだけが、きっとお互いの真実だった。
「……どうしてここに?」
「綺麗な島ができたって、皆が言うんだ。花が咲いていて、眩しいところがあるって。まさかと思って……」
 己がどの島から抜け出して彼に出会ったかなど、言ったことはない。そんなことくらいで、まさかと思う方が普通ではない。怪訝な顔をしたのに気が付いたのか、彼は苦笑いした。
「いや、そうだな。……直感だ。……ただ、君が、いるような気がしたんだ。この花畑の真ん中に」
「それは……随分、不思議なことを言う人だわ」
 頬を撫でる手を取って、やんわりと、指先を絡める。ああ、いつぶりだろう、このぬくもりは。手に入れたくて堪らず、けれど口にすることはついぞなかった。時がこころをほぐした今は、素直に言葉が口から漏れてくる。
「会えて嬉しいわ。……わざわざ私に会いに来てくれたの?」
「ああ。そうだ」
 ぎゅうと手を握り返されて、あの日のように、胸が苦しくなる。最後の贈り物と思っていたものが、また与えられたというのは、一体どういうわけか。
「嬉しい。……本当に、嬉しいわ」
 焦がれた熱が、ここにまた、ある。その事実がじわじわと心に迫り上がってきた。
「……貴方と見たかったの、この景色を。今、それが果たせて……本当に、嬉しい」
「俺と?そうか……」
 俺も嬉しい、と答えるその頬の涙を拭って、頬にぺたりと手のひらをつけると、彼は動きを止めた。慈愛に満ちたその瞳は、変わらない。変わらない気持ちで、こちらを見つめていてくれている。
 いつかのように、それに吸い寄せられるように。彼の頭を引き寄せて、唇を重ねた。彼は拒まなかった。胸の奥の奥に、大切にしまっていた思い出が爆発するように目覚めては、頭を駆けていく。唇を合わせて、指先を絡めて、肌と肌で、体温を分け合って。身体の奥でひとつになった。何度も何度も、苦しい時に、救いの光のように、その熱を求めた。 
「ひとつ、……聞いてもいい?」
 目が合って、許すという風に瞬かれて、頷く。
「……貴方も、寂しいと、思ってくれていた時が……あったかしら?」
「ああ、」
 今日までずっと。その答えに、言葉を失った。風が吹いて、花びらを巻き上げて飛んで行く。鮮やかな世界の真ん中に、今、彼がいた。


 この世の果てに、島がある。そこには幸せに包まれるような、美しい花園があると、人はいう。だがどうしてその逸話が、その島より遙か遠く砂漠の国に伝わっていることなのかを知る者は、もういない。
 

コメント

  1. 以前からのストーカー より:

    更新お疲れ様でした!

    なんか不思議な感覚なお話ですね
    コメディタッチのお話も良いですがシリアスな話もやっぱり良いですわーー!
    名前が直接出て来なくてもマシュセリだとわかってしまう自分が嬉しいです

    寒暖差が激しくなってなおかつ花粉も飛び始めてますので、ご自愛ください

    • お読みいただきありがとうございます~
      あらゆる方面に謎な話で困惑させましたね…すみませんすみません…
      読む人の想像に助けられてるやつなので、自由に取ってもらって大丈夫です…。

      シドが亡くなるとほぼこういう雰囲気になってしまうので、次は生きている話にして明るくしたいな…

      寒暖差ホントに!服装考えるのも毎日大変ですよね…お互い体調には気をつけて年度末までがんばりましょう~…💪

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