夕焼けの茜空に、船は飛ぶ。蘇った翼は、あの日見たそれよりもずっと速い。今の自分なら、こんなにも上手くファルコンを飛ばせてやれるようになった。
見せる相手などとうに居ないのに。それでもこの世で最速は自分なのだと、操舵しながらセッツァーは独り、笑った。
「………?」
不意に、風に混じって聞こえるものがある。セッツァーは目だけを動かして、それを探る。
「歌か?……」
野郎だらけのこの船に、こんな声が出る者は唯一しかいない。細かく操舵せずともしばらく問題ないことを確認してから、セッツァーは誘われるように、その声のする方へ足を向けた。
操舵室から出て、甲板を歩く。美しい金の髪を風に踊らせて、そこに立っているのは当然、セリスだった。
夕日を受けて、その髪がオレンジに照る。いつか追いつくことを焦がれて見つめたものとは異なるのだとわかっていて、ただ手を伸ばしたくなる。
だが触れればその歌声は止まるだろうと、セッツァーは俄に首を振って、その場に立ち止まった。
こちらに気がつかないまま、風に乗って歌声は続く。知らない歌だったが、妙に落ち着いた旋律が続いていく。追憶、慰め、安息。散りばめられた語彙から、恐らくレクイエムなのではないかと悟る。
そうだとも、とセッツァーは自嘲した。ここは一度死んだ船の上。なによりも相応しい歌だろう。だとしても、とわずかに空を仰ぎ見て、また首を振る。安らかな眠りを与えることは、まだできない。鎮魂を捧げるには、まだ早いと。
この歌を届けたいその先は、遠くに消え去ったあらゆる業なのだろう。静かに広がり雲のように棚引いて、どこかに辿り着くのを祈った、物悲しくとも力強い、祈りの歌。
ふと音が止まったのに気が付いて、セッツァーは薄く笑ったまま小綺麗な音を立てて拍手した。たった一人のための拍手は、空に響いて消えていく。
「……声を掛けてよ。……恥ずかしいから」
「まさか。思わず聞き惚れる、素晴らしいショーだったぜ」
歌い終えて振り返ったその表情は、背後から受ける夕日の影になり、窺い知れない。だが、声色は少し困った風に聞こえた。
「見世物じゃないわ」
「当たり前だ。俺以外に見せたら承知しない」
眩しさに目を薄めながら、セッツァーはセリスの隣に並ぶ。
「……アンタの国の歌なのか?」
「え?ああ、……そうね、貴方が知らないなら、そうなのかもしれない」
「生憎、俺は信心深くはないからな。祈りの歌は詳しくない。……帝国育ちのアンタもそういう価値観かと思っていたが、意外だな」
「貴方の言う通りよ。だから、こっそりね。……大切な人達を弔う心までもを国に捧げたわけじゃないから……」
「弔いか……」
結局のところ、そのけじめを付けることが出来ずにいたくだらない人間は己だけだったのかと。セッツァーは、果てない遠くの空の彼方を見やる。
そこにいるのではないかと、ありもしない幻を追って、いつまでも友を寝かせてやらなかった。或いは今も、心のどこかで。
「……いなくなった者達に、残された者が手向けてやれるものが、今更あるだろうか」
或いは、何を手向けてやれば、快く送り出してやれるのだろう。最後の挨拶をやり直すのか、あるいは、また会えた時の約束を交わすのか、もしくは、生き続ける間はもう決して思い出さないと誓うのか。いずれにしても。
「何も……ないのかもしれない」
答えて、セリスも同じように遠くを見る。その横顔に視線を向けて、その表情の苦しさに、その唇が紡ぐ鎮魂の祈りの意味をようやく悟った、ような気がした。
「……何も、ないとわかっていて、祈っているのか、アンタ」
頷くようにセリスがその顔を俯けた。途端、はらりと美しい金の髪が、流れ落ちる。夕日に溶けてしまいそうな不安を孕んだ金糸が、風に力無く揺れている。
「届く時は二度と来ないと……わかってはいるの。無駄なことと知ってもいる。……だから、これは自己満足でしかないのかもしれない。どこか知らない波打ち際に流れついて、誰かのつま先にぶつかってくれれば、って……」
「……そうか」
祈りに、心の安寧を見る人達がいる。それを嘲笑するだけの人生だったと、セッツァーはわずかに唇を歪めた。己の欲望の成就を祈るばかりの醜い者達を、掃いて捨てるほど見てきた。だが本来の祈りとはもしかしたら、他者の安息に自らも安堵する者が、己と他者のためにひたすらに希うことなのかもしれない。
「……俺の性には合わねえな」
「えっ?」
きょと、と素朴な疑問を浮かべたその瞳を、にやりと笑って見返す。
「ただ出目が揃うのを待つなんてつまらないだろう。確率的には決して揃わないものなら尚更だ」
「……そうね、いつまでも続けるのは、間違っている、のかも」
明らかにこちらに配慮して語尾を付け足した風なセリスに肩を竦めてみせてから、セッツァーは笑みを消した。
「……生きている限り、前に進まないといけない。俺も、アンタも……そして、この世界も」
進まなくなった者達を置いて、歩き続けなければいけない。それは生きている限り決して逃れられない唯一の運命。
「ええ。……わかっている」
「そうか、……」
苦しくても、前を向いて歩こうとする。相変わらずだなと、セッツァーは思わず手を伸ばした。風に舞う髪を抜けて、その白い頬をするりと捉える。セリスはわずかに硬直したが、避けなかった。
「……なら、この唇は、」
目が、合う。そのまま、形を確かめるように、セリスの赤い唇を親指でなぞっていく。やわらかなそれは、ふにりと形を柔軟に変えてセッツァーの指先を受け入れていくようだった。
「もっと鮮やかな色の音を奏でるべきだ。レクイエムだけじゃ華がない」
「……華?じゃあ貴方のオススメは?」
窺うような、射貫くような瞳で、セリスが問うた。最初の答えは当然、これしかない。
「勿論、セレナーデはどうだ?」
「残念だけど、あまり知らないわ」
笑ってそう言うセリスに、好都合だと、笑い返す。
「なら俺が教えてやる」
「あら……役不足なんじゃない?」
「適任の間違いだろ。試すか?」
指先に力を入れて、やや強引に顎をこちらに向けさせる。セリスの余裕ある笑みが、崩れた。無論、そこにもともと余裕などなかったのは知っていた。
所在なさげに伏せられた長い睫毛が、夕陽を受けて海のように輝いていた。その奥に隠れる水面のような瞳もまた、エメラルドのように美しい。矯めつ眇めつ見つめて、何度でも見惚れてしまう。この目がこちらだけを見つめて、その形良い唇からうっとりするような歌声を投げかけるならば。誰の手にも、渡しはしない。
「そうだな。……俺が教えた歌は、俺の前でだけ歌う。そういう契約はどうだ?」
「……なら、貴方は拍手を欠かさないっていう条件も追加してもらえない?」
再び目が合って、セリスはセッツァーがわざと蒔いた言葉にまんまと乗ってきたようだった。だが随分と妙なオプションに片眉を上げつつ、セッツァーは了承する。
「勿論だ。言われずともとびきりの音を鳴らすぜ」
「それは楽しみね」
「そうか?なら契約成立の証をもらおうか」
わずかに威勢を取り戻した風なその唇を、わざと少し強く指の腹で押した。途端、真っ赤になって真顔になったセリスに、思わず笑いが漏れてしまう。
「な、……なにを、」
「なに?相変わらず愉快な奴だな」
非難の声が飛んでくる前にと、セッツァーは一歩前に出て、セリスの白い額に口付けた。
「俺のために自ずから歌ってくれるようになるまで、そこは預けておくぜ」
名残惜しみつつ顎から手を離すと、セリスはしばらくその場に固まっていた。思いの外効くらしい、とつい薄く笑って、時を進めさせるように軽く肩を叩いてやる。
「どうした?すぐにでも練習したいのか?」
「あ、……貴方こそ、拍手をさぼったら、承知しない」
なんとも可愛げのある言い返しに笑いが堪えられず、セリスに背を向けて、片手を振ってやる。
案外早くその日が来るだろうと、上りくる月の薄い影を見上げながらセッツァーは肩を竦めた。
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